10:コーディの過去
※暴力的な描写があります
(辞書が無い……)
教室でコーディがカバンの中をごそごそと探っている。
「何か探してんのかぁ?」
そんなコーディに声をかけたのは、前の方の席に座るデリックだった。
オールバックに整えられた金髪に大振りのピアス、制服のボタンは上から三つ目まで外されていて、首元のネックレスが見えている。
「……」
コーディはデリックのニヤニヤとした視線を辿る。
その先にはゴミ箱があって、白い本のようなものがはみ出ている。
「別に……」
「おっと」
席を立ちゴミ箱へ向かうコーディの足元に、デリックが突然足を伸ばす。
その足に躓いたコーディはよろけて膝をついてしまった。
「悪い悪い、足が長いからよぉ」
デリックはそう言いながらも口角を上げ、悪びれたそぶりは全くない。
「バーネット家って確か騎士の名家だよな? こんなのも避けられないのかよ」
「ああ、だから追い出されたんだっけ?」
続いて、デリックの背後に立っていたふたりの男子生徒もコーディを嘲笑う。
「……」
コーディは何も言い返さなかった。
奥歯を食い縛り、ひたすら床の木目を見つめていた。
「今さら何をしたって認められるわけねぇのにな!」
デリックたちはそんなコーディを満足げに見下ろし、ゲラゲラと笑いながら教室を出ていった。
「コーディ、大丈夫?」
三人が出ていったあと、クリスがコーディに駆け寄る。
「……うん」
コーディは立ち上がり膝についた埃を払う。
そしてまっすぐゴミ箱へ向かい、中に入っていた自分の辞書を拾い上げた。
「最近の彼らは……ちょっとやり過ぎな気がするよ」
クリスは汚れた辞書を見て眉間に皺を寄せる。
「僕の研究が評価されるのが気に入らないんだろうね」
「教授に相談した方がいいんじゃないかな……」
「カルヴァート侯爵家に楯突こうなんて考える人いないよ」
コーディは辞書をカバンの中に仕舞い、乾いた笑いを漏らす。
"学問に身分の差なし"としているアカデミーだが、生徒も教授も、侯爵家の長男であるデリックの顔色を窺って過ごしているのが実情だった。
「きっとファーノン教授なら……」
「ダメだ!」
コーディが大きな声でクリスの言葉を遮る。
「ファーノン教授は……巻き込みたくない」
そして静かに呟く。
強く掴んだカバンの表面には皺が寄っていた。
***
トントン、と指で机を叩く音が部屋に響く。
その不定期なリズムを刻んでいるファーノンは、椅子に座り真剣な眼差しで紙束を眺めていた。
「……」
机の手前にはコーディが姿勢良く立っている。
その面持ちは少し強張っていて、落ち着かないのか視線をあちこちに動かしている。
床に山積みになっている本、無造作に置かれたジャケット……ファーノンの研究室はこの頃から散らかっていたようだ。
「うん、いいと思います」
紙束を机に置いたファーノンは視線をコーディに向け、柔らかく微笑む。
「ほ、本当ですか?」
「はい。頑張りましたね」
緊張が解けたのか、コーディの顔が綻ぶ。
ファーノンから受け取ったのは青いバラの研究報告書で、コーディが書いたものである。
「いつも後ろの席で居眠りしている老人たちも飛び起きますよ。楽しみです」
ファーノンは立ち上がり、ネクタイを少し緩める。
「そんなに……すごいことなんですかね……」
いまいち自信が持てない様子のコーディに、ファーノンは力強く頷いてみせた。
「世界中の学者がきみの名を覚えるでしょう。国からの褒賞もたくさん出ますよ」
「褒賞……」
「何を買うか、考えておくのもいいですね」
その言葉を聞いて、コーディはファーノンの胸元をじいっと見つめる。
「それなら……まずは教授にネクタイをプレゼントします」
「ネクタイ……ですか?」
「だって、教授ネクタイ2本しか持ってないじゃないですか」
ファーノンは自分のネクタイに視線を落とす。
