27:イヤリングの影
会場から離れた女性控え室。
「はぁ、はぁ……」
パーティーの真っ只中、クレアはドレッサーに手をつき、息を荒げていた。
汗でアイシャドウが滲む。
鏡に映った自分の顔を見て、クレアは衝動のまま腕を払った。
ガシャン!
乾いた音が、控え室に反響する。
床に落ちた化粧品の中身が散乱し、香料の匂いが充満した。
「うっ……」
クレアは眉間の皺を深くし、その場にうずくまる。
「奪わないで……奪わないで……」
頭を押さえ、うわ言のように繰り返した。
その瞳は虚ろで、涙が滲んでいた。
***
(お肉、美味しかった……)
お手洗いを済ませたフィオナは一人、人気のない廊下をのんびりと歩いていた。
耳を澄ませると会場の音楽がわずかに聞こえる。
その調べに合わせるように、外では虫がさざめいていた。
『誰と踊った??』
そこに軽い声が割り込む。
突然現れた茶髪の霊に、フィオナは訝しげな視線を向けた。
「……来てたの?」
『そりゃ来るよ! パーティーなんて青春群像劇の宝庫じゃん!』
フィオナとは対照的に、霊は目を輝かせて天を仰いだ。
「霊って、場所か人に縛られるんじゃないの?」
フィオナは自由奔放な霊を見て、ふと感じた疑問を口にする。
以前出会った霊のコーディは、『霊っていうのは未練のある場所か人に縛られるんだ』と言っていた。
しかし取引を持ちかけてきたこの茶髪の霊は、アカデミーに縛られているようにも、誰か特定の人物に縛られているようにも見えなかった。
『……縛られてるよ』
茶髪の霊は、フ、と薄い笑みを浮かべる。
『フィオナにはまだわかんないかもしれないけど、愛するが故に離れるっていう選択肢も……』
霊が腕を組んで語り始めた時――、
『苦しい……ここから出して……!』
どこからか悲痛な声が聞こえた。
「!」
フィオナは思わず立ち止まる。
『どうした?』
「今、声が……」
周囲を見渡しても人の影はない。
『何で……何で、奪うの?』
今にも消えてしまいそうな女性の声が、こめかみの奥に響く。
(あの時と同じ……)
フィオナは、街で中性的な司祭と出会った時のことを思い出した。
『もう嫌……つらい……ッ憎い……!!』
「ッ……」
前回と同じように、悲痛な声が強い語気へと変わっていく。
フィオナはズキンと脈打つこめかみを押さえながら、目先に見える扉を見据えた。
(多分、あの部屋にいる……)
『ヤベーのいるの?』
額に汗を滲ませるフィオナの顔を、霊が覗き込む。
「……あなたは聞こえないの?」
『霊同士は会話できない。なんとなく存在はわかるけどな』
「あああッ!!」
突然、叫び声が空気を裂く。
先ほど脳裏に響いた声とは別の、生きた人間の声だった。
続いて、扉の奥から何かが倒れるような音が聞こえた。
『行くの? 関わらない方がいいんじゃない?』
扉に向かって歩き出したフィオナに、霊が真剣な表情で問いかける。
「助けられるかもだから」
『……オッケー、付き合うぜ』
フィオナの返事を聞いた霊は笑みを浮かべ、フィオナの隣に並んだ。
扉の前に立ち、冷たいドアノブに触れる。
ごくりと息を飲んでから、フィオナは一気に扉を開けた。
「!」
化粧品特有の匂いが鼻を突く。
思わず眉をひそめたフィオナの視界に、うずくまるクレアの姿が映った。
肩を小刻みに揺らして、苦しそうに息をしている。
すぐそばにはドレッサーの椅子が倒れていた。
「……」
乱れた髪の間から、充血したピンク色の瞳がフィオナを射抜く。
その瞬間、クレアのイヤリングに亀裂が走った。
『この子ね……あなたから全てを奪ったのは……』
亀裂から黒いモヤが溢れ出ていく。
モヤはクレアを包み込むほど大きくなり、やがて人の形を成した。
(金髪の人に憑いてた霊……!)
