幼稚園、休みます
テレビから流れてくるテンポの早いリズムと、子供たちの笑い声。
春の季節に合わせたパステルカラーを基調といたセットに、清潔感のあるスポーティーな衣装を身にまとったメインキャスト達。
キャラクターの着ぐるみたちが両サイドでアーチをつくり、子供達がくぐり抜けるとタッチでお迎えをする。
《みんなぁー、バイバーイ!!》
風船が舞いおりる中、キャスト達全員で手を振って番組は終了した。
私はリモコンを手に取ると、すぐさまテレビをオフにし、画面を暗くする。黒いパネルに、娘のさくらの顔の輪郭がぼんやりと映り、その顔は特に笑うわけでもなく何とも言えない表情だった。もう年長さんにもなると、こういう番組は楽しめないのだろうか。
「そろそろ、行こうか」
「まだ行きたくない。どうしても幼稚園行かなきゃダメ?」
「だーめ」
「じゃあ、もう一つ見てから」
娘は、四つん這いでテレビへ向かい電源を入れた。
こういう教育テレビではCMが挟まないので、次から次へと番組が始まる。なのでキリのいいところで消してしまわないと、いつまでも気持ちの切り替えが難しくなるのだ。
とはいえ……やはり今日は気が乗らないのか。
昔は一緒に歌ったり踊ったりしていたのに、何だか我が子の成長がさみしく感じて複雑な気持ちになる。
ただ座って番組を観ている娘。
その丸っこい背中を指でつついてみた。
無反応だ。
「何で行きたくないの?お友達と喧嘩した?」
首を横に振ってNOと答えているようだ。
「行きたくないの?」
「うん」
何だろうな、と思った。特に根拠はないが、何も理由がないと言う訳ではなさそうだ。
テーブルの上に置いたスマホを操作してアプリを開くと、幼稚園の欠席連絡をタップする。
【今日だけ欠席】を選択して、理由【おうちの都合】を選ぶ。そして【送信】。これで幼稚園の欠席の連絡が終わった。
先生達は朝、みんな忙しく電話に出られないので、今はアプリを利用している幼稚園も多くなってきているようだ。保護者の方も時間に気を遣わなくていいので、助かっている。
「それ、おもしろい?」
「うん」
「今日さ、お母さんと一緒に神様のところに行こうか」
神様とは、家の近所にある神社で、娘がまだ幼稚園にあがる前にはよくお散歩コースとして立ち寄っていた神社だった。
くるっと座ったまま振り返った娘は、少し困った顔をして言った。
「神様には、そう簡単には会えないんだよ?」
やばい、顔がニヤけそうだ。でも本人は真剣なので「そうね」と、とりあえず返した。
「ねぇお母さん、今日休むって先生にもう言った?」
「うん、言ったよ」
娘は、わかりやすくホッとした顔をした。今まで無言でテレビを観ていたのに、急に一緒に歌を口ずさみながらリズムに合わせて、体が揺れている。
やはり何かあるのだ。
とりあえず制服から私服へと着替えさせ、今日の予定はどうするのか聞いてみた。
「ソフトクリーム食べたい」
「ソフトクリーム?」
「マックの」
「ああ、」
「あと、お散歩も」
「お散歩と、マックか」
「私、休んでるのに外に出ていいの?」
「いいよ。お母さん、さくらが風邪ひきました、なんて言ってないもん」
「じゃあ、なんて言ったの?」
「おうちの都合で」
「ふーん……」
つい、アプリに表示されていた文言通り答えてしまった。
「先生、何か言ってた?」
「こっち側から送るだけだから、返信は無いのよ」
何を機械的に答えているんだろう、私は。
こんなに子供と上手に話せない自分が、もしかしたらバカなんじゃないかと思えて来た。
「今日は、さくらは、おうちの用事でお休みしますって連絡したの。だからお出かけしても大丈夫よ」
「じゃあ、お出かけの準備してくるから待ってて!」
娘はそう言って幼稚園で作った手づくりバッグを持ってきた。
スティックコーヒーの空箱に紐を通して持ち手をつくり、リボンや折り紙を貼ってデコレーションされたお散歩バッグだ。
この中に、お花や虫を入れて持ち帰るのだそうで、とても可愛く出来ている。さすが幼稚園だ。お散歩バッグを片手に手を繋いで、外へ出た。
***
ゆっくりと子供のペースで歩くと、普段目に入らない物だらけだった。「てんとう虫がいるよ」「あの家、チューリップが咲いてるよ」娘は私にいろいろなことを教えてくれる。
来年、娘が入学する小学校が見えてきた。グラウンドには、上下ジャージ姿の子供達がリレーの練習をしていた。娘も、ああやって授業に参加する日がくるんだなと思うと、ここまであっという間だったなと思う。
学校のフェンスの前で立ち止まり、ゆっくりと娘の方を見た。
なぜ立ち止まったの?行こうよ、と今にも訴えてきそうな顔をしているので、ほっぺを指で軽くつまんでみた。やわらかい。
頭を空っぽにしてじっと見つめていると、想いが溢れ出てしまいそうだ。
「どうしたの?お母さん」
「お母さん、もしかしたら今、人生で一番幸せかもしれない」
「いーなー」
「いいでしょ」
まさかこんな人生を送れるなんて、若い頃は思いもしなかった。
***
神社についてお参りをすると、娘は四葉のクローバーを探し始めた。私も一緒に探そうとしゃがんだその時、私の携帯が鳴った。
まただ。
昨日もだった。相手は分かっている。画面を確認するとやはり思った通りの人物だった。出ようかどうしようか迷った。このまま無視してもいいか……。
「出なくていいの?」
心配そうに私を見上げる娘。出たくないけど、でてしまった。
「はい。私だけど、何?――……だからそれは出来ないって言ったじゃない。――無理に決まってるでしょ。もう切るから、私」
