始まり
7/18 一部調整
早朝になるといつも犬のペックが晴樹の部屋の前にやってくる。そして散歩に連れていけと言わんばかりに何度も吠えるのだ。この声によっていつも目を覚まし、そして晴樹は着替え始める。これがルーティンとなっている。
季節は四月。早朝の空気はいまだに冷え込み、ベッドから起きるのも一苦労な時期。
「おはよう、じゃあ早速行こうか」
いつものように公園へ行き、ここでボールで遊んだり走り回ったり、他の犬と触れ合ったりする。
ペックはシェルティのブルーマールという犬種で、右目は黒色、左目は水色のオッドアイを持つ犬だ。一般的には中型なのだが、ペックはかなり身体が大きい、人懐っこい性格で、公園のおじいちゃんおばあちゃん達にはアイドル的存在となっている。
しかし今日は人がいない。ボール遊びにはちょうどよく、晴樹がボールを投げてはペックは嬉しそうに取り行く。
「──行くぞ?それ!」
ボールが飛んでいくと、ペックは無邪気に追いかけ、全力で戻ってくる。
「よし、もう一回行くぞ?」
ペックの耳がぴくりと動く。
「それ!」
砂埃を舞わせながら駆けていき、また一直線で戻ってくる。
「よしよし!もう一回!」
ペックは低い体勢を取る。
「それ!」
晴樹が投げると、ボールは隣にある神社に誘われるように消えていった。
「げっ、神社に入っちゃった。あそこ不気味で苦手なんだよな」
晴樹はペックを連れて神社へ入りボールを探した。境内はしばらく人の手に触れられていないようで荒れ果て、より恐怖感を演出している。参道は雑草や苔に覆われ、鳥居はつたに絡まれ原型の色をとどめていない。空き缶やゴミもそのまま放置されている。敷地内を囲うように背の高い木が等間隔に何本も並び空を覆う、そのせいか空気が歪んで見えた。
「ほんと汚いな…」
晴樹は内心ビクビクしながら、ボールを必死に探している。妙に薄暗く感じるこの神社から、いち早く出たかったのだ。しかし少し伸びた雑草に隠れて、ボールを見つけることがなかなかできずにいた。また買えばいいかとさえ晴樹は思い始めていた。諦めかけていたその時、拝殿の裏の方から奇妙な声のような音が聞こえてきた。
「イ…コ…チへ…」
晴樹は恐怖に震えていたが、妙な好奇心もあった。普段なら行かないだろう、しかし今日はなんとなく気になってしまった。ペックと一緒に音の方へ恐る恐る近づいていくと、その音はだんだんとハッキリし始めた。
「コッチ…コイ、コッチヘコイ」
その声の主は何かを呼んでいるようだ。晴樹は声の方向へ近づいていき木の裏から様子をうかがった。しかし人はいない。だが声はする。
「隠れてないで出ておいで」
「──えっ!?」
声は撫でるような優しい口調に変わり、何度も声をかけてくる。
晴樹は背中にじっとりと汗をかいているのに気がついた。急いで帰ろうとしたがその時前方にボールを見つけた。彼は一目散に走りだし、ボールを拾い上げる。
「ペック!行くよ!」
晴樹たちは鳥居へ走る、そこから入る光がいつもより眩しく感じられた。そして鳥居から出た瞬間、辺りには全く知らない風景が広がっていた。道であるようだが、アスファルトでできた道路ではないし、神社の向かいにあったアパートはなくなっており、辺り一面草原になっていた。草原の遠くに山が見える。晴樹は振り返えると、不思議なことに何もない。
確かに神社に入りそこから出てきたはずだが何もない。手にはボールを持っていてペックもいる。
「…は?」
彼には理解が追いつかなかった。ここは一体どこであるのか、どうしてこんなところにいるのか、さまざまな疑問が浮かんでくるが、一番心配なことは自分達は死んだのではないかということであった。鳥居を飛び出した拍子にトラックにでも轢かれたのかと想像を巡らせた。しかし心臓は鼓動し、頬を叩けば痛みもある。
彼は恐怖で体が震えて、笑いも溢れてきた。人間は理解を超えることを目の当たりにすると自分を守ろうとして笑ってしまうのだろう。
なんとか気持ちを落ち着けるためにペックに抱きつくと、ペックは晴樹の顔を舐めた。何も理解していないのであろう、様子はいつもと変わらない、そんな姿を見て彼は少しずつ落ち着きを取り戻し始めた。