桃色の長い髪を持つ女性の霊。彼女は元々ジャスパーに憑いていた霊だった。
『わかるわ。憎くてたまらないでしょう』
「う、うう……」
女性の霊がクレアの耳元で囁くと、クレアは呻き声をあげて絨毯に爪を立てた。
『消してしまいましょ? そうすれば、奪われない』
「……ッ」
狂気に満ちた二人の瞳がフィオナに向けられる。
フィオナは頭の中を鷲掴みにされたような、強烈な痛みに顔を歪めた。
視界が揺れ、呼吸が浅くなる。
ここまで強く霊の影響を受けるのは初めてだった。
『フィオナ、大丈夫。深呼吸して』
そんなフィオナの肩に、茶髪の霊が優しく手を置く。
実際に手のひらの感触があるわけではない。
しかし不思議なことに、肩がじんわりと温かくなり、そこから痛みが抜けていくように、スッと頭が軽くなった。
振り返ると、茶髪の霊はいつも通りに笑っていた。
『ヤベーのいるっぽいけど、どうする?』
「……イヤリングが原因みたい。あれを外せたら……」
「やめて!!」
声を張り上げたクレアが、ゆらりと立ち上がった。
「これ以上……ッ私から奪わないでよ……!!」
充血した目でフィオナを睨む。
右手には化粧品の瓶の破片が握られている。
手に滲んだ血がガラス片をなぞり、先端からポタポタと滴り落ちた。
絨毯を染めていく鮮血を前に、フィオナは思わず後ずさった。
『フィオナ、一旦逃げよう』
「……うん」
フィオナはヒールの靴をその場に脱ぎ捨て、走り出した。
「待ちなさいよッ!!」
『逃がさないわよ』
女性の霊を背後に背負ったクレアがそのあとを追いかける。
(会場から出なくちゃ……!)
フィオナは後ろを確認しつつ、走るペースを調整した。
逃げ切ることが目的ではない。
まずは会場から離れ、他人を巻き込まないようにすることが最優先だった。
『あそこから出られそうだな』
裏口を見つけ、そのまま外へ飛び出した。
芝生のチクチクとした刺激を感じながら、裏庭の奥まで進んでいく。
(汚しちゃった……)
土汚れがついたドレスの裾を見て、フィオナは心苦しそうに眉を下げた。
「はあ、はぁ……」
外壁に突き当たったところで振り返ると、裏口からクレアが現れた。
一歩一歩フィオナに近寄るが、カクン、カクンと不自然に身体が揺れている。まるでマリオネットのような姿だった。
ドレスに隠れた彼女の右足首は、痛々しく紫色に腫れていた。
『さあ、邪魔な女は消しちゃいましょう。そうすれば、あなたの望みは叶うわ』
「私が、一番なの……一番じゃなきゃ、私じゃなくなっちゃう……!!」
その瞳に、もはやフィオナの姿はなかった。
『もう自我を失ってる』
「……うん」
フィオナはクレアの背後に佇む女性の霊を、しっかりと見据えた。
「クレアさんを解放して」
『……私に言ってるの?』
目を丸くした女性の霊に聞かれ、フィオナは静かに頷く。
『あははは!』
甲高い笑い声がフィオナの鼓膜を支配する。
『……可哀想な子』
ひどく冷たい語気だった。
攻撃性はないのに、その言葉はずしんとフィオナの胸の奥に沈んだ。
『そんな力、いらないでしょ? 呪いのようなものだもの』
女性の霊は嘲笑を浮かべる。
(呪い……)
フィオナは足元の芝生に視線を落とす。
今までに何度、「視えなければ」、「聞こえなければ」と願ったかは計り知れない。
(少し前までは、そう思ってた……)
しかし――聞こえる能力は、ラウルからの"祝福"であることを知った。
そして、視えるからこそ、得られた出会いもあった。
『ああ、本当に可哀想。あなたも、誰からも愛されずに死んでいくのね』
「私は……自分を可哀想だとは思わない」
