4 恐ろしき大晦日
山岡荘二郎側の話に戻るが、小倉とはそれからもまったく連絡がつかなかった。いよいよ山道での事故の可能性が高まるが、銀泥荘の人々は、この吹雪の中ではどうすることもできず、また何かが起こったというのは想像の域を出ていないので、とりあえず今晩は様子をみることにした。
午後十時頃になると、杏と諭吉は館内で鬼ごっこを始めたが、すぐに母親たちに怒られて「静かに遊ぶこと」になった。楓は、その様子を微笑ましく思って眺めていた。
この時刻になると、今年もあと二時間で終わりと言うことが名残惜しく感じられてくる。楓は、今年の一年を振り返って色々なことが思い出されて、妙に感傷的な気分になっていた。
「ねえ、あの二人の男、大丈夫かねぇ」
とソファーで隣に座っている母親の富士江が、楓にそっと話しかけてきた。
「大丈夫って?」
「犯罪者じゃないかって心配してんのよ」
なんだ、そんなことか、と楓は思った。
「それは大丈夫でしょ。だって、ふたりの内の一人は警察官だっていうじゃない」
「そう名乗っているらしいけどね。わたしたちには警察手帳が本物かどうか、鑑定なんてできないしねぇ」
と富士江が嘆くように語る。富士江が心配していることは楓もよく分かる。しかし楓は、あの私立探偵の羽黒祐介のことがすっかり気に入ってしまって、微塵も心配は感じていなかった。今頃、あの人は部屋の中で何をしているのだろうか、食事は何か持参しているのだろうか、恋人はいるのだろうか、などいろいろな心配をする。
その直後だった。三田村執事が居間と厨房をつなぐ出入り口から不審そうに歩いてきて、楓と富士江に話しかけてきた。彼の手にはコーラが半分ほど入ったペットボトルが握られている。
「あの、わたしのコーラ、飲んだ人いますか?」
楓は首を傾げた。
「さあ、減ってるの?」
「ええ、冷蔵庫を覗いた時に気付いたんですけど、誰か間違えて飲んだのかなぁ。ちょっと薄気味悪いですね」
「捨てちゃえばいいじゃない。それで、代わりに新しいのを開ければ……」
とせせら笑う楓は、資産家の娘であるから、三田村がたかがコーラの一本ぐらいで何をそんなに悩んでいるのか、よく分からなかった。
「他人に飲まれないように冷蔵庫に入れていたのですけど。まあ、新しいやつがまだ何本もありますから良いです。でも、それらはまだ冷えていないんですよね」
「氷を入れて飲めばいいじゃない」
そう言って、楓は再び笑った。三田村執事は、そう言われて幾分恥ずかしそうな表情をうかべるとのそのそと厨房の方に戻っていった。
「嫌ねぇ、三田村は貧乏くさいことばかりを言って、あれは貧民の出なのですよ」
と執事の姿が見えなくなると、富士江は苦々しくつぶやいた。
「じゃあ、お父さんと同じじゃない」
「そうねぇ、あの人も育ちが貧しいわよね。なにしろ下町の工場の息子だからね。あの人のそういうところがあなたに遺伝しないか、いつだって心配しているのよ、わたし」
と富士江は言った。楓は、やれやれ、と思った。富士江は、小さいころから裕福な家庭で育ったのである。いかにも下町の出身者を蔑視している口調で、富士江は言うと、アレルギーでも起こったようにぞぞっと二の腕を抱いて震え上がった。
楓は、もう午後十時を過ぎたので、風呂に入ろうと思った。広めの浴場が地下にある。男性と女性とで時間を分けて入浴することになっている。自分が入浴する際は、異性が乱入して来ないように札をかけることになっている。
楓は、脱衣室で洋服を脱いでーーそれはつまりブラジャーを外し、ショーツまで脱いだということであるーー溌剌とした肉体を鏡を映すと、浴室に移動して、広い浴槽に飛び込んだ。しばらく水死体のように湯船に体を浮かべている。大変、気持ちがよい。ぼうっとしてきて眠くなる。羽黒祐介のことを考えると顔が赤らむ。
(羽黒さん……)
楓はあれやこれやと妄想にふけるあまり、うっとりしてしまい、口を湯に沈め、ぶくぶくとジャグジーのように泡を膨らませていた。こんなことをしていると、茹ってしまいそうなので、楓は耐えられなくなって、ざばっと湯から上がろうとした。
その時、ガラス戸がガラッと音を立てて開いたので、楓は慌てて、体を湯に沈めて、裸が見られぬように気をつけた。
「なんだ、杏か」
楓は安堵の声を上げた。妹の杏がなぜか部屋着を着たまま、浴室に入ってきたところだった。
「今ね、諭吉と隠れんぼしているの」