今着けているのはボルドー色のネクタイ。もうひとつはソファの背もたれにかかっている深緑色のネクタイ。
確かに、ファーノンはこの二つを交互に着用していた。
「いえ、持ってはいるんですけど……」
「なくしたんですか?」
「把握はしています。おそらくあの棚に3つ程……」
「……」
ファーノンが指差したのは一番上の戸棚。踏み台を用意しなければ届かない場所だ。
「教授って、しっかりしてそうに見えて実はそうでもないですよね」
「……教え子に見抜かれたのは初めてです」
コーディがいたずらに笑うと、ファーノンは小さく息を吐いて彼の頭を撫でた。
「僕がプレゼントしたのはすぐ着けてもらいますからね」
「ええ、楽しみにしてます」
小窓から差し込む柔らかい木漏れ日が二つの影を作る、穏やかな夕刻だった。
***
「美味しいかい?」
校舎裏の茂みにしゃがみ込んだクリスが、何やら優しく語りかけている。
「ニャー」
その相手は茶色い野良猫だった。
「もっと欲しい? しょうがないなぁ」
猫が甘えるように鳴くと、クリスは表情を緩ませ、フィッシュサンドの魚の部分を千切って掌に乗せる。
「こんなに小さいのに、きみたちは逞しいね」
そして掌をペロペロと舐める猫を見つめながらぼそりと呟いた。
「それか?」
「ああ、間違いない」
「!」
静けさを破るように突然聞こえてきた声に、クリスは肩をすくめる。
(デリックの取り巻きだ……)
池のほとりを歩いているのはデリックとよく行動を共にしている男子二人だった。
クリスは息を潜める。彼らはクリスの存在には気づいていないようだ。
「"青いバラ"ってそんなすげーのかな」
「さあ」
一人の男子が手に持っている紙束をバサバサと揺らす。
(ま、まさか……)
厚さ二センチほどの紙束に、会話の中の"青いバラ"という単語。
クリスの脳裏にひとつの仮定が思い浮かび、顔を強張らせた。
「ま、いくら頑張っても意味ないけどな」
「池の藻屑になっちゃうもんなぁ」
男子たちは顔を見合わせてニヤニヤと笑う。
「……!!」
その会話を聞いてクリスの仮定は確信へと変わる。
(あんなに頑張って完成させたのに……!)
友人であるクリスは、コーディが青いバラの論文にどれだけの努力と時間を費やしていたかを知っていた。
(そんなの……絶対、絶対にダメだ……!)
クリスは震える手をギュッと握りしめ、立ち上がる。持っていたサンドイッチを地面に置くと、すぐに猫が飛びついた。
「そ、それっ! コーディの論文じゃないかな……!」
男子たちに近づき、大きな声で叫ぶクリス。
二人の視線が突き刺さると怯んで一瞬腰が引けるが、それでも視線だけはしっかりと前を見据えた。
「だったら何だよ?」
一人が高圧的に聞く。その態度に後ろめたさや反省の色は微塵も見えない。
「コーディは……ッ、三ヶ月もかけてその論文を完成させたんだ……!」
クリスは奥歯を食い縛り、語気を荒げた。
「きみたちにコーディの研究を邪魔する資格はない!」
「うるせぇな!」
大股で近づいてきた男子がクリスの腹部に拳を入れる。
「う、ぐう……」
クリスは苦しそうな呻き声をあげ、その場に膝をついた。
「か、返せ……!」
それでもキッと男子たちを睨み、論文を取り返そうと手を伸ばす。
「よお」
「うああッ!」
「何面白そうなことしてんだよ」
伸ばした手を、黒い革靴が無慈悲に踏みつけた。
影が差す。見上げると、そこにはデリックがいた。
「デリック! 論文盗ってきたぜ」
「おう」
デリックは男子からコーディの論文を受け取り、興味なさげにペラペラとめくる。
「コイツも一緒に池に落としちゃう?」
「や、やめてくれ……僕は泳げないんだ……」
「ギャハハ! 知るかよ」
「待て」
論文と、腹を押さえて震えるクリスを交互に見て、デリックは片方の口角を上げる。
「……いいこと思いついた」
