1 何もわからないままに
残酷な表現があります
六歳の夏、弟が生まれた。彼の誕生は、私の家にとって明るい光が差したようだった。
弟の存在が光といっても暗い家だったわけじゃない。私は両親に大事にされていたし、村の端の貧しい家でも仲の良い一家だったと思う。
弟が光というのは、母さんは私の下に妹を産んだけれど、小さく産まれて育たなかった。自分の身体が弱かったからだと悲しむ母さんに、弟妹が欲しいと私は言えなくなった。
弟妹が欲しいのは友達が欲しかったからだ。
村の他の子供達は、私の髪が赤いのがおかしいって馬鹿にするから嫌いだった。裏切り者の髪の色だと、囃し立てて馬鹿にした。
父も母も私の髪が綺麗だって言ってくれる。家族なら私を否定しないはずだから、味方が一人でも多くなって欲しかった。
家の周りで一人で遊んでいても村の子供が馬鹿にしてくるから、無理を言って父の狩りに連れて行ってもらった。最初のうちは山道がとてもきつかったけれど、弱音を吐けば連れて行かないと言われたから我慢した。そのうちに、簡単な仕掛けを教えて貰えるようになって、山鳥ぐらいなら捌けるようになった。
「ソリス、山で狩りをするなら絶対に必要なものがある。ナイフ、ロープ、そして危険を感じる心だ」
「危険を感じる心?」
「ああ、慣れている場所でもどんな危険があるかわからない。いまここでも、山を越えてきた見たことのない獣が襲いかかってからかもしれない」
「やだーっ」
思わず父に抱きついて目を閉じた私を、父は抱き上げた。視線が合うように持ち上げられる。
「だめだソリス。目を逸らしたら死ぬ。絶対に目を背けずに、そいつを倒せるか測るんだ。だめそうなら、生き残るためにどうしたらいいか考えろ」
「どうしたらいいの」
「父さんが一緒にいるときは、父さんがソリスを守るよ。ソリスがもっと大きくなって、一人で山に入るようになったら、父さんが言ったことをよく思い出して」
「うん」
言葉の意味を半分もわからないまま頷くと、父がにっこりと笑って、そのまま肩車をしてくれた。
その日は獲物があったから、帰るまで山の花の名前や食べられる実のなる木の在り処を教えてくれた。
弟を産んだ母さんはすっかり弱って、伏せっていることも増えたから父と一緒に食事を作ったりもした。それでも弟は丸々と育ち、はいはいで家を脱走して、歯も二本しかないのに庭の野菜を食べているなんてこともあった。あれを発見したときは驚いたけれど、みんなが笑顔だった。
もうすぐ弟が一歳になる春の終わり、真夜中に異変が起きた。
「ソリス! 起きて、すぐにこれを着て。裏口から山に行くのよ」
暗がりでも分かるほど血相を変えた母が、私を裏口に連れて行った。何かが入った袋を持たされる。
「あなたの秘密の洞窟で待っていて。あとから行くから」
「母さん」
「愛しているわ、ソリス。行って」
母は、私をぎゅっと抱きしめてから背中を押した。
何も聞くことはできなかった。外に出ると、森の反対側である村の方向から人の声のようなものが聞こえる。遠い家が赤く、火が出ている。裏口の反対側、家の入り口のほうから父の怒号が聞こえて、母が「行きなさい」と潜めた声でもう一度言った。私は駆けだした。
夜の闇に包まれた山は、普通ならまともに歩くことも難しいだろう。でも私は昔から暗闇でも道を歩くことができた。どうしてかは分からない。父はお前のギフトかもしれないと言っていた。
遠い昔、ギフトと呼ばれる才能を持った人々がいたそうだ。その人々は魔法を操り、人々の生活を便利で豊かなものにしたという。いまは魔法を操る人間はほとんどいない。魔法使いと呼ばれる人もいるらしいけれど、せいぜい発明屋か便利屋という感じらしい。発明屋も便利屋もわからないから一度見てみたいと父にねだって困らせたものだ。
ああ、今はそんな場合じゃない。たとえ私にギフトがあるとしても、闇が平気というだけで他には何の役にも立たない。
必死で走って、山の洞窟にたどり着いた。
洞窟は入口は小さく、茂みに覆われて見えにくい。中に入るとだんだん広くなって大人が立てるぐらいの高さもあるし、湧水もある。真っ暗だけど、獣がいるような気配もなくて不思議な洞窟だったけれど、七歳の私にはそれが普通でないとは分からなかった。
いつもはあたたかな闇が突然押し寄せてくる気がして、まんじりともせずに一夜を過ごした。
両親はこの洞窟を見つけられないから、気配を感じたらすぐに出ていこう。だけど、獣の気配さえ……なかった。
洞窟の外に朝陽が差している。我慢できなくて、そっと入口の茂みから顔を出した。いつもと変わらない山の風景に、喉の渇きと空腹を思い出した。母が持たせてくれた袋にはパンとチーズと小さなカップとナイフが入っていた。パンは大きくて、いつも家族で切り分けて食べるやつだった。
「お父さんと、お母さんの分も取っておかなきゃ」
いつも自分が食べる分ぐらいをちぎり取って、もそもそと食べた。空腹なのに味気がなくて悲しかった。それでも湧水を飲むと気力がわいてきて、家を見に行こうと思った。
袋は洞窟に置いていこう。村に何が起きたのかわからないから、なるべく身軽な格好ですぐに逃げられるようにしておけば大丈夫。山に入ってしまえば私よりすばしっこいひとはいないんだから。
山を下りていくと、村の方向から煙の臭いが漂ってきた。家が焼けるところなんて初めて見たから、どうしてそうなってしまったのか想像もつかなかった。
うちは村の端だからだれか……村を焼いたものがいても気付かれにくいはずだ。そっと家の側面に出ていったけれど、遠目でみてあるように見えた家はすっかり焼けていた。炭になった柱、壁、すこし突いたら崩れ落ちそうだ。
「お、とうさん……、おかあ、さん……、ユーリス……どこ……」
大きな声を出すのは怖かった。なにかとんでもないことが起きそうで、怖くて、怖くてささやくように呼んだ。
家の正面側に人型の炭が、あった。その手のあたりに鉈がやっぱり真っ黒になっていて、それは父の鉈だった。柄の部分も焼けてしまって、私には持つことができなかった。
「お母さん、ユーリスは」
父は家を母と弟を逃がす時間を稼いでいたのかもしれない。それなら、母と弟はどこかに逃げているかもしれない。山は真っ暗だったから、慣れていない母は迷っているのかも。
手がかりを得ようと家の裏に回った時、母を見つけた。井戸を覗き込むように持たれている、その背は大きく切り裂かれて真っ赤だった。もともと色白の母の手がさらに白い。
「っ……お、おかあさ……っ」
救いは母の顔が眠るような表情だったことだろう。苦しみは少なかったと信じたい。
そして私は弟を探した。まだ歩けなかった弟、ハイハイで山のほうに逃げていないか。茂みで眠っていないだろうか。でも……ふと母の手が釣瓶の縄の端を握っているのに気付いた。
恐る恐る井戸を覗き込んで、沈んだ釣瓶とうつ伏せに浮かんだ小さな体を、見つけた。