最後の一枚はあなたの手で。
※軽い表現のカニバリズム有ります。苦手な方はご注意下さい。
花は好き。
特に赤い花。
真っ白な雪の上に花びらを散らして遊ぶのが最も好き。
「も、も……う、ゆるじで……」
「ダメ」
一枚一枚綺麗にむしって落とし、ひらひら舞う姿を見るのが好き。
花が大輪であればあるほどその遊びはとても楽しい。
「や……めで……」
「ダぁメ」
「お、ねが……」
「……もう、うるさいなぁ」
あれだけ綺麗だった花も、花弁を全て取り去ればただの物。二度と心を踊らせることのない残骸になる。
「飽きた。壊していいよ、ヴェド」
忠実な私の影が花を残骸にする。うるさくやかましい雑音を奏でるだけの、見た目だけが取り柄の麗しい花は、最後の悲鳴を上げる間もなくヴェドに頭を潰された。
「綺麗じゃないね、お姉さま」
私は、遊んでいた赤い薔薇の最後の一枚をむしり取り、頭を失くした姉に手向ける―――残骸の方を。
「お姉さまはその方がずっとお似合いよ」
自慢の顔を失くし、自慢のドレスもむしり取られ、誰よりも美しく誰よりも綺麗に咲き誇っていた女の末路に相応しい。
自分の血で真っ赤に彩られた姉を見下ろしながら、天鵞絨のような手触りの花弁を口に含み、噛み締めた。そしてすぐに顔を顰め、唇を噛む。
薔薇は嫌い。香りが嫌い。自己主張が激しいから。密やかに咲いていられない花は大嫌い。
「ソフィラ」
私の傍らに添うヴェドが私を呼ぶ。青と黄の二つの瞳が、姉に対し酷薄に振る舞った私を心配そうに見ている。
「……だいじょうぶ」
私は大丈夫だから。
そう言ってヴェドに微笑んで、私の代わりに大役を務めてくれた影の頭を撫でた。
「ありがとう、ヴェド。ありがとう、ありがとう……」
灰色の髪を撫でながら、何度も何度もお礼を口にする。
彼に言うべきは感謝の言葉だけ。謝罪の言葉は不要だから。
黙って頭を差し出していた彼の、地面に膝をついて屈んでいた身体が少し伸びる。そうっと私の顔に近付いて、鼻と鼻を擦り合わせて、私がくすぐったくて声を出したら、ぺろ、と唇を舐められた。
「……俺もこの匂いは好きじゃないな」
鼻の頭に皺を寄せて彼が言う。
「味もひどいよ」
私がそう言えば。
「どれ」
ヴェドと私の唇が重なった。
*
姉を庭に埋めた後、ヴェドに連れられて屋敷を出た。
世界でたった二人きりの姉妹が、今は一人だけ。灰色の影を従えるルクルティスの名を持つのは私ただ一人。
今日この日、世界から一つの名と灰色の影が消える。
それはなんて素晴らしいことなんだろう、と。ヴェドに手を引かれながら私は笑った。
「嬉しいか」
ヴェドがそう訊ねてくる。
「ええ、とっても」
にこにこ笑いながらそう返せば、私の手を握る彼に力が篭った。
「……そうか」
一度立ち止まり、私を軽々と抱えたヴェドが再び歩き出す。
前を向く、灰色の長い髪に見え隠れしている青と黄の瞳が優しく細められているのを見て、彼も私と同じ気持ちでいるのだと分かった。
彼の首に抱き付き、くしゃくしゃと後ろ髪を撫でればぽんぽんと背中を宥められる。
今日、最後のルクルティスの花をあなたに捧げる。
「随分待ってもらったね」
「待つのも悪くは無かった」
「ヴェドは優しすぎるよ。だからいっぱいこき使われちゃったんだから」
「ならこれからは、俺がソフィラをこき使ってやろうか」
「ご命令を何なりと、ご主人様」
くすくすと二人で笑い合う。
密やかな声で、束の間の妄想に耽って。
いつかこうなったら良いのにと思っていたことが、ようやく今日、叶う。
