13:昇華と再生
陽が沈み、池の水面は柔らかい月明かりを反射してチカチカ輝いていた。
フィオナを寮まで送り届けたファーノンとクリスは、自然と池の前で足を止めていた。
しばらく黙って水面を眺めていたファーノンが、ふいに目を閉じる。
「コーディさんは……研究を横取りした私を恨んでいるかもしれませんね」
「そんなことありません!」
ファーノンが呟くと、クリスは珍しく大きな声を上げた。
「コーディにとって何よりも大事だったのは……きっと、ファーノン教授と過ごす時間だったんだと思います」
微かに震えるクリスの声が、冷たい空気に溶けていく。
ファーノンは目頭に力を入れ、空を見上げた。
「私にとっても……彼は特別な生徒でした」
無意識にネクタイを触っていたことに気づき、結び目を緩める。
襟の隙間から冷えた空気が入り込み、体感温度が少し下がった。
***
「……」
遠ざかる二人の足音を聞きながら、コーディは静かに水面の上に佇んでいた。
足元に視線を落とす。穏やかな波紋を広げる水面には、月の光と木々の影だけが映り込んでいた。
「コーディさん……!」
名前を呼ばれて振り返る。そこにいたのはフィオナだった。
『ファーノン教授に見つかったら、またどやされるよ』
コーディは呆れて笑う。
「あの時……助けてくれたよね?」
『……別に助けたわけじゃないよ。自分のためにしただけ』
相変わらずツンとした言葉だったが、その声色は柔らかかった。
「池から離れられないんじゃなかったの?」
"霊は未練のある場所か人に縛られる"
フィオナはコーディからそう聞いていた。
『……未練が、薄れてきてたんだと思う』
コーディは影を落とした校舎を見上げ、静かに呟く。
『僕の選択は間違ってなかったし、今の結果に不満もない……』
落とした視界に、風にそよぐ雑草が映る。
そこは、さっきまでファーノンとクリスが立っていた場所だった。
『でも……っ』
コーディは言葉を詰まらせた。
口元が歪み、震える。泣きそうな少年の表情だった。
風が強く吹き、水面が揺れる。コーディのくせっ毛は微動だにしない。
『やっぱり、頼ればよかったなって……思うよ』
絞り出されたその言葉は、悲痛な叫びのようにフィオナの胸に響いた。
『きみは……そういう選択ができるといいね』
言葉を失うフィオナに、コーディはどこか吹っ切れたように微笑む。
ゆらり――
まるで風に吹かれたロウソクの灯のように、コーディの姿が崩れかけた。
「あ……」
フィオナは思わず手を伸ばす。
掴めないのはわかっていた。それでも、反射的に動いてしまった。
『……じゃあね。ありがとう』
揺らぐ輪郭と同じように、声までもが波打って聞こえる。
肩先から細かな光の粒が溢れ落ち、砂のようにサラサラと散っていった。そのひと粒ひと粒が水面に触れるたび、池は輝きを増していく。
「……」
フィオナはきゅ、と唇を結び、池の淵に立つ。
(きれい……)
腰を曲げ、その水面に吸い込まれるように手を伸ばした――。
*
*
数分前
*
*
アカデミーの北門の前に馬車が停まり、中からルイスが降り立った。
フード付きのマントを羽織っており、一見では彼とわからない装いだ。
(デリックは……教会とは無関係だった)
フードの影に隠れた表情は晴れない。足取りにもどこか焦りが滲んでいた。
門をくぐり、寮へ向かおうとした、その時。視界の端によく知る気配を捉えた。
(……フィオナ?)
ルイスは思わず足を止める。
池の手前にぽつんと立つフィオナ。その視線は池の中心あたりの空間をじっと見つめている。
月明かりに照らされた横顔は儚げで、泣いてるようにも見える。
名画のような光景に、ルイスは胸を掴まれたような感覚を覚え、ただただ目を奪われた。
「!」
しかしフィオナが池に近づくと、ハッと正気に戻る。
(近すぎだろ……大丈夫か……?)
