第1話 蛍
怪我をした祖母の、生活の手伝いをしてほしい。
小遣いアップを目当てに引き受けた母からの頼みで、大学一年生の蛍は祖母の家へと向かう。
季節が秋から冬へと移り変わろうとしていた。
街路樹の葉はすっかり色を変え、風に飛ばされてはあちこちに積もり始めている。気温が下がって、風が冷たくなった。空気が乾く。
空は薄く引いたような雲が一筋あるだけの快晴だったが、遠い日差しでは陽気が物足りない。少し薄着だっただろうか。吹きつける風にもう何度目かわからない身震いをして、彼は――三門蛍は、愛用の自転車をこぎながら体を縮こまらせた。
高校入学時に二代目として与えられた自転車は、高校三年間の通学を共にこなした相棒的存在だ。
この春から大学に進学したあとも、最寄り駅と自宅の往復を日々共にしている。
愛車が走る周囲は、平坦な住宅街だ。
真新しい住宅街を抜けて細い道に入ると、辺りは年季の入った家々が並ぶ古い住宅街へ景色を変える。
その一角、巨大な欅の木が見下ろす小さな公園のすぐ側が、蛍の目的地だ。
向かっているのは、祖母の家だった。
母方の祖母だ。蛍が両親と共に暮らしている家からだと、自転車で約三十分くらいかかる。
遠くはないけれど、なにかのついでで寄るような場所でもない。半端に近いからこそ、特別な用事がないと結局足を向けない。
蛍にとって祖母は『不思議な人』だった。
年齢は確か六十九歳だったはずだ。昨今の時勢からするとまだ若いと言われる年齢だろう。当人も、老人というカテゴリに当てはめていいのかわからないほど、明朗で快活な人柄と健康状態だ。
背は低いが、背筋は蛍よりよほどしゃんと伸びている。髪はいつもさっぱりとショートにしていて、外出するときはヘアワックスなどつけて自己流にアレンジもしてくる。着物を着こなす一方で、デニムのズボンだって履くらしい。
いつだって朗らかで、そして相手が誰であっても真っ直ぐに瞳を見据えてくる人だった。
瞳の底に揺らぐ感情の、細い細い糸一本さえ見逃さないかのように。
その目が昔は好きだった。格好いいと思っていた。
思春期と呼ばれる時期、その目が苦手だった。全部知られてしまうようで。
大学生になってから蛍が祖母に会うのは、今日が初めてだ。盆に両親と祖母は一緒に食事をしたけれど、蛍は同席しなかった。
本当に、会うのは久し振りだ。去年の正月なんてもうずっと昔のことのように思えていた。
どうしているのだろう。元気だろうか。
「いや、元気ではないのか」
速度を落として、最後の角を曲がりながら、蛍は思わず声に出して呟いていた。
そう。元気……かどうかはさておき、万全ではないはずだ。だからこそ今、今日、蛍は祖母の家に向かっている。
どうやら、玄関の段差で転んだらしい。そのときに腰を強く打って、しばらくは立ち上がれなかったそうだ。
半月ほど入院して、二日前に退院した。
自宅で独り暮らしの生活を再開させるにあたって、やはりどうしても助けがいる。そんなヘルプコールを、母が受けたのが昨日。その日のうちに母から相談を持ち掛けられ、仕方ないなという顔で蛍は了承した。
本心は少し違う。
ヘルパー代として、小遣いを上乗せするという打診が母からあった。つい先日、ちょっとしたトラブルでバイトを辞めたばかりだったので、わりと渡りに船の提案だった。
祖母のことも気がかりではあった。
それに、できるならしばらくは同じ場所で何人もと顔を合わせるバイトは遠慮したい気分だった。
けれど学業以外のなにかはやりたかった。
今の蛍に、母からの申し出を断る理由がひとつもなかった。
育ち過ぎた欅が見えてくる。
欅が支配する小さな公園を通り過ぎて、蛍は自転車を止めた。
傍らの家を見やる。
ブロック塀に囲まれた戸建てはこじんまりとした二階建てだ。年季という薄汚れが、元は真っ白だっただろう壁をあちこちから侵蝕している。
背の低いシンプルな門扉と、黄色く曇った蛍光灯の照明が、昭和の風情を感じさせる。
表札には『湊』の文字がある。母の旧姓であり、祖母の苗字だ。
見慣れたたたずまい。だけどひとりで来るのは初めてだ。
なんでだろう、ほのかに緊張している。
自転車をブロック塀沿いに止めて鍵をかけると、蛍はそこだけ真新しいインターホンを押した。
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