10、過去とそして今
春を前にして、ローゼが復帰することが決まっていて、ティファニーは《クロイス》を辞める…その日がついにやってきた。
最後だから、ラファエルにはその事を知らせていた。
唯一ティファニーとアリアナの関係知っている、それがラファエルだったから、最後を見届けて欲しかったのだ。
「あのね、アリアナは次で辞めるの」
「遂に辞めるんだ…」
ラファエルはティファニーを真っ直ぐに見つめた。
「うん…」
そして、ティファニーのが暗に見に来て欲しいと思っていたのを、知ってかラファエルは、アリアナの最後を見に来てくれたのだ。
いつも通りピアノを奏で、サイモンの作った曲の世界を表現する。
ティファニーがアリアナとして過ごした時間はとても短い時間だったが、リーフグリーン・ハウスで苦しい生活を送るティファニーの生きる術であったし、サイモンの歌は自分でも気づかないような思いを気づかせてもくれた。
何よりアリアナの演奏を手放しで褒めてくれる、サイモンとエリカ、それにラファエル。
感謝の気持ちを込めて奏でた。
「お別れは言わないわ」
エリカはそう言った。
「これ、サイモンからよ」
「楽譜?」
「この店にはそぐわない曲なの」
みると、確かにしっとりした曲ではない
「サイモンはお別れとかダメなの。それを貴女が弾いてくれたら、喜ぶわ」
「ありがとうございました。ミスターサイモンにもよろしくお伝えして下さい」
「私は貴女が好きよ、アリアナ…ティファニー」
「私もお二人が大好きです…」
エリカはぎゅうっと抱きしめてくれた。
外に出ると、ラファエルが夜の暗がりの中でもくっきりとその美しい容姿を、際立たせてティファニーを待っていた。
「ついに、終わりか…少し残念だな」
「本当?」
「うん、アリアナの歌好きだよ」
「…歌が…ね」
手を繋いで、少し前を歩くラファエル。“好き”に過剰に反応してしまう…
でも、情けなくもそれを今は確かめる勇気は無い…。
(貴方は私を好きですか?)
その一文が本当に言葉にならない。
ラファエルは、夜会では令嬢たちと踊ったり談笑したり、伯爵令息らしく振舞っているけれど、お茶会でも、どこでも彼がそれ以外で会う令嬢はティファニーだけ…。こうして一緒にいてくれる事、その事信じて踏み出してみてもいいものか…。
「ティファニー、俺の事好きか?」
一瞬、自分が言ったのかと思わず固まってしまった。
「ラファエル…」
「2人でいる将来を、考えてみないか?」
ドクンと心臓が跳ね上がる。嬉しいはずなのに、言葉の裏を考えてしまう。
「それは…あの夜の事に、責任を感じているから?」
ラファエルの優しさ、それにどうしても気になっていた事がある。それは彼が紳士であるが所以にティファニーを捨て置けないのかも知れないという気がかりだった。
「それも、ある」
ズキンと突き刺さる、その肯定の言葉。
やはり、そうだったのか。と…ラファエルの行動は、ティファニーに対する憐れみのような物だったのか…
「私は…ずっと、ラファエルを苦しめたのじゃないかと、気にしていた」
〝 あの夜
雨に打たれてリースグリーン・ハウスに行った。
ラファエルに縋り付いたティファニー
『俺だって男だよ』
感情を抑えた平坦な声でラファエルが言う。
『知っている…』
それが、どういう事か分かってる。
『…俺は男だからいいけど、お前は』
『そんな事、分かってる』
婚前に異性と2人きりになる事なんてとんでもないという世界だ。この状況ですでに不名誉極まりない。
『知らない、おじさんに捧げるくらいなら…例え罪でもラファエルがいい』
ラファエルが目を伏せた。ティファニーの指は固まったようにラファエルの腕に縋り付く。
『お前みたいな半人前以下の、女なんか好きじゃ無い』
『それでいい…私だって半人前のラファエルなんて好きじゃないんだから』
強がって言ってしまう。
大嘘だ…今改めて自覚した。
ラファエルの事が好きだと
『途中で泣いたって止める自信、ないよ…』
『…いい、それで、いいの…』
指先が触れ合う。
震えているのはどちらの指なのか…
叩きつけるような激しい雨の音。
触れ合う滑らかな肌。
力強い腕と煌めく緑の瞳。
柔らかな唇、熱い吐息、甘い苦痛、掠れた声…
雨が2人の秘密を全て流して隠してくれる。
本当は、このまま攫って欲しかった。
一緒に逃げて欲しかった。
でも分かっている。
そうまでする気持ちがティファニーに対して無かったということ。
何よりラファエルは嫡男だから、唯一の跡継ぎだから家を守る責任がある、それを実行できる様に努力してきたのだ。
簡単に逃げることなど出来るわけもない。
あの場から、逃げたけれど、逃れられない…貴族の家に生まれたからには、ラファエルがそうであるようにティファニーにも責任が存在している。
雨はまだ降り続いている。
まだドレスは乾ききっていない…。でもそれでいい
『行くな…』
『行くよ…これ以上迷惑は掛けられない』
ありがとう、行くなって言ってくれてそれだけで嬉しい
『送る』
『駄目。誰かに見られるかも』
ティファニーだけじゃなくてラファエルにも傷がついてしまう 〟
「後から…取り返しがつかない事をしてしまった、そうは思ったよ。ガキ過ぎて、分かってなかった。キースみたいにちゃんとした意味で守る力がなかった…」
「ラファエルは悪くない、私が巻き込んだの…苦しめてごめんなさい」
本当に、そうなのだ。
お日様の下が似合うラファエルをティファニーの罪ともいうべき秘密に引きずり込んでしまったのだから
「でも、あの事を気にしなくていい。私は大丈夫、後悔なんてしていない」
「ティファニー、ちゃんとこっちの話も聞いて」
「ごめんなさい、責任を取らないとなんて思わないで。もう、いいから」
ティファニーはラファエルから一歩下がって
「好きじゃないのに、優しいから気を使ってくれてるなら、もういいから」
頑張るって言ったのに、やっぱり自分はちっぽけで、意地っ張りで真っ当じゃない令嬢だ…。
こんな自分を好きになってもらおうなんて、甘い考えなんて許されない。
何より、やっぱり釣りあわない…。
令嬢の中には、一夜を共に過ごして結婚を迫る手法を用いる人がいるという。このまま責任を取らせてしまったら、ティファニーと何が違う?
同じだと、そう思った。
「私は、あの頃からラファエルが好きだった、だから、責任なんかで言って欲しく無かった。甘い罠にかけたつもりなんかない」
「そうじゃない」
「今は、もう聞きたくない…」
ティファニーはラファエルから、逃げた。
逃げるなんて、まるで去年のティファニーのようで子供じみて最低だけれどそうしてしまった。
これまでのラファエルの行動が責任からきていたなんて、やっぱり自惚れていたのだ。責任なんかで一緒になったら、余計に辛くなりそうではないか…。
何の障害が無くても、恋はやはり甘いだけじゃなくて切なくて、胸が苦しい。