ルクルティスの花に惑わされて以来、ずっと囚われてきたヴェド。
ルクルティスの花として生まれ、灰色の影を使役する立場の私。
私も彼も、ずっと自由になりたかった。
何者にも囚われない、何者でもない自分に、私たちはなりたかった。
ぎゅうと彼の首に抱き着き「急ごう」と私が頼めば彼は颯爽と走り出す。風を切る様に速く。
後ろに流れるヴェドの長い灰色の髪と、私の薄紅色の髪が混じり合っているように見えた。
もうすぐそこに迫っている私たちの未来を垣間見た気がして、私はとても満足だった。
「……ここだ」
息一つ乱さないヴェドがそう言って私を地面に下ろす。
一面の名もなき花々が咲き誇る花畑に、ぽつんと大きな岩が佇んでいる場所。
「ここで俺は、ある花を見つけた」
私の前に歩み出たヴェドが一飛びで岩の上に乗り、月明かりを浴びてその姿を変える。
肉体が根本から姿を変える生々しい音を響かせながら、彼は見る間に大きな獣の姿になっていた。
灰色の被毛が全身を覆う六尾の獣。青と黄の瞳が岩の上から私を見下ろし、その大きな口を開いた。
「問おう。お前は何と言う花なのか」
かつて問われたことのある問いだった。それはつまり、歴代のルクルティスの花たちが彼に問われ続けてきた問いだということ。
当主の座に就く際に必ず問われ、「私はルクルティスの花です」と答えなければならないとされてきた。
この花畑で花冠を作って遊んでいた初代ルクルティスの花、フェルレシアが答えたものをそのまま踏襲して灰色の影を従えてきたその答えを、私が何と返ずるかを彼は試している。
この問いの答えは、既に決めてある。
六本の尾をゆらゆらと揺らめかせて私を見ている灰色の獣を、私は顔を上げてしっかりと見つめた。
「私は花ではありません。花守の王よ」
ざわりと尾がさざめいて、色の違う両の目が眇められる。
まるで私を知らない者が初めて私を見るような、そんな他人行儀な眼差し。今ここに居る灰色の獣は、これまでずっとルクルティスの花が従えてきた灰色の影などではなく、花に心奪われる前の、自由を奪われる前の花守の王なのだ。
「ではお前は何だ」
「私は人間です」
「人間風情が俺の領域で何をしていた」
「……花冠を、作っていました」
獣が咆哮を上げながら飛び掛かって来る。ずらりと並ぶ牙を剥き出し、鋭い爪を露わにさせた前脚で私を花畑へ沈めた。
皺を寄せた大きな鼻面を私の顔に寄せて、獣特有の生臭い息を吐き付けられる。
こんな乱暴な行為を、これまで灰色の影として従えてきたヴェドにされたことがない私は、頭では理解していたつもりでも心が追いついていないことに歯噛みした。
……心。
ルクルティス家の歴史を終わらせると決め、ルクルティスの名を使い放蕩三昧だった姉を殺した時に私の心も一緒に殺したはずなのに。これから起こることは何も怖くなんてないとこれまでに何度も何度も言い聞かせてきたのに、涙が出そうになる。声が震えてしまいそうになる。
荒くなってしまいそうな呼吸を何とか平常に保とうと細く息を吐き出せば、目の前の獣は大きく舌なめずりをした。
「俺の花を無断で摘んだのか」
「そうです」
「くくっ……そうか」
「っ」
薄く幅広な湿った舌が私の頬を舐めた。それは二度三度と繰り返され、あっという間に私の顔は獣の唾液まみれになる。
「愚かな人間め。己の浅はかさをその身で味わうがいい」
右腕、が。
ごきり、と、音を、立てて。
「俺の花を摘んだという。それがどういうことか、分かっただろう」
くちゃ、くちゃ、と、獣の口から、赤い紅い朱い雫が。だらりと、垂れた、あれは。
