傘が嫌い
【傘】
傘とは、雨・雪・日光などが体に当たらないよう、頭上に広げ差しかざすもの。
(三省堂『大辞林(第二版)』)
※7月5日 追記
行きつけのバーに入ると、その店にしては珍しく客入りが少なかった。いつもなら賑わう時間帯だというのに、店内は不気味なほど静まり返っている。
僕の他には、常連ではない男の客と、こちらもまた見かけない女の客が、間を三つ空けてカウンター席についているだけだった。
「いらっしゃいませ。今日は見ての通りでね、お好きな席にどうぞ」
マスターが微笑を浮かべて会釈する。僕は促されるまま、男と女の間に腰掛けた。これでカウンター席には、奥から女、僕、男の順にひとつ飛ばしで座っていることになる。
「外は、かなり降っていますか?」
マスターはおしぼりとコースターを差し出して、僕に尋ねた。
「雨脚が強くなってきていますよ。折り畳み傘ではしのげないくらいに」
いつも通りにジンバックを頼み、僕は肩の雨露を払った。もう少し店に入るのが遅ければ、すっかりずぶ濡れになっていただろう。
「夜通し降り続くみたいですね、今夜は」
どこか遠い目でマスターが呟く。
「雨に、何か思い出でも?」
不意に僕は口に出していた。どうしてそんなことを聞いたのかは、自分でも分からない。
「傘がね、嫌いなんですよ」
ジンバックが差し出される。マスターにも一杯すすめ、乾杯をかわす。そうしてカウンターには三つのグラスが並んだ。
「傘が嫌いなんて、変わっていますね。好きとか嫌いで話すような道具ですか?」
「まぁ、私もそう思っていたんですがね。そこはそれ、理由がありまして」
どことなく歯切れが悪いマスター。気付けば僕は、傘が嫌いと言ったその理由に興味を抱いていた。
「良かったら話してくれませんか? 傘が嫌いなその理由を」
「面白い話ではないですから」
「そこまで気を引いておいて、話されない方が面白くないですよ」
食い下がる僕に観念したのか、マスターはひとつひとつ思い出すように、ゆっくりと語り始めた。
◆
私が会社勤めをしていた時のことである。営業として担当する得意先に、坂見一郎という男がいた。私より十歳近く歳上だったが妙に馬があい、担当を持って一年が過ぎる頃にはまるで親友のような気安い関係になっていた。
後にも先にも、顧客とあれほど仲良くなったことはない。もちろんビジネスの話はシビアだったが、それが終わればプライベートでもよく飲みに行ったものである。
ある時、遠方の協力会社で作業の立ち会いがあった。昼過ぎに現地へ着いておけば良いので、他愛ない話でもしながらのんびり行こう――坂見の提案で私たちは駅で待ち合わせ、現地まで一緒に行くことにしていた。
その日は朝から雨が降っていたことを、よく憶えている。余裕をもって家を出たものの、電車の遅延があり、私は十分ほど待ち合わせに遅刻してしまった。
駅構内の待ち合わせ場所には、すでに坂見の姿があった。背中にリュック型のビジネスバッグを背負い、ハードカバーの単行本を開いている。ブックカバーで表紙は見えないが、おそらく小説だろう。坂見の好きな作家が、ちょうど新刊を出していたからだ。
「すみません、遅れてしまって」
私が声を掛けると、坂見は顔を上げて笑顔を見せた。
「いえいえ、大丈夫ですよ。待ってる間に区切りのいいところまで読めましたから」
坂見は本を閉じると、バッグを体の前に回して仕舞い込んだ。立ち会いの後、別件を控える彼は現地で一泊する。一泊程度の出張になら十分使える、大きなバッグだった。
「まだ新幹線の時間まで余裕がありますし、今のうちに駅弁でも物色しましょう」
坂見は弁当屋を指差すと、バッグを背負いなおして歩き出した。私はぐっしょりと雨を吸った傘を鞄に引っ掛け、ハンカチで汗を拭いながら後に続く。ふと、坂見が傘を持っていないことに気付いた。
「坂見さん、傘はどうされたんですか?」
「……嫌いなんですよ。傘が」
