9、ある紳士の秘密
「おはようございますティファニー様」
ぼんやりと起きるティファニーに、エマが元気よく声をかける。
社交界デビューすると夜更かしぎみになってしまう貴族たちだ、ティファニーもまた寝不足である。
朝ぼんやりとしている日が増えてきている。
朝の社交、散歩か乗馬をして朝食をとったあとは、ジョルダンからの指定のレッスンをする。それはエマが責任をもってティファニーにさせている。
「さ、ティファニー様。どうぞ」
エマがティファニーに本を渡し、それを頭に乗せる。
連日これを廊下を落とさずにまっすぐに歩く練習をしている。
エマはなかなかスパルタで、落とすと回数が増えていくのでティファニーは真剣に取り組むようになっていた。
ジョルダンがわざわざ持ってきた本は、今度はエリュシア語で書かれたエリュシア国史でそれを読みこなすには努力がかなりいったのだ。
エリュシア国は、イングレス王国の第一王女であるサリアナが王妃となっていて国と国との結び付きが強い。
また音楽の都であり、著名な作曲家が多いのだ。イングレスもまたエリュシアの影響で音楽文化は盛んである。
ラファエルには乗馬を、ジョルダンからはそうして知識を学んでいるうちに、ティファニー自身、立ち振る舞いや大人たちとの会話が令嬢らしくこなせるようになってきたのに気づいた。
そうして、ティファニーが社交界に馴染みだした頃、アンブローズ侯爵家の舞踏会に、ティファニーはジョルダンに誘われて彼のエスコートで出掛ける事になっていた。
この日は、自分が誘ったからとジョルダンがドレス一式を贈ってくれていたのでそれを身に付ける。
「さすがジョルダン卿ですわ!素敵な令嬢の完成ですね」
エマが感心している。
春らしい淡い紫のドレスは、少し大人びたデザインでそれでいて細部は可愛らしく、髪飾りと耳飾り、首飾りはお揃いのデザインで、プラチナベースの繊細な細工物で光の加減でキラキラと控えめなダイヤモンドが輝く。
鏡を見ると、繊細で可憐な雰囲気の令嬢がそこにいる。見た目だけなら美少女と言っても差し支えない仕上がりだった。
夕刻になり、ジョルダンが黒のテールコートをビシッと着こなして迎えに来た。
「ジョルダン、ありがとうございます。とても素敵なドレスで気に入りました」
「そう?良かった」
にっこりと微笑む。
しかし、実際の所ドレスを贈ってくるなんてジョルダンは…どういうつもりなのかと、やはりティファニーは訝しく思う。
「あの…。どうして私にドレスを?」
「気になる?」
「…ジョルダンは私じゃなくて違う人を想ってる気がして…」
こうしてティファニーを前にしていてもジョルダンがドレスを贈るほど特別な好意を抱いているとは思えなかった。
「…違う人を、か…大人には色々な感情があるんだよ」
ふ、と笑むジョルダンには何かいつもと違う陰りが見えた、そんな気がしていた。
アンブローズ邸は古くからの佇まいを残したクラシカルな屋敷である。
客人を出迎えるために、ホールに立っているユージン・アンブローズ侯爵もその静かで穏やかな男性で夫人のシエラは、彼に寄り添う気品ある女性だった。
「こんばんはジョルダン」
ユージンが親しげにジョルダンに声をかけた。
「今日は可愛らしいレディのエスコート役なんだね」
「ミス ティファニー、バクスター子爵の姉君です」
ジョルダンが紹介しティファニーはお辞儀をする。
「ミス ティファニー、今日は楽しんで行ってくださいね」
にっこりと美しくシエラは笑みを見せた。
この日の舞踏会には、若い世代よりも少し大人が目立った。
曲も華やか、というよりはしっとりと和やかな雰囲気でジョルダンがティファニーに大人びたドレスを贈ったのも何となくわかった気がした。
幸い、大人の紳士たちにダンスを誘われても、ジョルダンの贈ってくれた本やエスコート中に教えてもらった事でどぎまぎしてしまう事もなく過ごせる
「ちゃんと勉強の成果が出てるね、きちんと本読んでるんだね。凄いよ」
ボソッとジョルダンがティファニーを誉めた。
「そう、ですか?」
「うん。それに、歩き方も綺麗になったよ」
「ありがとう、エマが厳しくて」
くすくすと笑った。
「自信はついてきた?」
「…まだ、わかりません…でも素敵な女性になりたいとは、思うようになりました」
「そう。それは良いことだよ、努力は君を裏切らない。必ず助けてくれる」
「はい、先生」
ティファニーはにっこりと笑ってそう言った。
舞踏会はつつがなく進行していく。出された軽食をとり、ティファニーはパウダールームに行って身なりを整える。
廊下に出ると、ジョルダンが待っていた。
「戻ろうか」
うなずいて、肘に手をかける。歩き出したところで
「ジョルダン卿、こちらをお預かりしております」
アンブローズ邸の従僕が、手紙を差し出した。
「ありがとう」
受け取ったジョルダンが、その差出人を見て顔色が変わったのがティファニーにはわかった。
「どうかしたの?」
「悪いけれど…一人で戻れるかな?」
「え…あ、はい」
するりとジョルダンが離れていく。
ジョルダンがこんな風にティファニーを一人置いて行くことなど、はじめてである。