「花冠を作っていたというなら、一本や二本ではないな。どれ、お前もその数だけ、引き裂いてやる」
獣が嗤う。嗤いながら私を食べる。
ごきり、ぶちり、むしゃ、ぱきっ、ぐちゅ、ぐちゅ…………
右腕の次に食べられたのは左足。左足の次は右足。右足の次は左腕。まるでお菓子を噛むような気軽さで、獣は私の身体を食んでいった。
最期に見えたのは、聞こえたのは、私の頭に喰らい付こうとするその大きな口と、私の名を呼ぶ、ヴェドの声。
「ソフィラ……」
震えて泣きそうになっている彼を慰めてやりたくても、もう彼の髪を撫でることは出来ない。そんな権利、私には無い。
せめて最後の一枚をヴェドの手でむしって欲しくて、私は精いっぱいの笑顔で彼に微笑み掛けた。
――――……‥
朝日が昇る。
世界は花に覆われていた。
優しい花の香りが私を包み、癒しを、慰めを、くれようとしていた。
「……なぜ」
震える声は、私の首がまだ胴体と離されていない証し。夢でも見ていたかのような穏やかな目覚めは、しかし私の四肢が無くなっていることであの現実の続きなのだと知る。
「ソフィラ」
一晩で随分懐かしいと思うようになった声が、顔が、上から私を覗きこみ、その青と黄の瞳を柔らかく細めて私の上に覆い被さった。
「ソフィラ」
二本の腕が、獣の姿でないヴェドが、私の身体を抱き込む。脱力をしている私は彼の成すがまま、人形のようにこの身を彼の腕に委ねた。
「どうして……自由を……まだ、おわってないよ……」
私はまだ生きている。これでは自由を求めたヴェドに、安息を与えられていない。
すりすりと頬寄せる彼を押しやろうとしても、私には腕が無かった。足も無い。傷口が痛むこともなく、まるで最初から無かったかのような違和感を覚えながら力の入らない身体を捩ろうとすれば、更に強く、抱き込まれてしまった。
「終わってないんじゃない。終わらせなかっただけだ、俺が」
「なぜ……」
「最後の花だ。自然に枯れるその時まで、俺が慈しんでやろうと思って。―――邪魔な枝を落としたのは、風に吹かれてあちこちに種を散らさないようにするためだ」
「私は、花じゃ……」
「お前は俺の花だ、ソフィラ」
ヴェドが私に口付ける。
血を喪い、乾いた私の唇を潤すように、何度も何度も啄み舐める。
「ソフィラ……いや、この名はもういらない。お前は俺の為だけに咲き誇る花だ。お前はただ咲いているだけで良い。俺が全部、世話をしてやる」
―――水を遣り、形を整え、大輪の花を咲かせるように。
「今日この日、お前はルクルティスの花じゃなく、花守の王が愛でる名もなき花の一つとなった。ルクルティスの名も、灰色の影ももうどこにも無い。俺の欲した自由が、お前を俺の花とすることを望んだ。それこそが自由。死して解き放たれることを願うお前の願いを聞かないのもまた、俺の自由だ。俺はもう、お前の影では無いのだから」
ヴェドの言葉が、優しい花の香りと相俟って私の身体に沁み込んでくるようだった。
彼の言っていることこそが正しい。彼こそが全て。そんな思いに囚われて、いつしか囚われていくことすら知覚できなくなる。
「いついつまでも、俺が愛でてやる。……皆と一緒に」
愛でられる、嬉しい。でも皆。皆って、誰。
「ようこそ、俺の花畑へ。皆、新たな仲間だ。仲良くするんだぞ」
ざわざわと、風も無いのに花々が揺れる。
微かな笑い声と共に、歓迎の言葉を掛けられた気がして、私は居心地のよい彼の腕の中で目を閉じた。優しい温もりの中、自分が名もなき花の一つに変わっていくのを、私はゆっくりと微睡みながら感じていた。