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視える令嬢は王太子の愛をまだ知らない  作者: itoma
第1章:池の霊と青いバラ
14/37

13:昇華と再生



陽が沈み、池の水面は柔らかい月明かりを反射してチカチカ輝いていた。

フィオナを寮まで送り届けたファーノンとクリスは、自然と池の前で足を止めていた。


しばらく黙って水面を眺めていたファーノンが、ふいに目を閉じる。


「コーディさんは……研究を横取りした私を恨んでいるかもしれませんね」

「そんなことありません!」


ファーノンが呟くと、クリスは珍しく大きな声を上げた。


「コーディにとって何よりも大事だったのは……きっと、ファーノン教授と過ごす時間だったんだと思います」


微かに震えるクリスの声が、冷たい空気に溶けていく。

ファーノンは目頭に力を入れ、空を見上げた。


「私にとっても……彼は特別な生徒でした」


無意識にネクタイを触っていたことに気づき、結び目を緩める。

襟の隙間から冷えた空気が入り込み、体感温度が少し下がった。



***



「……」


遠ざかる二人の足音を聞きながら、コーディは静かに水面の上に佇んでいた。

足元に視線を落とす。穏やかな波紋を広げる水面には、月の光と木々の影だけが映り込んでいた。


「コーディさん……!」


名前を呼ばれて振り返る。そこにいたのはフィオナだった。


『ファーノン教授に見つかったら、またどやされるよ』


コーディは呆れて笑う。


「あの時……助けてくれたよね?」

『……別に助けたわけじゃないよ。自分のためにしただけ』


相変わらずツンとした言葉だったが、その声色は柔らかかった。


「池から離れられないんじゃなかったの?」


"霊は未練のある場所か人に縛られる"

フィオナはコーディからそう聞いていた。


『……未練が、薄れてきてたんだと思う』


コーディは影を落とした校舎を見上げ、静かに呟く。


『僕の選択は間違ってなかったし、今の結果に不満もない……』


落とした視界に、風にそよぐ雑草が映る。

そこは、さっきまでファーノンとクリスが立っていた場所だった。


『でも……っ』


コーディは言葉を詰まらせた。

口元が歪み、震える。泣きそうな少年の表情だった。

風が強く吹き、水面が揺れる。コーディのくせっ毛は微動だにしない。


『やっぱり、頼ればよかったなって……思うよ』


絞り出されたその言葉は、悲痛な叫びのようにフィオナの胸に響いた。


『きみは……そういう選択ができるといいね』


言葉を失うフィオナに、コーディはどこか吹っ切れたように微笑む。


ゆらり――


まるで風に吹かれたロウソクの灯のように、コーディの姿が崩れかけた。


「あ……」


フィオナは思わず手を伸ばす。

掴めないのはわかっていた。それでも、反射的に動いてしまった。


『……じゃあね。ありがとう』


揺らぐ輪郭と同じように、声までもが波打って聞こえる。

肩先から細かな光の粒が溢れ落ち、砂のようにサラサラと散っていった。そのひと粒ひと粒が水面に触れるたび、池は輝きを増していく。


「……」


フィオナはきゅ、と唇を結び、池の淵に立つ。


(きれい……)


腰を曲げ、その水面に吸い込まれるように手を伸ばした――。




数分前




アカデミーの北門の前に馬車が停まり、中からルイスが降り立った。

フード付きのマントを羽織っており、一見では彼とわからない装いだ。


(デリックは……教会とは無関係だった)


フードの影に隠れた表情は晴れない。足取りにもどこか焦りが滲んでいた。

門をくぐり、寮へ向かおうとした、その時。視界の端によく知る気配を捉えた。


(……フィオナ?)


ルイスは思わず足を止める。

池の手前にぽつんと立つフィオナ。その視線は池の中心あたりの空間をじっと見つめている。

月明かりに照らされた横顔は儚げで、泣いてるようにも見える。

名画のような光景に、ルイスは胸を掴まれたような感覚を覚え、ただただ目を奪われた。


「!」


しかしフィオナが池に近づくと、ハッと正気に戻る。


(近すぎだろ……大丈夫か……?)


