星の加護クズおじさんの言葉はニュートリノ
〝ネバーギブアップの星〟の下に生を受けているタノスケは決して諦めず、しかし傍目にはストーカーにしか見えないしつこさで冬美にメッセージを送っていた。しかし、まったく返信が来なくて絶望していた、今回はそんな時期の話。
度重なるタノスケの卑劣な裏切りと愚行に、そして、延いてはタノスケという存在そのものに、遂に耐えられなくなった冬美は、ある日夏緒と春子を連れ、九年もの長きにわたり共に暮らしたこの家を出て行った。
出て行った先の新たなる定住の場所は、この家より三十分たらずのところにある冬美の実家である。冬美の父親は何十年もの間、中規模のプレス工場を経営しており、その工場の、敷地内だが端も端に、冬美の母と二人で暮らしていた。
冬美は両親にしてみれば三人いる子女の、その長女で、下の二人は独立して家を出ており、冬美が夏緒と春子を出戻りムーブでもって連れてきて一緒に暮らしはじめても、実家には十分なスペースがあるのだった。
また、引っ越し先が三十分足らずの場所であることは、夏緒と春子にとっても非常によいことだった。夏緒は進学する予定だった中学校に予定通り入学できるし、春子も、今までよりは通学時間が延びてしまい、厳密にいうと学区とやらは隣の学区になるとのことであったが、しかしそこでも十分に通っている小学校に通学可能圏内であるし、転校するしないはそれぞれの学区の校長に事情を話せばかなり融通も利くようで、転校する必要もなく、今までと同じ小学校に通えるのだった。
一緒に成長してきたお友達と離れることなく、これからも共に多くの思い出を作っていけることにタノスケは安堵した。ただでさえ自分のゴミのような行動の累積により迷惑をかけているのに、それに加えお友達との関係までも引き裂くことにもしもなっていたら、もうそれこそ合わせる顔を失ってしまうところだったのだ。既に、今でも十分に合わせる顔はないのだが、しかし、ほんの僅かでも以後の交流の可能性が維持されたような気配を、一方的な手前勝手推量によるものだが、敏にタノスケは感じ取っていたのだ。そして、それを、まったく自分の手柄ではないのにも関わらず、自身の安心を支える理論の大黒柱的支柱として据えようと無理にも心中画策していたのだった。
だが、それが案外捏造理論でもないことは、家に一人取り残され、冬美に送った贖罪ラインも一向に既読にならないしで寂しさが究極に高まった頃、我知らずフラッと家を出て、夏緒と春子がよく遊んでいた公園を覗きに行ったときに判明した。
そこは、タノスケの住む家と冬美の実家の丁度中間にある公園で、隣接するプロサッカーチームの施設の所有なのかは知らぬが、そこが管理をしているようで、いつも綺麗で治安もよく、ボール遊びも可能となる高いフェンスがいくつも設置されていた。
夏緒と春子は、引っ越す前からよくこの公園で遊んでいた。だから、そこに行けばきっと二人に会えるとタノスケは思っていた。しかし、どの面下げてということもあるがそれよりも、もしも二人に会って、その瞬間に逃げられでもしたら自分はもう立ち直れない、という思いがタノスケのうちにはあり、まずは冬美とのコンタクトが必要だと、何度も連絡していたのだが、何度連絡しても梨の礫で、そうこうしているうちに時は経ち、夏緒は中学生になったのだった。
中学生になった夏緒の姿を一目見たいと思った。夏緒はその、通う予定の地元中学校の制服のデザインは自分の好みではないようなことを言っていて、言われてみれば道行く当該中学校生徒の制服をみると、たしかに野暮ったい、むしろ思い切って古風とでも表現したくなるような、明らかにスタイリッシュさに欠けるデザインであると思ったが、しかし、そんな制服でも夏緒が着ればとびきり可愛いだろうなとタノスケは思った。
タノスケにとって夏緒は、いつまで経っても四才の頃の、すなわち初めて会った頃の夏緒で、それが初めての子育てだったタノスケにとっては実に印象深く、四才の、いつも細い手を大きく開いて抱きついてくる夏緒が可愛くて仕方なく、その頃の、今から思えば幸福の絶頂時に目に焼き付いた残像が、小六の時点ですでに身長も大人くらいにまで成長していた夏緒を見る際も常にその姿に一枚フィルターをかませるようにして挟まってきて、目にいつも幸福な像を結ぶのだった。
