5 冬の終わりに
シジルの実をとってきてすぐに冬が明けた。
雪がやんで日差しが温かくなり、雪解け水があちこちで小川を作っている。
アーは回復して、外に出られるのが楽しいと雪に足跡をつけて遊んでいる。彼を守る毛皮は運良く狩れた獣の皮だ。仕掛けにかかったときはすぐに抜けて逃げられそうだったけれど、毛皮が欲しくて必死にとどめを刺した。まだ弱いアーを守るものを一つでも多く手に入れたかった。
アーの小さな足が、真っ白な雪に点々と跡を残す。彼が死ななくて良かった。生きていてくれて良かった。くるりと振り返ったアーが、勢いよく私のもとに走ってきて抱きついた。
「そりすー!」
「じょうずにお話しできるようになったね」
彼の呼び名には赤ん坊という意味しかない。このまま迎えが来ないなら、ちゃんとした名前をつけなければならないだろう。私には「ユーリス」という名前しか浮かばないけれど、それではこの子がかわいそうだ。アーはアーでユーリスではないのだから。
「アー、お名前、どうしようね。アーはね、赤ちゃんっていう意味で本当の名前じゃないの」
「そりすー?」
「そう、私はソリス。どうしたらいいのかな……」
ろくな教養もない私には名前の付け方がわからなかった。母は、「ソリスていうのはね、きれいな光のことをいうの」と教えてくれた。明るい子になってほしかったからだと言われて、名前には意味を持たせるものだと知った。
私はものを知らないから、アーに与えられる素敵な名前がない。ユーリスは私の両親が一生懸命考えて付けた名前だから、アーのためには私がいっぱい考えていい名前をつけてあげたい。
「アー、そりすー」
「そうよ。アー、アー……アーシジルなんてどうかしら。神の木の実の名をいただくの」
「あーしーる」
名前を付けたことで、アーシジルがずっと私のそばにいてくれるような気がした。両脇の下を支えて抱き上げて、くるくると回ると、アーシジルもきゃっきゃと笑った。
「うん。アーシジルね!」
私のアーシジル。今度こそユーリスのように悲しい目に合わせたりしない。紫色の瞳が宝石のように輝いて、私を見つめていた。
洞窟の中は年中同じような気温だった。夏も冬もだいたい同じ。水はいつも澄んだ湧き水が流れ続けていて、湧き出た水は少し溜まってから岩の隙間に消えていく。狭いけれど夏はそこで身体を洗ったりもした。
季節が穏やかになり平穏を取り戻したようだったが、私はアーシジルが死にかけていた時に現れた靄が忘れられなかった。闇は慕わしいものだったけれど、アーシジルには害があるかもしれない。安全な洞窟から出るのは恐ろしかったが、夜以外はなるべく外にいるようにした。
山の暮らしが長くなってきていて、私は獣以外にも怖いものがあることを忘れていた。そいつは何の前触れもなく表れた。
「子供か」
二人で川魚を焼いているとき、不意に大人の声がして全身の毛が逆立つような感覚がした。両親を埋めていた大人は仕方ないと言いつつ、村人を皆殺しにした。危害を加える気持ちがなくても人間を殺せるのが大人の男だ。肉を食べる獣よりも危険な生き物。
私はアーシジルを抱えて走った。声とは反対方向へ、振り返る余裕はない。子供にしか通れないような茂みの穴をくぐってひたすら走って、山深くの岩陰に身を潜めた。
「そ」
「しっ、黙って」
獣の気配には敏感なはずだったのに、人間が近付いているのに気付かなかった。油断しすぎていた。もし村を襲った奴らが帰ってきたのだとしたら、戻るのは危険だ。必死に考えていると、腕の中でアーシジルの腹が鳴る。ふと力が抜けた。大人は通れないようなところばかりを通ってきたから、きっと大丈夫だ。この山の中で、私よりも山に詳しい人間はもういない。父は死んでしまったから。
危険な獣や虫がいないことを確認して、大きな木の上で今日は休むことにした。地面で眠るのは危険すぎる。人も獣も自分の背丈より上は見つけにくいから、隠れるなら上だと父に教わった。その場合は蛇や虫に十分注意するように言われている。
私もアーシジルも肩にかけている毛皮と靴代わりに足に巻いている皮には、虫除けの薬草を焼いた煙をしみこませている。人にも獣にも臭いはほとんどわからないけれど、虫にはよく効くのだと教えられた。薬草は乾かして、別の大きな葉に包んで持ち歩いている。いつでも見つけられる薬草じゃないからだ。
獣除けの薬草もあるけれど、煙が出やすいから人間がいると見つかりやすくなってしまう。父からは、上に木の葉が茂っているところなら煙が散らされて遠くから見えにくいと教えられた。あの頃はどうして人間に見つかってはいけないのかわからなかったけれど、今はよくわかる。信じられる人間の数は少ない。
ちょうどよさそうな大きな木を見つけたから、獣除けを焚いた。夕方に焚いたら夜いっぱいは大丈夫なはずだから、急いで食べられるものも探した。
「……お腹すいちゃうね。ちょっとまって」
アーシジルにも私の緊張は伝わっているようで、お腹が空いているのに何も言わない。獣も怖いけれど、人間のほうがもっと恐ろしい。
何とか山の芋と小さな獣を見つけて、まともな食事にできてほっとする。二人で大事に食べれば三日はもつだろう。
「こわい人のいないところに、行きたいな……」
きゅっと私の服をアーシジルが掴んだ。服も顔もぜんぜん綺麗にしていられないけれど、紫色の瞳は変わらず綺麗だ。その瞳が私だけを映している。
「そりす……アーも」
「いっしょに行こうね」
「うん」
私の手足は傷だらけだけど、アーシジルには傷がほとんどない。それを誇らしい気持ちで確認して、その日は彼を抱きしめて木の上で眠った。