嫌な予感がして、ルイスは静かに池に近づく。

フィオナが水面に手を伸ばしたのを見て、どんどん足早になっていく。

そしてついに――


(ちょ……おいおいおい!)


バランスを崩したのをいち早く察知し、ルイスは駆け出した。


「フィオナ!!」


マントを脱ぎ捨て、フィオナの腕をつかむ。


「あっ」

「あ!?」


反射的に腕を引くフィオナ。

予想外の引力に抗う術もなく、ルイスの足も地面を離れる。

フィオナの瞳とルイスの瞳が至近距離で交わった瞬間、一瞬だけ、時間が止まったような錯覚に陥った。


バシャン!!


大きな水飛沫があがる。


「っはあ、大丈夫か?」

「ん、うん」


すぐにルイスが顔を出し、フィオナも続いた。


「ちょっと待ってて」


フィオナを池の縁まで誘導したルイスは自力で地面に上がる。


「ん」


当然のように差し伸べられた手。


"フィオナお嬢様に触られると呪われるんですって"


誰かの嘲り声が、ふと耳の奥で蘇る。


「……」


フィオナは恐る恐る、そこに自分の手を重ねた。

ぐい、と力強く引っ張られる。ルイスのおかげでフィオナも池から無事に上がることができた。

全身から滴り落ちる水が、ふたりの足元に水溜りを作る。


「ごめん……」

「……別にいいよ」


ルイスは頭を軽く振り、シャツの裾を絞った。


「護身術、どこで習ったの?」

「家で……」

「ふーん……」


濡れた前髪をかき上げ、薄雲に隠れた星の影を追う。

フィオナはその横顔に思わず目を奪われた。


「……なに?」


視線に気づいたルイスが尋ねる。

凛々しい眉のすぐ下にある青い瞳を向けられ、フィオナは一瞬息を止めた。


「前髪切らないの?」

「は?」


状況にそぐわない問いに、ルイスはぽかんと口を開ける。


「短い方が似合うと思う」

「……あっそ」


フィオナのストレートな言葉がルイスの胸に突き刺さる。

急にうるさくなった動悸を隠すように、ルイスは背を向け、歩き出した。


「……これ着て」


池に飛び込む前に脱ぎ捨てたマントを拾い、フィオナに掛ける。


「濡れちゃうよ」

「いいから。着て。マジで」

「……ありがとう」


ただならぬ圧を感じて、フィオナはマントの合わせ目をきゅっと握った。

清涼感のあるにおいが鼻をくすぐり、少しだけ残るルイスの体温に胸の奥が熱くなった。



***



男子寮。

シャワーを浴びて自室に戻ってきたルイスは、タオルでガシガシと頭を拭きながらベッドに腰をかけた。


「ネイト」

「はい」


正面に立つ金髪の青年の名を呼ぶ。

先ほど、ルイスと一緒に人攫い集団のアジトを一掃した守衛の男だった。

後ろ手を組んで佇む姿勢の良さと、はっきりとした返事から、その忠誠心が垣間見える。


「フィオナは警戒しなくていい」

「……」


その一言に、ネイトの片眉がぴくりと動いた。


「俺は怪しいと思います」

「問題ない」


珍しく意見してきたネイトを、ルイスはぴしゃりと突き放す。


「それより、頼みがある」

「はい。何なりと」


乾いてきた前髪を弄りながらルイスが言う。

ネイトはさらに背筋を伸ばし、期待と緊張が混じったように身構えた。

 

「前髪切って」

「……え?」


ネイトの気の抜けた声が静かな部屋にぽつんと響いた。



***

 