んで、ともかく、ほとんど思わず無意識にといった態で、ある日タノスケは家を出ると、件の公園に向かったのだった。時間は午後四時である。夏緒と春子がそれぞれのお友達と遊んでそこにいるとしたら一番可能性が高い時間である。もっとも、夏緒は中学に入ったら、最近始めてすっかり魅了されたバレーボールを続けるべく必ずバレーボール部に入ると言っていたから、午後四時というこの時間ではまだ中学の体育館で部活をやっていて公園にはいないかもしれなかった。
しかし、まさか中学の体育館に突然顔を出すわけにもいかないから、とりあえずタノスケは公園へと向かうしかなく、んで、手入れをまったくせず、風雨に晒され続けたことですっかりチェーンが錆びた自転車に跨がったのだが、漕ぐたびにキーキーと耳障りな音が鳴ってすれ違う人の視線が集まるのが不快でならなかった。そして、その、音をきっかけに集まった視線が、次にはタノスケのすっかり窶れきった醜い風貌によってそこ固定されるというその毎度の自動を、タノスケは不快を超えて絶望心地で、その絶望によってただの単調だったキーキー音は、どこまでも深みのある絶望の旋律へと変貌するのだった。
そんなこんなで公園に着くと、その入り口付近にて、タノスケは春子の姿をなんなく認めたのだった。
春子はタノスケに気づくと、少しだけ驚いた表情になったが、数ヶ月ぶりとは思えぬほどナチュラルな笑顔になり、タノスケの元に駆け寄ってきた。そして
「パパぁー!」
と嬉しげな声を上げながら力一杯タノスケに抱きついてきた。この一幕だけで、冬美は娘達にタノスケに対する恨み節を聞かせていないことが十分に知れた。内心それを恐れていたタノスケは、ふっと深い安堵と共に、久しぶりに春子を抱き締められた喜びと、冬美の深すぎる慈悲に対する感動とで心が激しく打ちのめされ、その打ちのめされの振動のまま嗚咽に泣きじゃくったのだった。
暫くして落ち着き、春子を胸より離すと、春子は最近の学校での出来事や、バレーボールが上達した話や、祖父母との快適な暮らしのことなど、色々に話してくれた。その話の中で、パパもこっちに来ればいいじゃん、なぞ、無邪気なことも口走り、タノスケをさらにホッとさせたのだった。
そのうち、数十メートル先から複数人の、春子を呼ぶ声がした。遊ぶ約束をしていたお友達だろう。まだ四年生である。現金なもので、春子は、またね! と言うとお友達の方へと駆けていった。その背中を見ながらタノスケは、こんなことならもっと早くこの公園を訪れるべきだったと思った。
そして、この流れなら、もしかしたら冬美と復縁することの叶うのではないかと、そんなお目出度い予想を立て、その予想に目頭を熱くしながら深く酔いしれたのだった。
しかし同時に、自分が今まで冬美に対してやってきたことを考えれば、その予想はほとんど夢物語のようにも思われ、すると残酷な現実に引き戻され、そこの永久凍土に封印されるようなイメージまで浮かび、それがどんどん脳内を浸食してくると急転、熱かった目頭から俄に氷柱が垂れる心地。
そも、もはやタノスケの言葉は冬美に届かないのだ。話を聞いてもらえないとか、メールを送っても既読にならないとか、それもそうなのだが、それ以前に、もうすでに完全に、タノスケの言葉は冬美にとって軽すぎてまるで心に響かない、というか、そも当たりさえしない、擦りさえしないものに成り果ててしまったのだ。もはやタノスケの口から出る言葉は、それが字面だけみればどんなにご立派で至誠なものであったとしても、それは冬美の心どころか細胞一つにも届かず、スッとすり抜けてしまうくらい軽く極小なものに成り果ててしまったのだ。
タノスケは〝宇宙物理学の星〟の下に生を受けていて、その知性を隠そうとしても隠せないところがあるので、この冬美との現状を専門用語を思わずに使いながら説明すると、タノスケの言葉はニュートリノくらい軽く、小さなものになってしまっているのだ。だからそれにより、相手のたった一つの細胞すら、もちろん心の一部の一部のその端っこにすら、まったく擦りもせずにスルリ虚しくすり抜けていくのだった。タノスケはこれを〝言葉のニュートリノ状態〟名づけ、呼び習わしているのだ! だから何? という話だが……