その様子が気になってティファニーは大広間に戻るか、ジョルダンを追うかどうしようかと迷い、そして…ティファニーはジョルダンを追うことにした。
「ジョルダン…ここにいる?」
人気のない回廊の柱の影にジョルダンはいた。
「ティファニーか…なぜ追ってきた…」
その顔をみて、ティファニーははっとした。
青い瞳は濡れていたからだ。
「大広間に戻ってくれ…」
「でも…」
ジョルダンは顔を背けた
「情けない姿を見られたくないんだ、頼むから…離れてくれ」
「ごめんなさい…戻ります」
何があったのか…とても、気になった。けれど、ティファニーにはとても聞き出せない。
しばらくジョルダンは大広間のには戻っては来なかった。けれど、戻ってきた時にはいつもの紳士らしいジョルダンだった。
男性と談笑したり、ダンスを踊ったり…。
貴族らしく、優雅に。
帰りの馬車では、ジョルダンは上の空だったし、ティファニーも追ってしまった自分を恥じて申し訳なくなり黙っていた。
「…別れの手紙だったんだよ…」
突如ポツリと虚空を見ながら、ジョルダンは言った。
「あ…」
「以前に私は、誰でも選べる身だと君に言ったことがあったね」
確かにその記憶はある。
「はい…」
「そんな私が、許されない相手だ…。わかるだろう?」
それはつまり…人妻…ということか、とティファニーにも察しはついた。
「彼女はね…継母に育てられていた。そして、衰退していた家を助けるために16歳で12歳歳上の男性と婚約したんだ…。どこかで聞いた話だと思わないか?」
「…私?」
去年のティファニーと、状況が似ていると思った。
「そう…私はね、君の話を聞いた時にとても同情した…。けれど、ティファニーは嫌だとはっきりと意思を示したし、幸いな事に白紙になった」
「そ、うです」
「彼女にその強さがあったなら…。結婚しなかっただろうか?そして…私が兄の立場であったら…、彼女を助けられただろうか?」
ジョルダンは息を吐いた。
「どれも、現実的でないな…」
呟きが、馬車の音に掻き消されていく。ジョルダンは自嘲する顔だ。
「ごめん、ティファニー。君に彼女を重ねて見ていた…すまなかったね」
ああ、だからか…。
と妙にすとんと納得がいく。
「ティファニーは…幸せになってほしい…。心からそう願っているよ」
「ジョルダン…」
「君と、ラファエルには何の障害もない。頑張れば届くんだよ」
ジョルダンの言葉が胸に突き刺さる。
「はい…頑張ります…」
あの一時の感情の乱れを意思でを押さえ込んでいる…。
人と言うのは、平静を装っていてそのしたにどれ程の想いを抱えているのか…。未熟なティファニーには分からない…けれど、慮る事は出来るのだ。
「頑張れ」
「はい…」
「自信を持って、いいんだ」
「はい…」
知らず知らず、目が潤んでくる。
泣きたいのは…彼の方であるのに…。隣にいるのが自分で無かったら…
この人が…完璧な貴公子である彼が、こんな秘めなければならない恋をしていたなんて…ままならない事もあるものだ。
人の想いは…どうしようもなく…抗いがたい。
そして切なくて、時には謎めいて、狂おしく…身も心も支配する。
ジョルダンの静かな面の下には、嵐のような激情が荒れ狂っているのかもしれない。
夜の帳がせめて安らぎを与えますように…。
やがて馬車はバクスター邸に停車した。
「おやすみなさい、ジョルダン」
「おやすみ、ティファニー」
いつも通りの挨拶。
薄暗い景色に溶け込む、ジョルダンの笑顔。
笑わなくていいんです、泣いてもいいんですよ…。ティファニーはそっと心のなかで言ってみる。
伝えられるはずもない…。
詳しい事は何も知らない、聞いてもいけない…。
ジョルダンと彼女の事は、誰にも知られてはいけない、ジョルダンと彼女の名誉の為に…。
だから今日の事もティファニーは封印しなければならない。
ティファニーが追いかけたがばかりに、ジョルダンは告げたのだから。
「誰かに、知って欲しかったのかも知れないな…」
青い瞳は少し赤い。
「君が気に病む事は何もないんだ。最初からこんな日が来ることは分かっていたのだからね」
「《いつの日か、時が苦しみを癒して新しい想いが育まれん事を…願う》」
ティファニーは、最初にジョルダンから与えられた本であるフルーレイス語の詩から一節を詠じた。
ジョルダンの顔が少し歪む
「なかなか優秀だね、ティファニー…」
「さ、そろそろ本当に降りないとね」
くすっとジョルダンが笑って、ティファニーが降りるのをてつだう。
ティファニーが降りると、馬車は走り出す。
どうして、叶わない恋があるのだろう…。
昨年、嫌だと言わなければ、例えば髪を切らなければ…アークウェイン邸に行かなければ、家を出されなければ、メグがティファニーを気にしなかったら…
ティファニーは今頃好きでもないあの男と結婚していてどんな気持ちでいたのだろうか?
一緒にいれば、少しでも愛する事が出来ているだろうか?やはり毎日を辛い気持ちでいるのだろうか?
ラファエルへの叶わない想いを抱えて、暮らしていたのだろうか…。
自分は…様々な運命で…今こうしているのだ
大切にしなければ、応援してくれたジョルダンに頑張ったよと言えるように。
それからしばらくの間、ジョルダンから音沙汰はなかった。