切ってもすぐ、またかかってくる。そして出ないと留守電に切り替わり、留守番電話サービスから通知が届いたが、とても聞く気にはなれない。
足元でクローバーを探している娘に声をかけ、近くのベンチに腰掛けると、まるで体中の力が全て奪われていくみたいに、空気が重く感じる。
私はいつまでこんな事を続けているのだろう。
平日の静かな神社は、木々の揺らぐ音だけが聞こえてここだけまるで別世界だ。ずっとこのままだったらいいのに。
「お母さんも手伝ってー」
四つ葉のクローバーは、やはりそう簡単には見つからないらしく、私も一緒に探した。
しゃがんで、クローバーだらけの緑に覆いつくされた葉っぱの中を、そっとかき分けるように見ていく。
本当はこういうの苦手だ。永遠に見つかる気がしない。
「ねぇ、さくらちゃん。今日どうしてお休みしたの?」
「…………」
「お母さんにも言えない?」
「……うん」
「でも、お母さんも理由も分からないのに、さくらをお休みさせたりできないでしょ?」
「……」
娘はそれでも答えなかった。
深く追求せず、2人でクローバーを探す。やがて、娘が「あったー」と言って、ちぎって見せに来た。
正直、もう腰が限界だったから助かった。
一旦家に帰り、お昼時に合わせてマックに行くと、娘はハッピーセットとソフトクリームを注文し、この日のミッションは全て終えた。
一日、まるで幼稚園にあがる前の娘に戻ったように一緒にお出かけできて、休ませて良かったとさえ思った。
夕方、娘は疲れたのか珍しくお昼寝をしていると、幼稚園から電話がかかってきた。
「いつもお世話になっております。私、さくらちゃんの担任をしております、ひかり幼稚園の橋口といいます」
「こんにちは谷口です。いつも娘がお世話になっています」
「えっと……今日なんですけど、さくらちゃん……」
「あー……何だか朝から行きたくないって言い出しちゃって、今日一日様子を見ようと思って休ませていました。たぶん、お友達と喧嘩でもしたのかなって思ってたんですけど、なかなか本人も言ってくれなくて……」
「そうだったんですね。……実は昨日、工作の時間にさくらちゃんと健人君が喧嘩になってしまって、……それで、あの、健人君もちょっと口調の強いところがあって、さくらちゃんが泣き出しちゃったんですよね」
「あっ、そうだったんですね」
「はい。こちらもちゃんとフォロー出来てたら良かったんですが――」
「いえ、そんな、とんでもないです。いつもありがとうございます」
「それで健人君も今日、さくらちゃんが来ていないから心配して『何で休んでるの?』って聞いて、本人も気にしているみたいでした。先生もみんなも、さくらちゃんが幼稚園に来るの楽しみにしてるよって、どうか伝えて下さい」
「わかりました。わざわざお忙しい中ありがとうございました。必ず本人に伝えます」
通話を終え、居間に戻ると、毛布にくるまって寝ている我が子をながめながら今日のことを思い出していた。
再びスマホを手に取り、画面に触れると留守番電話サービスから1件通知が来ている。神社にいた時の、アレだ。
耳にスマホをあてて聞いてみる。
―――お預かりしているメッセージは1件です
年老いた女の声で、聞くに堪えないような罵声。
かと思えば、よほど切羽詰まっているのかすがるような声に変わり、相変わらずとても応えられないような要求ばかりだ。
―――メッセージを消去するには
迷わず消去した。
相手は、私の母親。
世間で言うところの毒親というやつだ。
いつも怒鳴りつけられては顔色をうかがう日々だった。もしかしたら、こうなったのは独身の間、すっと要求に応え続けてきた私の責任もあるんじゃないかとか、そんな事ばかり考えながら生きてきた。
しかし、私が結婚するとあっさり実家を見捨てたので、どうやら恨まれているらしい。
まあいいや、今はその事は忘れよう。
夕方5時を過ぎても、外はまだ明るい。ついこの間まで真っ暗だったのに、季節はもう変わって窓から春らしい風の香りがした。
深く眠っていた娘が体勢を変え、もぞもぞ動いてそろそろ起きそうだ。
「おはよう」
目をうっすら開けたり、まばたきを繰り返していて、まだ寝ぼけているみたいだ。
「そろそろ起きないと、夜眠れなくなっちゃうよ?」
「……」
娘はゆっくり体を起こすと、私の顔を見てハッとする。
「もどってる」
まだ寝ぼけているのだろうか。ちょっとおもしろいので、付き合ってみることにした。
「何が戻ってるの?」
「お母さん。お母さんが、いつもの顔にもどってる。昨日、誰かから電話がきて、お母さんそれからずっと怖い顔してたもん。お皿洗いながら『もうムリ』とか『死にたい』とか言ってたし」
昨日、電話、
「私が幼稚園に行ってる間に、お母さんどこか行っちゃうんじゃないかと思って……」
そう言って、私の顔を覗き込んでくる娘。
「良かった。いつものお母さんに戻って」
娘は立ち上がり、おもちゃ箱からスケッチブックを取り出すと、ダイニングテーブルでお絵かきをはじめた。
私はしばらく、その場から動くことができず、スマートフォンを握りしめたまま、じっと静かに座っていた。
やがて考えがまとまると、手元のスマホを操作して私の実家に関わる全ての人物をブロックする。
ついでに、もう交友関係の無くなった知人の情報も消していく。
そんなもの、私にはもう必要ない。
何もなかったかのように無垢な顔で絵を描く娘。
私もいつか、この子の重荷になる日が来るのだろうか。
そのときはどうか、私がやったように、あなたも私を見捨ててほしい。
ありがとうございました