と、そんな感じで無駄なことを考えていると、横から急に声をかけられた。男の子の声だ。
「あ、春子のパパじゃん」
見ると、たしか去年春子と同じクラスだった男の子がいた。活発な子で、タノスケはこの子と鬼ごっこなどして何度か遊んだことがあり、顔見知りだった。
「これ、ちょっと押してみて!」
男の子が半笑いの顔で差し出して来たのは、明らかに罠と知れるライターだった。よく、パーティーグッズなどにある安物で、火を付けようと押すと火は着かず、代わりに手に軽い電気ショックが流れる代物で、んで、それに驚く様子を観察して楽しむという実に下賤な罠アイテムだった。
「嫌だよ。自分で押せよ」
タノスケがそう言って断ると、男の子は、いいからいいからと、しつこく迫ってくる。一瞬、今僕は春子に会えた喜びと、冬美が子供たちを怨念で洗脳していないことが判明した喜びに満ちている富豪心地だから、このくだらない遊びに付き合ってあげてもいいかななぞ、富裕層特有の発想も浮かんだのだが、しかし、この子の底抜けのバカさが思い出され、もしも今僕がこのライターの火を着けようとスイッチを押して、そしてまんまと罠にかかったかたちになったら、このバカはそれに狂喜乱舞して喜び、きっとバカステップを刻みながら春子たちグループの輪の中へと突進、そして事実を針小棒大に加工したうえで呆れるほど大袈裟に吹聴してまわるに違いないと思われ、そうなれば愛しき春子に少しく恥ずかしい思いをさせることになるのではないかとタノスケは危惧した。せっかくに互いの間に温かいものしか流れていないような実に好ましい状況なのに、このバカでゲスな男の子の、その一時の快楽のために、春子との自分の間を流れる温かな流れを幾分でも乱すことは、これは随分と損なことのように思われてきた。だから、
「お前が押したらオレも押すよ。まずはお前が押せよ」
なぞ言って再びの押し問答モードに入ってやったのだが、その時、不意に横から手が伸びてきてそのライターを手に取った。そして、すぐさまカチカチと何度も押し始めたのだった。
その、五回六回と無言で押し続ける手、その、押し続けるのは誰かと見ると、夏緒だった。
制服を着て、僅かに微笑しながら一心にライターを見つめ、カチカチ続けている。目の淵は潤み、薄らと煌めいている。その様子を、その悪戯ライターの持ち主たる男の子は、そんなはずない、ノーリアクションで耐えられるはずがない、押すたびに電気ショックが指に伝わっているはずだ、それなのになんで? と言いたげな顔でまじまじと夏緒の顔を見つめていた。タノスケはといえば、呆気にとられてしばし呼吸すら止まる思いで夏緒を見ていたが、程なくして夏緒は、はい、と言いながら、最後までノーリアクションを貫いたまま、その悪戯ライターを男の手に返却した。男の子は呆然と受け取ると、もしか故障したのかと自身でライターのスイッチを押してみた。
「痛ッ!」
指に走った鮮烈な痛みに男の子は思わずそう叫び、これをもたらすスイッチを何度も何度も無言で押した夏緒を気味悪げに一瞥するとどこかへ去っていった。
夏緒は顔をあげた。深い、実に深い微笑だった。春子とはちがい、もはや夏緒は大人なのだとタノスケは思った。冬美がどの程度夏緒に事情を説明しているかは分からないが、夏緒はその心の襞で両親たる冬美とタノスケの人間としての真相をヒリヒリと軽く出血しながらも精一杯に受け止め味わっているのだった。
思わず、ポロポロと涙が出たタノスケは、すぐに夏緒から顔を逸らし、横を向くと涙を拭い、感情の激流のその最も盛んなところが過ぎ去るのを待った。
「パパ。あたしバレー部入ったよ」
久しぶりに会った父との会話が待ちきれないような、そんな幾分急いている風情すら感じられる、タノスケとすれば天にも昇るほどに嬉しい響きで夏緒はそう言った。
「おお、そうか! ポジションどこなの?」
バレーボールといえば、テレビで、日本代表女子の試合をグラビアアイドルを見る眼差しと全く同じ眼差しで見ていた程度の、その程度の経験しかないタノスケは、もちろんバレーボールに関する知識なぞ皆無に等しく、ポジションを聞いてもそれが何をする役目なのか見当も付かないくせにそう尋ねた。