***
「な……ッ」
デリックの取り巻きに呼び出され、池までやってきたコーディはその光景に驚愕した。
「クリス!」
「コーディ……」
まず目に入ったのは池の手前に倒れているクリスだった。
取り巻きの一人に押さえつけられ、身動きがとれないようだ。
手の甲や口の端に血が滲んでいるのを見て、クリスが受けた仕打ちが容易に想像できた。
「よお。この論文三ヶ月かけて書いたんだって?」
「……」
その隣に仁王立ちするデリックが、手に持った論文を見せつけるように揺らす。
コーディはすぐにそれが自分の論文だとわかったが、声を荒げたりはしなかった。
その場から動かずデリックの言葉を待つのは、彼の要求がなんとなく予想できたからだろう。
「お前に選択肢を与えてやるよ」
デリックはオールバックの髪をかき上げ、コーディを見下ろした。
「論文かクリス、どっちかを池に落とす。どっちを助ける?」
「!?」
クリスはその言葉を聞いて目を見開き、すぐ傍にある水面を横目で見る。
表面は風で静かに揺らぎ、落ち葉が優雅に泳いでいるかのように流れている。しかしその底は見えず、どれほど深いのかは未知数だ。
「ぼ、僕は大丈夫だよコーディ……」
「あ? さっき『泳げない』っつってただろ」
「そっ、それでも、大丈夫だから……!」
クリスはギュッと目を閉じ、声を絞り出す。
「助けたい方を受け取れ」
「……」
コーディは俯いたまま、一歩、また一歩と歩き出す。向かった先は、論文を持つデリックだった。
「……はははは!」
デリックはコーディの出した答えが意外だったのか、少し目を丸くしたあと大きな口を開けて笑った。
「いいのか? 唯一のお友達を見捨てちゃって!?」
「……」
そして至極楽しそうにコーディを見下ろす。
クリスはギュッと歯を食いしばる。
「結局は金と名誉が、はッ!?」
「!?」
次の瞬間、コーディはデリックから受け取った論文を池に投げ捨て、その勢いのままデリックの頬に拳を叩き込んだ。
誰もが一瞬息を呑む。
「……」
その中で、コーディだけは異様なほど静かだった。
倒れたデリックに馬乗りになり、襟元を掴み上げる。
「お前のくだらない矜持に僕たちを巻き込むな」
デリックを見下ろす藍色の瞳はとても冷たく、無機質だった。
さっきまで笑っていたデリックの顔色がみるみる青ざめていく。
「お、おいッ、取り押さえろ!」
「お、おう!」
デリックの呼びかけで状況を飲み込んだ取り巻き二人が、コーディをデリックから引き離す。
コーディは全身で抵抗するが、二人がかりの拘束を逃れることはできなかった。
「あ……ああ……」
クリスは動けない。
いや、立ち上がろうとしているが、血のにじむ手は震えと痛みで思うように力が入らず、彼の大きな身体を支えられないでいた。
「やめ……やめてくれ……」
息を荒げ、手を伸ばすが何ができるわけでもない。
ただ、コーディが打ちのめされる姿が目に映る。
溢れてきた涙で視界はどんどん滲んでいった。
バシャン!!
クリスが瞬きをしたその瞬間。
池から大きな水しぶきがあがった。
クリスの眼鏡に水滴が付き、視界が歪む。
必死に周囲を見回すが、コーディの姿がどこにも見当たらない。
「コーディ!!」
池に向かって名前を叫ぶが、もちろん返事は聞こえない。
それでも何度も何度も、彼の名前を叫び続けた。
「お、おい、さすがにヤバいんじゃ……」
「何をしているんだ!!」
第三者の怒号が響く。
研究室の小窓から、ファーノンが身を乗り出していた。
「逃げるぞ!」
「あ、ああ……!」
デリックは一目散に逃走し、取り巻きふたりもそれに続いた。
「コーディ! コーディ! あああ……っ」
クリスは池に向かって叫び続ける。
コポコポと空気だけが浮かんでくるが、コーディの姿は未だ現れない。
風が吹き、水面の上で論文のページが無力に踊った。




