睡眠薬入りの紅茶を飲ませようとした彼女だったが、誤って自分が飲んでしまい俺への好意がダダ漏れしている
『今日の放課後、私の家に来ませんか? 良い茶葉が手に入ったんです。紅茶をご馳走します』
俺こと睦月蒼司がそんなメッセージを受け取ったのは、金曜日の昼休みのことだった。
送信主は、飯嶋優子。俺の彼女だ。
愛する恋人からのお茶のお誘いに、俺は複雑な気持ちを抱いていた。
「気まずいなぁ」
というのも、優子とは先週末から絶賛喧嘩中なのだ。
喧嘩のきっかけ自体は優子の送ってきたメッセージに俺が半日返信しなかったからというもので、ひどくつまらないものだった。
「彼女からのメッセージを半日も放置しないでよ!」というのが優子の言い分であるが、先週末は来たる小テストに向けてスマホの電源を切ってまで勉強に集中していたわけで、だから俺に非はないと考えている。
恋人と勉強のどちらが大切なのかと問われれば、どっちも大切に決まっている。
だからその都度優先度も変わるし、先週末に関しては小テストで赤点を取ると補習を受けさせられるという背景があったため、勉強優先だった。
俺も優子も自分が悪いと思っていない。だから謝らない。結果金曜日になっても、ギクシャクした関係は続いているのだ。
振り返ってみたらこの一週間、恋人らしいことは何一つしていなかったなぁ。
登下校も、わざと寝坊したり本を借りないくせに図書室に行ったりして、一緒になるのを避けていた。
休み時間も会話しなくて済むように、ひたすらスマホをいじったり毎時間用もないのにトイレに行ったりした。
お昼も互いの友達と別々の場所で食べるようにしている。今だって、そう。
だからお茶のお誘いは、きっと口実だ。他に要件があるんだと思う。
もしかしたら、一週間近く経っても未だ謝罪してこない俺に、ブチ切れているんじゃないだろうか? 熱々の紅茶と一緒に、俺に日頃の不満をぶち撒けるつもりなんじゃないだろうか?
そう思うと、お茶会なんて絶対参加したくないんだけど……ここで誘いを拒めば、火に油だ。余計優子を苛つかせることになる。
手が付けられなくなる前に、ここいらで一度溜まりに溜まった彼女の不満を発散させておいた方が良いだろう。
お茶会の参加を決めた俺は、優子に『担任に手伝いを頼まれているから、終わったら向かう』と返信する。
担任の手伝いなんて、ありはしない。少しでもお茶会開始を遅くさせる為の言い訳だ。
◇
優子の家は、豪邸だ。恋人なので何度か訪れたことがあるのだが、いつ来ても広大な敷地面積に驚きを隠せない。
我が家の4、5倍は広いんじゃないか? これだけ広いと掃除も大変だと思うけど、こういう家にはきっとお手伝いさんがいるんだろうな。会ったことはないし、本当にいるのかどうかも知らないけど。
玄関チャイムを鳴らすと、『どちら様ですか?』とインターホン越しで尋ねられる。優子の声にしては幾分か低かったので、多分彼女のお母さんだろう。
専業主婦なので基本在宅しており、その為何度か顔を合わせたことがある。優子のお母さんからは、結構気に入られている方だ。
俺は優子のお母さんに、名前と用件を伝えた。
少しして、玄関のドアが開く。
「いらっしゃい、蒼司くん。来てくれて嬉しいです」
出て来た優子は制服から私服に着替えていた。
片寄ロングの三つ編みと白いワンピースは、優子の清楚さを際立たせていて、纏う雰囲気から他意(具体的には殺意)は感じられない。
しかし初見だけで疑念を完全に払拭する程、俺は素直じゃない。半信半疑のまま、俺は飯嶋家の敷居を跨いだ。
「こうしてきちんとお話するのは、一週間ぶりですね」
「そうだな。最後に聞いたセリフは、「バカ野郎」だったし」
「違いますよ。「大バカ野郎」です」
わざわざ訂正しなくて良いだろうに。だけどそのわざわざをしたということは、優子も相当ご立腹だということだ。
俺は優子の部屋に案内された。
優子の家に来た時はリビングで過ごすことが多く(というのも、彼女の部屋に行く途中で優子のお母さんに捕まってしまうのだ)、実のところ彼女の部屋に入るのはこれが初めてだ。
「気兼ねなくくつろいで下さい」と言われても、いやいやどこでくつろげば良いんだよ。ベッドの上? それとも出入り口付近? 彼女の部屋に来た彼氏って、普通どこに座るものなの?