夏緒は、そんなタノスケの予備知識皆無なくせにどんどん深みに入っていこうとし、すぐに無知を露呈するだけの不様ムーブのいきなりの開始に懐かしさを覚えたものか、表情を一気に、一緒に暮らしていた頃のあの溌剌としたものに変えると、部活のことや学校のことなど、話したいことがたくさんあったのだろう、それこそ止め処ないといった調子で話し続けた。
タノスケはその夏緒の話を、いつものバカ面まま、しかし最大集中力でもって、随所に感嘆の声を上げながら聞いた。タノスケにはあまりにも幸せな時間であった。
しかしそのうち、話は現在夏緒が抱えている悩みの方へと流れ出したのだが、その悩みというのは、部活の、その顧問の傍若無人の言動についてのことだった。
聞くと、その顧問は若い女性の先生であるようで、随分と高圧的な指導をする先生で、口から出放題に暴言も吐き、唖然とするほどの専横っぷりなのだそうだ。そして、あらゆることにおいて聞く耳なぞ当然に持ち合わせておらず、間違ったことでも間違ったまま押し通し、ついにそれが因となり破綻が発生露呈してもその責を生徒に押しつける始末なのだという。そして、その指導も、生徒にしてみれば指導と呼べるようなものでは到底なく、それは体罰だと言いたくなるようなものなのだが、しかし、それは技術的に未熟なことを罪とすれば体罰だと言えるという話で、どう考えても技術的に未熟なことは罪ではないから体罰というよりも、その先生のやっていることは虐待だと、少なくとも生徒の方ではそう受け取っているとのことだった。そして、そのストレスでどうやら夏緒の同学年の何人かは、入部して数ヶ月にも関わらず、早くも退部の方向に心を決めているとのことだった。この悲惨なる状況に、冬美も心を痛めているとのことで、他の保護者との連携を模索したようだが、他の保護者の傾向を夏緒の同級生を通じて探るに、どの子の保護者も、中学の部活なんてそんなものだし、むしろそうあるべき、みたいなスタンスで相談するだけ無駄だとのこと。ならば中学の校長とか教頭とか学年主任とかに相談したらどうかと言えば、それも皆揃いも揃って保護者たちと同じか、もしくはそれよりももっとスポ根方向へとアクセルを踏んだ精神の構えをしている有様らしいのである。この、八方ふさがり四面楚歌的現状に夏緒は同じバレーボール部の、小学校時代からの友達八人とがっちりと手を握り合いながらひたすら毎日耐えているとのことだった。
話を聞きながら、まずタノスケは夏緒の成長っぷりに驚きながら、また、地元の中学に進学できたおかげで小学校時分からのお友達と支え合え、本当によかったとの思いを噛みしめていたのだが、話を聞き終わった頃には、タノスケは、その女教師に対し、はっきりと殺意を覚えていた。少なくとも面前にまでしゃしゃり出て、夜道には気をつけろよ等々、血走った目を見開いて言ってやろうかと思った。
しかし、そんなことはちょっと考えるまでもなく実行不可能なことである。そんなことをしたらタノスケは警察に捕まり、夏緒の現状はさらなく暗黒色で塗りつぶされることだろう。
では、どうするか? 自分は何をすべきか? 夏緒は何をすべきか? 考えてみたが、タノスケには何も分からなかった。いいアイデアが一つも思い浮かばなかった。夏緒よりも何十年も多く生きているのに、ただだらけた不様な時間を過ごしてきただけの人生なので実践的な知識をタノスケは一つも持ち合わせていないのだった。タノスケは、愛しい娘の窮地を知っても何もできない自分が情けなく、いっそのこと自分を蹴り飛ばして地面に転がした末、唾を吐きつけ、その上で念入り存分に踏みつけてやりたいような、そんな心地。そして、そんな思いをぎりぎりと歯がみに噛みしめながら夏緒の顔を見たのだが、意外にも夏緒は随分スッキリしたような顔。で、夏緒は口を開いた。
「友達はみんな、親には相談できない、相談しても自分が怒られるだけだって言ってたんだ。でも、あたしは、ママにもパパにも相談できて、本当によかった」
タノスケは泣いた。
そして、泣きながらタノスケは、必ずや今の、この言葉のニュートリノ状態を脱し、夏緒に、春子に、冬美に、全身全霊の言葉を伝えたい、心底そう思った。