嫌な予感がして、ルイスは静かに池に近づく。
フィオナが水面に手を伸ばしたのを見て、どんどん足早になっていく。
そしてついに――
(ちょ……おいおいおい!)
バランスを崩したのをいち早く察知し、ルイスは駆け出した。
「フィオナ!!」
マントを脱ぎ捨て、フィオナの腕をつかむ。
「あっ」
「あ!?」
反射的に腕を引くフィオナ。
予想外の引力に抗う術もなく、ルイスの足も地面を離れる。
フィオナの瞳とルイスの瞳が至近距離で交わった瞬間、一瞬だけ、時間が止まったような錯覚に陥った。
バシャン!!
大きな水飛沫があがる。
「っはあ、大丈夫か?」
「ん、うん」
すぐにルイスが顔を出し、フィオナも続いた。
「ちょっと待ってて」
フィオナを池の縁まで誘導したルイスは自力で地面に上がる。
「ん」
当然のように差し伸べられた手。
"フィオナお嬢様に触られると呪われるんですって"
誰かの嘲り声が、ふと耳の奥で蘇る。
「……」
フィオナは恐る恐る、そこに自分の手を重ねた。
ぐい、と力強く引っ張られる。ルイスのおかげでフィオナも池から無事に上がることができた。
全身から滴り落ちる水が、ふたりの足元に水溜りを作る。
「ごめん……」
「……別にいいよ」
ルイスは頭を軽く振り、シャツの裾を絞った。
「護身術、どこで習ったの?」
「家で……」
「ふーん……」
濡れた前髪をかき上げ、薄雲に隠れた星の影を追う。
フィオナはその横顔に思わず目を奪われた。
「……なに?」
視線に気づいたルイスが尋ねる。
凛々しい眉のすぐ下にある青い瞳を向けられ、フィオナは一瞬息を止めた。
「前髪切らないの?」
「は?」
状況にそぐわない問いに、ルイスはぽかんと口を開ける。
「短い方が似合うと思う」
「……あっそ」
フィオナのストレートな言葉がルイスの胸に突き刺さる。
急にうるさくなった動悸を隠すように、ルイスは背を向け、歩き出した。
「……これ着て」
池に飛び込む前に脱ぎ捨てたマントを拾い、フィオナに掛ける。
「濡れちゃうよ」
「いいから。着て。マジで」
「……ありがとう」
ただならぬ圧を感じて、フィオナはマントの合わせ目をきゅっと握った。
清涼感のあるにおいが鼻をくすぐり、少しだけ残るルイスの体温に胸の奥が熱くなった。
***
男子寮。
シャワーを浴びて自室に戻ってきたルイスは、タオルでガシガシと頭を拭きながらベッドに腰をかけた。
「ネイト」
「はい」
正面に立つ金髪の青年の名を呼ぶ。
先ほど、ルイスと一緒に人攫い集団のアジトを一掃した守衛の男だった。
後ろ手を組んで佇む姿勢の良さと、はっきりとした返事から、その忠誠心が垣間見える。
「フィオナは警戒しなくていい」
「……」
その一言に、ネイトの片眉がぴくりと動いた。
「俺は怪しいと思います」
「問題ない」
珍しく意見してきたネイトを、ルイスはぴしゃりと突き放す。
「それより、頼みがある」
「はい。何なりと」
乾いてきた前髪を弄りながらルイスが言う。
ネイトはさらに背筋を伸ばし、期待と緊張が混じったように身構えた。
「前髪切って」
「……え?」
ネイトの気の抜けた声が静かな部屋にぽつんと響いた。
***
授業開始の鐘が鳴る直前、教室内にはこれまで聞いたことのないざわめきが広がっていた。
「え……」
「嘘でしょ、あれって……ルイス?」
入り口を振り返る生徒が一様に表情を変えていく。
「へー、かっこいいじゃん」
ひそひそ声の中、リサの明るい声が際立って聞こえた。その言葉は、生徒全員の心の内を代弁するものだった。
「……」
そんなざわめきを気にも留めず、ルイスは堂々と歩く。
向かったのはいつもの一番後ろの席ではなく、フィオナが座る一番前の席だった。