坂見にしては、妙に無愛想な返事だった。それ以上の質問は許さないと言わんばかりの、無言の圧力にも感じる。突然のことに僅かな戸惑いはあったものの、私の興味はすぐに色とりどりの駅弁に移った。
新幹線に乗って、少し時間が経った頃である。駅弁に舌鼓を打ったところで、私は改めて坂見に訊ねた。
「ところで坂見さん、聞いてもいいですか?」
「傘のことでしょうか?」
先ほどとは違い、はにかんだような様子であった。これなら、聞いても問題はなさそうだ。
「ええ。傘が嫌い、とはどんな意味なんでしょう?」
「うーん、そのままの意味なんですがね。嫌いというか、苦手というか……持ちたくないんですよ」
なので、傘はそもそも持っていないのだという。
「それでも、今日みたいに雨が降っていたら困るでしょう?」
「大丈夫、これがあります」
そう言って坂見が見せたのは、黒い雨合羽だった。立派な雨具だが、いちいち脱ぎ着するのも手間ではないだろうか。
それにしても、聞けば聞くほど坂見の傘嫌いは徹底していた。自宅にも傘がないというのだ。
「家内にも他に傘は買うなとね。ひんしゅくを買っていますよ」
「そこまで傘を嫌うなんて、やはり何か理由があるのでは?」
新幹線の車内放送が、次の到着駅をアナウンスしている。乗車時間はまだ一時間以上あった。
「取り立てて面白い話でもないんですがね」
坂見はハンカチを取り出し、額の汗を拭う。心なしかその手は震えているようだった。
私の目は期待半分、不安半分だったと思う。坂見の話に興味がありながらも、どこか警鐘が鳴り響いてもいるようだった。
「……見えるんですよ」
坂見は窓の外――雨を眺めながら、傘嫌いになった理由をぽつぽつと語り始めた。
◇
あれはもう十五年近く前でしょうか。前職の頃の話です。当時勤めていた会社はとにかく業務が多くて、連日夜遅くまで会社に残っていました。繁忙期には会社に泊まり込むことも、珍しくはありませんでしたね。
そんなある夜、予報外れの大雨が降ったんです。仕事も大詰めで三日近く家に帰っていなかったし、その仕事の方もようやく山場を越えて、私はどうしても家に帰りたかった。
しかし雨は止みそうにないし、予報外れの雨ということもあって私は傘を持っていませんでした。駅まで走って、ずぶ濡れで電車に乗るわけにもいきません。
今時の会社はオフィスも綺麗で、そんなものはないかもしれませんが、私のいた会社は社歴の長いおんぼろ事務所でしてね。傘置き場には結構な数の置き傘があったんです。
つまり、そのうちの一本を借りて帰ることにしたわけです。私は置き傘の中でもとりわけ古く、埃の被った黒い傘を選びました。持ち主はとうに退職していそうなボロ傘です。よしんば誰かの傘だったとしても、その時事務所に残っていたのは私一人。明日返せば問題ないと思いました。
事務所の戸締まりをして会社を出ると、室内で想像していたよりもっと激しい雨が降っていました。まさしく天をひっくり返したような土砂降りです。
私は傘を目深にさすと、身を小さくして駅までの道を歩き始めました。街灯の少ない一本道で、夜になるとまるで洞窟の中に入っていくような気持ちになります。持ち出した傘は古いわりに穴もなく、傘としての役割は十二分に果たしてくれていました。
五分ほど歩いた頃でしょうか。前方からコツコツと、足音が聞こえて来ました。傘を少し持ち上げると、闇夜の中に白いほっそりした脚と、真っ赤なヒールが見えます。しばし私はその脚線美に見とれていましたが、すぐにおかしいことに気付きました。
晴れた日や小雨ならともかく、こんな土砂降りの中で足音が聞こえるのです。現に耳に入ってくるのは、ばたばたと傘を叩く雨の音。その中から浮き出すように、コツコツと足音。
私はもう少しだけ傘を持ち上げてみようと思いました。女であろうその足音の、後ろ姿を確認するためです。そうしなければ、駅までの道中をずっと不気味な思いで歩かなければならなくなる。