フィオナは背筋を伸ばし、落ち着いた様子で言った。
『……強がらないでッ』
女性の霊は奥歯を強く噛み、フィオナを睨みつける。
針で刺されたような頭痛を感じ、フィオナは思わず後ずさった。
その時――、
「ふふ」
空気が凍りついたように止まった。
聞こえたのは小さな笑い声。
「!」
いつの間にか、フィオナと女性の霊の間に男が立っていた。
二人のどちらにも背を向けない位置に立ちながら、その視線は誰にも向いていなかった。
「霊と会話までできるんですか? すごいですね」
白いマントを羽織ったイライアスは、貼り付けたような笑みを浮かべていた。
小さな拍手の音が、場違いなほど軽く、乾いた空気に鳴り響く。
『お前……ッ、許さない……許さない許さない!!』
その音を掻き消すように、女性の霊が張り裂けるような声を上げた。
イライアスに向けられた瞳は血走っていて、肩が震えるほど強く拳を握っている。
全身から、積もり積もった憎悪が滲み出ていた。
「か、は……」
その圧に耐えきれず、クレアがその場に崩れ落ちた。
「……っ」
フィオナは両手で頭を押さえる。
茶髪の霊が背中に手を添えてくれたおかげで、なんとか堪えることができた。
「守護霊もいるみたいですね。本当に興味深いです」
イライアスは口角を上げたままフィオナの奥を見つめ、目を細めた。
そして一歩、フィオナへと歩み寄る。
『お前たちだけは……ッ!!』
背を向けたイライアスに、憎悪に顔を歪めた女性の霊が迫っていく。
しかしイライアスが手をかざした瞬間――、
『うう……ッ!』
女性の霊の動きがピタリと止まる。
苦しそうな呻き声が何度も漏れる。動きたくても動けないようだ。
「なかなか大きくなりましたね」
イライアスは女性の霊を一瞥だけして、再びフィオナを見つめる。
厳密には、フィオナの耳に揺れるイヤリングを見ていた。
「オパール……アパタイトよりはマシか」
フィオナの目の前まで来たイライアスが小さく呟く。
そして、霊にかざしていた左手を動かした。
その動きに引っ張られるように、女性の霊が宙に浮く。
『いやッ、いやあああ!!』
耳を塞ぎたくなるような、悲痛な断末魔が空気を切り裂く。
女性の霊はイライアスの左手が指し示す先……フィオナのイヤリングの宝石部分に、吸い込まれるように消えていった。
「……っ」
フィオナの意識が一瞬遠のき、身体の力が抜ける。
「おっと」
その背中をイライアスの細い腕が支えた。
「これ、頂きますね」
イライアスはフィオナの耳からイヤリングを外した。
フィオナは抵抗できない。息をするだけで精一杯だった。
「フィオナ!!」
薄れていく意識の中で、ルイスの声が聞こえたような気がした。
***
「フィオナに何をした!!」
ルイスが鬼気迫る剣幕でイライアスを睨む。
イライアスは気を失ったフィオナを芝生の上に寝かせ、ルイスに向き直った。
「生徒間の小競り合いがあったようですよ。僕はたまたま通りかかっただけです」
相変わらず、感情の読めない薄い笑みだった。
「ユノレス神のご加護がありますように」
手を合わせ、浅く頭を下げたイライアスは悠然と去っていった。
「チッ……」
その背中に向けて舌打ちをしたルイスは、すぐにフィオナに駆け寄った。
「フィオナ! フィオナ!」
何度も呼びかけるが、反応はない。
口元に耳を寄せ、呼吸の音を確認する。
眉間の皺に、青ざめた肌。ドレスの裾から見える素足には小さな擦り傷がたくさん刻まれていた。
「大丈夫。護るから」
ルイスはフィオナの額をそっと撫で、その身体を抱き上げた。