そんな俺の困惑を察したのか、優子はクッションを投げてきた。
「遠慮しないで、そこら辺に座って良いですよ」
「あっ、あぁ」
言われた通り、俺は近くにクッションを置きその上に正座する。
改めて大きく息を吸うと、女の子の部屋ならではの良い匂いが鼻腔をくすぐった。
「紅茶を淹れてきますので、少し待っていて下さい」。そう言い残して、優子は自室を出て行く。
彼女の部屋に一人きりになった俺は、お決まりというように部屋の中を見回した。
高級感溢れる、天蓋付きのベッド。このベッドで優子は毎晩寝ているのか。
睡眠時の優子は、どんな感じなんだろう? パジャマのボタンが外れて、胸がはだけたりしているのかな? 夏場なんかは下着で寝ているのかな? それとも……寝る時は何も着ていなくて、あのマットレスは直に優子の裸体と触れているのかな?
俺の部屋にあるものよりひと回り程大きなクローゼット。
中には優子の私服のみならず、下着も収納されているのかな? いつ俺とそういう行為に及んでも良いように、新品の勝負下着があったりして。
俺も男子高校生。思春期真っ只中なので、妄想が抑えられない。
そんな感じで妄想にふけていると、優子が戻ってきた。
優子の持つお盆の上には、ティーカップが二つ乗っており。確かに中の紅茶からは、良い香りがする。
「どうぞ」
「あぁ、ありがとう」
ティーカップを置き終えても、優子は座ろうとしなかった。
「あっ。クッキーを忘れてしまいました。取ってきますね」
優子は再び自室を出て行く。
優子がクッキーを取りに行っている間に紅茶に手をつけるのは、どうかと思う。待っていた方が良いだろう。
彼女が戻ってくるまで、俺は紅茶を見て楽しむことにした。
「……」
もしかしたらの話だ。もしかしたらなんだけど……この紅茶に、毒とか混入しちゃいないよな?
……いやいや、流石にそんなことはない。どんなに怒り狂っていたって、流石の優子も俺を殺そうとはしないだろう。殺そうとは。
……死なない毒だったら、それこそ俺に判断力を失わせる程度の薬だったら、入れるんじゃないのか。
御仏のような優子の笑みの裏には、必ず悪魔が潜んでいる。
募る不信感を抑えきれなくなった俺は、こっそりティーカップを交換した。
「お待たせしました。クッキー、持ってきましたよ」
クッキーをテーブルの上に置くと、ようやく優子は俺の対面に座る。
「それじゃあ、いただくとするか」
「どうぞ、召し上がれ」
俺は紅茶を一口啜る。
良い茶葉と豪語していただけあって、バカ舌の俺でもわかるくらい美味しい紅茶だった。
「何だよ、これ! めっちゃ美味いじゃねーか!」
「喜んでくれて何よりです。クッキーもどうぞ。私の手作りです」
俺はもう一口紅茶を飲んだ後で、クッキーに手を伸ばす。……うん、クッキーも大変美味しい。
俺が満足そうに紅茶とクッキーを嗜んでいるのを見て、優子も微笑を浮かべながら紅茶を飲み始めた。……俺がティーカップを交換しているとは微塵も思わずに。
紅茶を飲みながら、俺たちは互いに今日学校であったことについて話し始めた。
特筆することのないくらい他愛ない雑談だったのだが、この一週間ろくに口をきいていなかったからその雑談すらもひどく愛おしく思えた。いつの間にか俺も優子も、喧嘩中であることをすっかり忘れている。
お茶会開始から5分が経った頃、優子にある変化が生じ始めた。呂律が回らなくなってきたのだ。
「れねー、亜紀ちゃんが「本当のかっこよさとはイケメンかどうかだ」って言うもんらから、私は「ちがーう! 本当のかっこよさとは、美味しい紅茶みたいなものだ!」って言い返したんらよ?」
「へっ、へぇ。そうなのか」
「そうなんらよ。だから蒼司くんも、紅茶みたいな男を目指さないといけないんらよ」
「あっ、あぁ。そうだな」
相槌を打つも、何が言いたいのかさっぱりわからない。
紅茶みたいな男って、何? 良い香りがするってこと?
「ふあーあ。何らか眠くなってきた」
両手を伸ばしながら大あくびした優子は、ベッドではなく俺に近付いてくる。
俺の膝の上に自身の頭を乗せたかと思うと、スゥスゥと気持ち良さそうに寝息を立て始めた。
「おいおい、何がどうなっているんだよ……」
この状況は、明らかにおかしい。一言で言って、優子らしくない。
俺の前で無防備な寝顔を晒すことなんていつもの彼女ならしないし、こんなに甘えることだってない。
まるで急に眠気に襲われて、判断力を失ったような、そんな感じに見て取れた。
……急に眠気に襲われる? そんな状況に陥るなんて……もしかして、優子は紅茶の中に、睡眠薬を仕込んでいたんじゃないのか?