彼はまず人に会うのが最初だと考え、歩き出そうとした。知らない土地を無闇に歩くのは危険ではないかとも思ったが、既に恐怖体験をした彼にはさほど問題ではないように思われた。
「右か左か…どっちにしようか」
彼はペックの前に手を出して右か左かを選ばせた。ペックは彼の右手に前足を出した。
「じゃあこっちね」
彼らは歩き出した。殺風景な場所であると彼は思った。彼の左右には野原が広がり建物のようなものはない。そしてその先には山があり、稜線はなだらかで深い緑の氾濫の中に時々桃色の斑点を見た。
「あ、あれ、桜かな…綺麗…」
同じような植生があるということはここは日本のどこかなのだろうかと彼は考えた。穏やかな風が地面の草を撫で、彼の髪の毛を振るわせる。実にのどかな場所で彼らの足取りも自然と軽くなっていた。
歩き始めて一時間ぐらいであろうか、彼はようやく生物を発見した。しかし様子がおかしい。その生物には頭が二つある。しかも群れをなしており、その全てが双頭の犬である。彼は目を疑った。今まで頭が一つの生き物しか見たことがない彼には信じられない光景だった。
犬の群れは彼の右前百メートルあたりを駆けていたが不意に止まり、円を作り始める。彼はその犬達の目線の先に目を向けると、人がいた。晴樹は木の影に隠れその様子を伺う。犬の目は鋭く、その真ん中の人は剣を構え、犬の行動を注視している。そして時が止まったかのように睨み合いが続いたその次の瞬間、一匹の犬が襲いかかった。
そしてそれと同時に剣を持った人はその犬の両首を易々とはねた。残りの犬もすかさず襲いかかるが、その人は華麗に避け次々と首が落ちていく、ついに最後の犬は恐怖し逃げ出した。しかしその人間は何かを飛ばしてその犬にとどめを刺した。
なんとも凄まじい現場を見てしまったと彼は思ったが、ようやく見つけた人間なので恐る恐る話しかけにいった。
「す、すみません!」
その人間は彼の声に気がついた。
「はいどうかされましたか?」
その人は穏やかな女であった。
この女性が剣を振いあの二つ頭の犬を屠ったのか、と彼は困惑した。しかし彼女の様子は至って普通であり見られてしまった罪悪感などは持っていない。
「えっとそのなんと言いますか、私は旅をしていまして、その道中迷ってしまいまして、できればこの近くの町への行き方を教えていただけるとありがたいのですが」
晴樹の表情は少し強張っていた。
「道に迷ってしまわれたのですね、お気の毒に。私でよければもちろん案内いたしますよ。ここから近いので安心してください」
その女はとても親切に対応し、彼はその女の案内についていくことにした。しかし女は依然として剣を握っている。
その女性は名前をナツキ・エイデンといい、歳は十八歳。白い甲冑を厳しく身につけ、背中にはその手に握った剣をしまう鞘がある。金髪の髪は太陽の光を反射し輝いて、玉のように美しい青い瞳を持っている。
晴樹には色々な質問が浮かんできて、何から聞こうか迷っていた。
「さっきナツキさんが倒していたあの動物はなんなんですか?」
「ご存知ないのですか?あれはヌマイノという魔物です。基本的に山で他の魔物を狩っているのですが、たまに人里に近づいてくるのです。とても凶暴なので現れたら駆除するようにと依頼がやってくるのです」
「なるほど、それでナツキさんがその依頼を受けて倒していたってわけですか。ですがあの最後の一匹は何で倒したのですか?」
彼女は不思議そうに、少し訝しんだ表情を浮かべる。
「何でって、魔法ですよ」
「魔法…?」
「有馬さん、あなたはどちらからいらっしゃったのですか?」
「日本の東京です」
彼女はさらに怪しんだ。
「ニホン……」
「どうかされましたか?」
「いえ、なんでもないです」
沈黙が辺りを包む。晴樹は会話を続けようと、
「あのどうしてずっと剣を握っているんですか?ここはそんなに危険な場所なのですか?」
「いいえ、ただそちらの一つ頭のヌマイノが気になります。敵意はないようなのでこちらからは攻撃はしませんが、万が一のために」
ナツキは目を光らせている。
「ああペックのこと。この子は大丈夫ですよ、僕の家族なので」