授業開始の鐘が鳴る直前、教室内にはこれまで聞いたことのないざわめきが広がっていた。


「え……」

「嘘でしょ、あれって……ルイス?」


入り口を振り返る生徒が一様に表情を変えていく。


「へー、かっこいいじゃん」


ひそひそ声の中、リサの明るい声が際立って聞こえた。その言葉は、生徒全員の心の内を代弁するものだった。


「……」


そんなざわめきを気にも留めず、ルイスは堂々と歩く。

向かったのはいつもの一番後ろの席ではなく、フィオナが座る一番前の席だった。


「……おはよ」


そして、フィオナの前でぴたりと足を止める。


「おはよう」


顔を上げた瞬間、フィオナはぱちりと瞬きをした。

すっきり切られた前髪の下に現れた形の良い眉。そこから絶妙な距離にある深い海のような、青い瞳。

今までよりもずっと鮮明に、整った顔立ちが見える。そのことが嬉しくて、フィオナは柔らかく微笑んだ。


「隣いい?」

「うん」


ルイスが隣に腰を下ろしてもなお、フィオナはにこにことその顔を見つめる。

そして一言――


「似合ってる」

《!?》


と、何の恥ずかしげもなく言うものだから、教室のざわめきはいつまで経っても収まらない。


「……はぁ」


目を輝かせるフィオナを一瞥し、ルイスはため息をひとつこぼす。


「あ」


フィオナが小さく呟き、机の下をごそごそと探り始めた。


「この前、上着ありがとう。洗濯したから返すね」


取り出されたのは綺麗に畳まれたルイスのローブ。池に落ちた夜、フィオナに掛けたものだ。


「ばッ……!!」


ルイスの椅子がガタッと音を立てる。

教室が静まり返り――


「上着!? 洗濯!? どういうこと!?」

「まさか、お、お、お泊――」

「言うな! 言わないでくれ……!!」


今日一番の喧騒が爆発した。


「えっと……その上着どうしたの?」


そんな中、フィオナの左隣に座るレナルドが控えめに尋ねる。


「池に落ちて濡れちゃった時にルイスが貸してくれたの」


フィオナは淡々と事実を述べた。


「な……なんだそういうことか」

「それならしょうがないな!」


すると、教室内のあちこちで安堵の息が漏れた。


「池に落ちたの? 大丈夫?」

「うん。全然平気」


フィオナと話すレナルドを、ルイスが横目で見る。


(抜かりねーヤツ……)


心の中でそう呟いた時、ルイスとレナルドの視線が一瞬だけ交錯した。



***



階段を登り、二階の廊下に出たフィオナは思わず足を止めた。


(すごいゴミの量……)


ファーノンの研究室の前に、大きなゴミ袋が三つ並んでいる。


「あの……」


少し開いたドアから顔を覗かせる。


「……ああ、フィオナさんですか」


小窓の前に立つファーノンが振り返る。


「綺麗になってる……」


ほんの数日前まで足の踏み場もなかった光景が、嘘みたいに片付いていた。

机の上は必要最低限のものだけが整然と並んでおり、乱雑に置かれていた本は本棚へ、ソファに投げかけられていたジャケットやネクタイはポールハンガーへ。床の木目がよく見え、部屋が広くなったように感じた。


「いい加減片付けようと思いまして」


ファーノンは持っていた黒い布を足元のゴミ袋へ詰め込む。きゅ、ときつく口を結び、四つめのゴミ袋が完成した。


「ゴミ捨て、手伝いましょうか?」

「結構です」


きっぱり断りながらも、ファーノンは薄く笑っていた。小窓から差し込む淡い光が、その穏やかな雰囲気に溶け込む。


「それより、何か用ですか?」

「あ……これを渡したくて……」


フィオナは鞄から一枚の紙を取り出し、ファーノンに差し出した。


「!」


紙を覗き込んだファーノンの目が丸くなる。そこに映っているのは紫に近い青。


「クリスさんに貰ったバラを、押し花にしました」


台紙の上に、乾燥した花びら一枚一枚が丁寧に重ねられ、見事にバラが再現されていた。


「私が……貰っていいんですか?」

「はい」


フィオナが深く頷いたのを見て、ファーノンは手を伸ばす。わずかに指先が震えた。ゆっくりと瞼を閉じ、息を吐く。


「ありがとうございます」


その言葉とともに、ファーノンの肩の力がふっと抜けた。


――窓の外で、一羽のカラスがそっと羽を広げる。

木から離れた黒い影は、柔らかい弧を描いて空へ溶けていった。




第1章:池の霊と青いバラ - fin -

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