「……おはよ」
そして、フィオナの前でぴたりと足を止める。
「おはよう」
顔を上げた瞬間、フィオナはぱちりと瞬きをした。
すっきり切られた前髪の下に現れた形の良い眉。そこから絶妙な距離にある深い海のような、青い瞳。
今までよりもずっと鮮明に、整った顔立ちが見える。そのことが嬉しくて、フィオナは柔らかく微笑んだ。
「隣いい?」
「うん」
ルイスが隣に腰を下ろしてもなお、フィオナはにこにことその顔を見つめる。
そして一言――
「似合ってる」
《!?》
と、何の恥ずかしげもなく言うものだから、教室のざわめきはいつまで経っても収まらない。
「……はぁ」
目を輝かせるフィオナを一瞥し、ルイスはため息をひとつこぼす。
「あ」
フィオナが小さく呟き、机の下をごそごそと探り始めた。
「この前、上着ありがとう。洗濯したから返すね」
取り出されたのは綺麗に畳まれたルイスのローブ。池に落ちた夜、フィオナに掛けたものだ。
「ばッ……!!」
ルイスの椅子がガタッと音を立てる。
教室が静まり返り――
「上着!? 洗濯!? どういうこと!?」
「まさか、お、お、お泊――」
「言うな! 言わないでくれ……!!」
今日一番の喧騒が爆発した。
「えっと……その上着どうしたの?」
そんな中、フィオナの左隣に座るレナルドが控えめに尋ねる。
「池に落ちて濡れちゃった時にルイスが貸してくれたの」
フィオナは淡々と事実を述べた。
「な……なんだそういうことか」
「それならしょうがないな!」
すると、教室内のあちこちで安堵の息が漏れた。
「池に落ちたの? 大丈夫?」
「うん。全然平気」
フィオナと話すレナルドを、ルイスが横目で見る。
(抜かりねーヤツ……)
心の中でそう呟いた時、ルイスとレナルドの視線が一瞬だけ交錯した。
***
階段を登り、二階の廊下に出たフィオナは思わず足を止めた。
(すごいゴミの量……)
ファーノンの研究室の前に、大きなゴミ袋が三つ並んでいる。
「あの……」
少し開いたドアから顔を覗かせる。
「……ああ、フィオナさんですか」
小窓の前に立つファーノンが振り返る。
「綺麗になってる……」
ほんの数日前まで足の踏み場もなかった光景が、嘘みたいに片付いていた。
机の上は必要最低限のものだけが整然と並んでおり、乱雑に置かれていた本は本棚へ、ソファに投げかけられていたジャケットやネクタイはポールハンガーへ。床の木目がよく見え、部屋が広くなったように感じた。
「いい加減片付けようと思いまして」
ファーノンは持っていた黒い布を足元のゴミ袋へ詰め込む。きゅ、ときつく口を結び、四つめのゴミ袋が完成した。
「ゴミ捨て、手伝いましょうか?」
「結構です」
きっぱり断りながらも、ファーノンは薄く笑っていた。小窓から差し込む淡い光が、その穏やかな雰囲気に溶け込む。
「それより、何か用ですか?」
「あ……これを渡したくて……」
フィオナは鞄から一枚の紙を取り出し、ファーノンに差し出した。
「!」
紙を覗き込んだファーノンの目が丸くなる。そこに映っているのは紫に近い青。
「クリスさんに貰ったバラを、押し花にしました」
台紙の上に、乾燥した花びら一枚一枚が丁寧に重ねられ、見事にバラが再現されていた。
「私が……貰っていいんですか?」
「はい」
フィオナが深く頷いたのを見て、ファーノンは手を伸ばす。わずかに指先が震えた。ゆっくりと瞼を閉じ、息を吐く。
「ありがとうございます」
その言葉とともに、ファーノンの肩の力がふっと抜けた。
――窓の外で、一羽のカラスがそっと羽を広げる。
木から離れた黒い影は、柔らかい弧を描いて空へ溶けていった。
第1章:池の霊と青いバラ - fin -