そうして私は下っ腹に力を込めて、ええいままよと傘を持ち上げました。
……いないんですよ。ええ、女なんて私の前にはいなかったんです。
そこは曲がり角もない一本道で、当然身を隠せるような場所もない。そもそも住宅や脇道が現れるのは、もう少し歩いた先です。最後に事務所を出た私の前に、誰かが歩いていること自体がそもそも異様だったのです。
はじめは理解が追い付きませんでした。私はすっかり気味が悪くなってしまって、とにかく早く駅まで行こうと、再び傘を目深に歩き始めました。
……また、足音がしました。傘を少し持ち上げると、同じくほっそりした脚と真っ赤なヒールが見えます。
私が歩調を速めても、遅くしても、目深にさした傘の間にその脚は見えました。ずっと同じ間隔で、私の少し前方を歩いているのです。
よく、後ろから何かがつけてくる怪談話があるでしょう? それとは逆に、私は怪異の後をつけさせられたのです。
私は怖くなりました。ひょっとして、今歩いて向かっているのは駅ではないのかもしれない。どこか別の場所に連れていかれているのかもしれない。
いてもたってもいられなくなり、私は脚が見えないくらいに傘を深くさして、ほとんど俯いて駅までの道を走りだしました。その間もコツコツとヒールの足音は響き続けます。
息も絶え絶えになりながら、ようやく周りに明かりが見えはじめました。
ああ、助かった。そうして私は傘をゆっくりと上げ、駅の姿を確認しようとして――
――女と目が合いました。
女は傘の下から覗き込むように、じっと私の目を見つめていました。
白い肌の女です。身を屈めて逆さまになった黒い髪は、水溜まりに半分ほど浸かっていました。
女は真っ赤な唇を一文字に結び、どこか無機質な黒い目で、何をするでもなく私を見ています。何かを訴えているようにも、責められているようにも思える表情でした。
私は思わず悲鳴を上げて、傘を取り落としました。するとそこには女の姿なんてものはなく、いつもの見慣れた駅の光景が広がっているだけだったのです。
◇
語り終えた坂見は、少しの間を置いてふっと吹き出した。
「どうでしょう、即興の割には良くできていませんか?」
「……何だ、作り話ですかぁ」
私も溜まっていた息を吐き出すと、乾いた笑い声を上げた。
「人が悪いですよ。坂見さんのその調子で話されたら、本当にあった話みたいに聞こえるじゃないですか」
「いやぁ、申し訳ない。ま、傘が嫌いなのは事実ですがね。理由なんて些細なものですよ」
坂見はひとしきり笑うと、傘が嫌いな理由を話してくれた。
「傘をさすと片手が塞がるでしょう? そうすると、歩きながら本を読みにくくなる」
要は両手を空けておきたいんですよ、と、坂見は恥ずかしそうに頭をかいた。
そうして立ち会い先での仕事も順調に終わり、駅までのタクシーを待っていた時である。
私はあの時の坂見の表情を、今でも忘れることが出来ない。
「坂見さん、今夜は雨が酷くなるみたいですから」
立ち会い先の社長が、気を利かせて坂見に傘を差し出したのである。彼は坂見が傘を持っていないことに気付いたのだった。
「いえ、それは……」
「今朝の予報だと、こっちは明日まで晴れでしたからね。ささ、遠慮なさらず!」
坂見は先方の好意を無下には出来なかったのだろう。その傘を受け取ってしまったのだった。
黒い、大きな傘を。
◆
何とも言えない、じっとりした空気が店内に満ちていた。外の大雨のせいだけではあるまい。
「それで……その坂見さんはどうなったんです?」
僕は恐る恐る、マスターに聞いてみた。きっと結末が分かれば、このじめじめした気持ちも晴れると思ったのだ。
「分からないんですよ、本当のところは」
「分からない?」
「ええ。私は他の仕事が立て込んで、出張からしばらく坂見さんとは会わなかったんですがね」
マスターはおもむろにグラスについた水滴を拭きながら、ささやくように言った。
「二週間ばかりが過ぎて連絡を取ろうとしたら、会社を辞めていたんです。坂見さんは」