俺は優子の前髪に軽く触れる。
彼女は「んっ……」と艶かしい声を漏らすだけで、一向に起きる気配がなかった。
何だよ、この生き物。物凄く可愛いな。あまりの可愛さに嗜虐心が刺激されて、顔に落書きでもしてやりたくなってきた。
「売却済」とでも書いちゃおうかな。そうすれば、他の男に可愛い彼女を取られなくて済む。
しかし近くにマジックペンがなく、この悪戯はあえなく断念することになった。
代わりに唇を奪ってしまおうか? いや、いくら恋人とはいえ寝ている隙にキスをするなんて、人としてどうかと思う。
だけどしたいんだよなぁ、チュー。
欲望と理性の狭間で葛藤を繰り返していると、依然夢の中にいる優子が寝言を呟き始めた。
「蒼司くん……大好きれすよ……」
突然の「大好き」発言に、俺の顔はたちまち真っ赤になる。
今のは……寝言だよな? 何の夢を見ているのか知らないけど、うっかり俺への気持ちが吐露しちゃったんだよな?
つまり今の「大好き」は、紛れもなく優子の本音ということだ。
優子の寝言は続く。
「私って素直じゃないから、いつもいつも、酷いこと言ってごめんなしゃい。でも本当は蒼司くんのことが大好きだし、一週間もお喋り出来なくてずっと寂しかったんです。だから……蒼司くんにも、私を嫌いにならないで欲しいな」
良い茶葉が手に入ったからなんて、やっぱり俺を呼び出す為の口実だった。優子の本当の目的は、お茶会でもなければ俺に罵詈雑言を浴びせることでもない。俺と仲直りがしたかったのだ。
一言「ごめんね」と言えば良いものを、こんな回りくどい真似をして。そんなところも、まぁ、可愛いんだけど。
俺は優子の頭を撫でる。
無意識下とはいえ、彼女が本音を口にしたんだ。俺も本音を語らなければフェアじゃない。
「俺も優子が大好きだよ。これからだって何度も喧嘩をするんだろうけど、多分その度に優子が好きなんだって再確認して。惚れ直して。だから……嫌いになるなんて、絶対にあり得ないから」
そう優しく語りかけると、俺は優子の額に軽くキスをする。
どうせ眠っていて、覚えていないんだ。マウストゥマウスはダメでも、これくらいなら許して貰えるだろう。
「明日は久し振りに、一緒に登校しよう。朝一番で、優子を迎えに行くから」
俺は一方的に、そんな約束を交わす。
それから優子を膝の上からベッドに移動させて、彼女の部屋をあとにした。
◇
蒼司が部屋を出て行って、ほんの数十秒後。ムクっと、優子が起き上がった。
彼女に寝惚けた様子は微塵もなく、目の焦点だってしっかりしている。まるで、初めから眠ってなんていなかったかのように。
「どうして私の彼氏は、こうも疑い深いんでしょうか? 睡眠薬なんて、入れるわけないでしょうに」
実際のところ、優子の飲んだ紅茶には砂糖が少々入っているだけで、睡眠薬なんて混ざっていなかった。
故に優子が急な睡魔に襲われることもなく、眠っていたなどという事実もなかった。
キッチンでクッキーを取ってから部屋に戻って来た時、優子は偶然蒼司がティーカップを取り替えているところを目撃してしまった。
「どうしてそんな意味のない行為を?」と思った優子だったが、すぐに紅茶の中に何か混入していると疑っているのだと察した。
「そんなに警戒しなくても、何も入っていませんよ」。蒼司にそう告げるのは簡単だ。信じて貰えるかどうかは別として。
しかし優子は、どうせなら蒼司の勘違いを利用してやろうと考えた。
寝たフリをしていたお陰で、普段なら言えない本音を口に出来た。聞けない本音を聞くことが出来た。
優子は口付けされた頬に触れる。
蒼司の言葉を思い出すと、どうしようもなく口元が緩んでしまっていた。
明日は一週間ぶりに、蒼司と登校する。まだ夜にもなっていないのに、今から明朝が楽しみで仕方ない。
この勢いで、週末にデートにでも誘ってみようか。その時は紅茶に媚薬でも入れて、ファーストキスをせがんでみようか。
優子は人知れず、そんな計画を企てるのだった。