「こんなところに隠れんのは駄目よ。ゆっくりお風呂に入れないじゃない。あと、お父さんの展示室と収蔵室も駄目よ。絶対、怒られるから……」
と楓は姉らしく、杏に注意した。
杏は、はあいと言って、眠そうに欠伸をすると、浴室から出て行った。
*
「俺たちの飯はなんですか」
と根来は、部屋の前の廊下を通りかかった三田村執事に尋ねた。午後十時を過ぎても何も用意されないとさすがに不安になる。執事は、わずらわしそうな表情を浮かべて、
「あなた方にお食事の用意が必要だとは思いませんでした」
と文句のようなことを言った。
「あ、いえ、これは失礼しました。実はなにも持ってきていないんですよ。軽いものでも良いので、少しでもありましたら……」
「ええ」
執事はあからさまに不満げであったが、二十分後にはサンドイッチと年越し蕎麦の残りをお盆に乗せて、持ってきてくれた。
「ありがとう。良いお年を」
根来は、三田村執事にお礼を言うと、執事は冷たい響きの声で、ええ、とだけ呟いて、ドアを力強く閉めた。
「酒、ねえかな。せっかくの大晦日なんだし……」
根来は物欲しげな目で、三田村執事が今しがた出て行ったドアを見つめた。
「根来さん。泊めてもらっておいて、それはないですよ。サンドイッチとお蕎麦を分けてもらえただけでも感謝しないと……」
と祐介は、根来をたしなめる。
「わあってる。わあってるよ。まあ、ささやかな夕食だが、感謝しよう。これで今年も終わりだ。新年もよろしく頼むぞ。羽黒……」
そう言って、根来はどんぶりを持ち上げ、熱々のかけ蕎麦をひとすくい箸でつまんで、ずるずると一気に呑み込む。そして、はふはふ言いながら、分厚いかき揚げを頬張り、汁をすする。
「そうですね。今年もお世話になりました」
祐介もサンドイッチを頬張りながら、今年一年間を振り返った。
この後、しばらく二人は「今年一年を振り返る」会話をすることになった。しかしながら、それは事件の話題ばかりなのであった。
楓が風呂から上がり、溌溂とした肉体に滴る湯を白いバスタオルで拭い、部屋着に着替え、一階の廊下に戻ると、父の山岡荘二郎が神妙な表情を浮かべ、居間から出てきた。
「どうしたの?」
「小倉さんはついに今日は来なかったな。なにか、あったのかもしれない」
「事故とか?」
「ああ、そうかもしれない。そうでないかもしれない……」
荘二郎は意味ありげにそう呟くと、居間に戻ってしまった。
(小倉さんの身になにがあったんだろう……)
楓はそんなことを考えながら、エレベーターに乗り、羽黒祐介の泊まっている部屋に忍び寄った。そしてトントンと二回ドアを叩いた。ガチャリとドアが開いて、根来の鬼面が飛び出してくる。
「なんでしょう」
楓は、根来には反応を示さずに、ひょいと室内に入り込み、羽黒祐介がベッドに座っているのを見て、またしても顔が真っ赤になってしまった。
「あの、どうされましたか?」
祐介は困ったような、苦笑いを浮かべている。
「あの、なにかお困りのことがあったら、わたしに……」
楓はそう言いかけると無性に恥ずかしくなり黙った。その後は、まじまじ床を見つめるばかりで、何をするでもない。ついに間に耐えられなくなって、楓は背後の根来を勢いよく突き飛ばして、部屋から逃げ出した。
*
そうこうしているうちに時刻は十二時寸前となり、食堂では年越しのカウントダウンが行われて、ちょうどの瞬間に酔っ払っている文子が派手にクラッカーを鳴らした。
それから日本酒を飲んだり、ひとしきり盛り上がったが、午前一時には解散することになった。
楓は自分の部屋に向かい、ベッドの中で眠ったのは、午前一時のことだった。
後々考えてみるに、殺人はこれよりも前に行われていたのである。そして死体は、ある場所で首を切断されて、頭部と胴体とに分けられることになった。容疑者たちのアリバイがいずれも成立しなかったのは、このように犯行時刻が深夜から朝方にかけてだったからである。この時刻には、ほとんどの人間が眠りについているか、一人で行動していたのである。
それは羽黒祐介と根来警部も同じであった。二人は年越しの瞬間に、持っていた緑茶のペットボトルでささやかな乾杯をしたが、これから初詣に行くでもないし、酌み交わす酒もないし、午前一時には二人ともダブルベッドでぐっすり眠ってしまった。
このようにして、二人が目を覚ました時には、明けましておめでとうございます、と挨拶するには不吉すぎる元旦となっていたのである。