「辞めた? そんなに仲が良かったのに、何の連絡もなしに?」
「はい。当然私だって、納得出来なかった」
綺麗に拭き終えたグラスをコースターに戻すと、マスターはふっと溜息をついた。
「私はなんとか食い下がって、坂見さんがどうなったのかを教えて貰いました」
マスターは首を横に振り、無念そうに両目を閉じる。
「死んだらしいんです」
「死んだ?」
「自殺だったそうです。せめて手を合わせたいと家の住所も教えて貰いましたが、私が足を運んだ時にはもぬけの殻で」
そこまで聞いたところで、僕は疑問を口にした。
「いくらなんでも、死んですぐに自宅がもぬけの殻はないでしょう? 奥さんもいるのに、不自然だ」
「坂見さんは独身だったんです」
僕は喉の渇きを癒そうとジンバックに手を伸ばしたところで、固まってしまった。
「え、だって“家内にも”って……」
「ところが彼は独身だった。そして死ぬ数日前に部屋を引き払って、遺書を置いて逝ってしまったのです」
背筋に冷たいものが走った。坂見の自殺と傘の件に因果関係があるのかは、マスターの話からは分からない。だが結果として、黒い傘を持ったことで怪異に遭った坂見は、それからずっと避けていた傘を手渡された直後に自ら命を絶った。
そもそも坂見の言った家内とは何だったのだろう。坂見は本当に、怪異が怖くて傘を持たなかったのか。それとも、傘を持ってはいけない理由があったのではないだろうか。
「そういえば、坂見さんは前の会社から持ち出したという傘を、その後どうしたんですか?」
「そこまでは聞いていませんが……」
「どうして坂見さんは“家内にも他に傘は買うな”なんて、奇妙な言い回しをしたのでしょう」
つまり一本は傘を持っていたのではないだろうか。そう、坂見はあの傘を持ち帰ったのだ。
「そもそも坂見さんが傘を嫌いな理由とした“見える”って、何だったんですか?」
マスターは押し黙って、僕に続きを促した。
「坂見さんにはずっと、女が見えていた。それを家内と呼んでいた。“他に傘は買うな”と言われたのは、坂見さん自身だったんですよ」
店内にはジャズだけが流れている。僕もマスターも、すっかり黙り込んでしまった。その静寂を破ったのは、はじめにカウンターにいた男の客だった。
「チェックで」
会計を早々に済ませ、男は店を出て行こうとする。僕はもう気付いていた。僕が店に入った時、カウンターにグラスは一つしか無かったのだ。細かいところまで気の利くマスターにしては、それはあまりに不自然だった。
店の扉が開くと、大雨の降りしきる音が聞こえてきた。
「忘れものですよ」
男を追いかけるように、立ち上がったのは奥に座っていた女だった。店内にコツコツという足音が響く。
「いや、忘れ物なんか」
上擦った声を出した男に、女は底冷えのするような声でぼそりと言った。
「この傘、さっきのお店からとってきたものでしょう?」
黒い傘を差し出した女は、真っ赤なヒールを履いていた。
ー追記ー
後日になるが、ひょんなことからマスターとこの話について再び語る機会があった。
「話すか話すまいか、迷ったのですが」
そう前置きするマスターの表情は暗い。
「あの話、ですか」
マスターはわずかばかり目を見開いた。
「どうして分かったんですか?」
「どうして、ですか。マスターも分かるでしょう?」
その日は雲ひとつない星空で、給料日の夜ということもあって街は賑わっていた。だというのに、店には僕以外の客はいなかった。
そして店の入り口にある傘立てには、一本の傘が立て掛けられている。黒い、大きな傘だ。
「坂見さんの遺書についてです」
腹をくくった様子のマスターが、重々しい口を開いた。
「遺書には自分が命を絶つことの他には、たった一言しか書かれていなかったそうです」
僕はその一言を聞いて、思わず言葉を失った。
『傘が嫌い』
それ以来、雨の日は傘をさせないでいる。
完
7月5日、どうにも雲行きが怪しい。