「本当ですか?人間とヌマイノが共存するなんて初めて見ましたよ。ヌマイノはその凶暴性が故に使役するのは不可能と言われていましたのに。一つ頭の個体は問題ないのでしょうか」
「まあこの子はヌマイノではなくって犬っていうんです。犬は人間に懐きやすいんですよ。ほら」
そうしてペックの頭を撫でたり抱きついたり、顔を舐めさせたりしてみた。
「初めて見ました。私も触ってみてもよろしいですか?」
「もちろん」
ナツキが手を伸ばしていくとペックは優しく近づく。
「…!」
そのよく手入れの行き届いた毛並みはツヤがあり、柔らかくどこか芯がある。彼女は特に顔の横のフワフワな毛を触っている。ペックは大人しく尻尾を振る。
「すごいです、イヌという個体はとても優しいですね」
ナツキは剣を鞘にしまった。
そして彼らは再び歩き始めた。彼が道中聞いた話だと、この国はヒイノといい、ヒイノの最北端には魔王という存在が地域一帯を占拠している。魔王討伐に国は尽力しているが結果は虚しく終わり死傷者を増やすのみであった。魔王の目的は人類の殲滅であり、人類は長い間抵抗をしている。
──彼らが歩き始め十分が経とうとしていた。
「変ですね、一向に町へ着く気配がありません。同じところをぐるぐる回っているような」
ナツキの表情が曇る。殺風景な場所であるからこそ彼女は気が付かなかった。歩いても歩いても道はどこにもつかない。
すると彼らの背後に何かが落ちたような音がした。どしんと轟音を響かせ現れたのは、腕六本、三面の顔、そしてその手には様々な武器を持った怪物がいた。怪物の背は横の木々よりも遥かに高かった。
三つの顔はそれぞれ正面が牛、右が豚、左が羊のような顔。それぞれが憤怒の表情を浮かべ、目に見えるほどの禍々しいオーラを放ち、空気が歪む。
「──ここは私に任せて有馬さんは逃げてください!」
ナツキは晴樹を突き飛ばし、素早く剣を抜き構えた。
「そんな無茶な!」
怪物は斧を勢いよく振りかざす。斬撃が空を切り、鋭い音と共に噛みつく。
ナツキは剣でなんとか弾き軌道をそらす。
金属が激しくぶつかったような、鋭く激しい轟音が鳴り響いた。
ナツキは剣を構えたまま早く逃げろと言っている。
到底勝てる相手ではなさそうで、晴樹は「そんなことできない」と言ってナツキの手を引き一緒に走り出した。
怪物は突然現れた岩を持ち上げ、大きく振りかぶる。岩が飛来し、逃げる彼らではなくその先に落ちた。
「こうなったら最初から全力をぶつけます。水ノ精霊ヨ、汝ラガ持ツソノ水ノ力、今私ニ与給へ──」
ナツキの詠唱が始まると空中に魔法陣が現れ、キラキラと光を放ち、風が吹く。
「──私ハ水ヲ信仰シ奉ル者。汝ガ力ヲ世界ニ顕シ給ヘ。ハイドロバスター!」
詠唱が済むと勢いよく青い水の矢が飛び出し怪物の左胸付近に直撃。肉に重いものが当たった時のような鈍い音が聞こえた。
しかし一瞬怪物をよろけさせただけで、再び動き始めた。
「今のでダメなのかよ!」
晴樹の全身が強張った。その魔法の威力に、そしてその怪物の耐久力に。魔法を使った戦い、ましてや武器を使った人間の戦いすら見たことない晴樹にとっては、致命傷を与える一撃かのように思われた。だが怪物は気にも止めずに向かってくる。
ナツキは脱力したように、地面に跪いて(ひざまず)しまった。
「もう私たちはダメです。ここで終わりです」
ナツキの声は力無く悲哀を含みより絶望の感を増した。
晴樹は自分が魔法を使えたらと考え、アニメや漫画などでよく聞く呪文を思い出し精一杯唱えてみたが、何も起こらない。怪物はどんどん近づいてくる。
逃げ場はなく、もうダメだと二人が思っていたその時──
「ガウウゥゥ…ワン!」
「ペック!ダメだ!」
ペックが急に怪物に近づき、吠え始めた。
その次の瞬間、轟音と共に怪物の身体はたちまち炎に飲み込まれ、怪物は悶え苦しみ始めた。
怪物は唸り続ける。そして怪物は炎を払おうとあちこちのたうち回っている。
近づけば忽ち火傷しそうなほどの熱気が彼らを襲う。そして怪物は強引に武器を振り上げるが、
「ガウガウ!」
ペックがまた吠えるといっそう炎は大きくなり、怪物はまもなく絶命した。
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