1、デビュタント
ティファニー・プリスフォードは、バクスター子爵ルロイ・プリスフォードの異母姉である。17歳となったこの新年に社交界デビューをする事が決まっていた。
本来なら16歳でデビューを迎えるのが一般的であるが、表向きの理由は父、バクスター子爵が亡くなった為一年間喪に服していたためだとされている…が、本来の理由は義母 クロエに家から追い出されて、生活することすらもままならなかった…からである。
『ねぇ、ティファニー。旦那様が亡くなって…ルロイも寄宿舎に行ってしまったし、私たち二人で暮らすのもお互いに良くないと思わない?貴女のお母様が残したタウンハウス…あそこに行ってはどうかしら?』
と、まあ言葉は丁寧だけれど要は一緒に暮らしたくないから出ていってだと感じたのだ。
当時15歳のティファニーは、
『そう、します…』
きっぱりと言い切って、家を出ることを決めた。
亡き母から受け継いだ、王都の郊外にある手入れの行き届いてない広いだけの邸、リースグリーン・ハウス、そこでティファニーは一人で暮らしていたのだ。
バクスター邸から着いてきてくれた数少ない使用人たちは、瞬く間に一人減り二人減り、していった。
それも当然である。世間知らずで、収入のないティファニーに、給金が払えるはずもなくまた、クロエに頭を下げて暮らしを助けてもらうことも当時のティファニーにとって矜持が赦さなかった。
そんな窮状を知っていて助けてくれていたのが、従姉のメグ・オルセンだった。メグが時おり、食べ物を持ってきたりしてくれなければ本当に死んでいたかもしれない、そんな生活ぶりだったのだ。
そして、メグの婚約者のランスロット・アンヴィルが、ティファニーの事を相談した。その相談相手のキース・アークウェインとその夫人のレオノーラが、リースグリーン・ハウスにティファニーを迎えに来て一緒に住もうと言ってくれたのだ。
施しを受けるようで、屈辱的だった…….だけど、それを受け入れたのは、それは本当に、一人で暮らしていくことに、行く先に途方にくれていたから。
街の女性たちがしている仕事、縫い物をしてみたけれど少しの稼ぎであったし、貴族令嬢として育ったが故に家事もおぼつかない。
少し、年齢をごまかして夜の街にも仕事を探しにいって、ようやく食いつないでいた。
今から思えば意地をはらずにクロエに困っていると訴えれば良かったのかもしれない。
クロエとティファニーは確かに、成さぬ中でお互いによそよそしい義母と義理の娘であったけれど、クロエがティファニーが死んでも良いとかそこまで憎んではいないし、非情な女性でもなく、ごく普通の感情を持つ女性であると今ではわかっている。
「ティファニー、支度は出来たの?」
クロエが声をかけていた。
「ええ、お義母様」
「まぁ、素敵に仕上がったわね」
淡々と、お決まりの言葉をかけるクロエに、張り付いた笑みを返す。
デビュタントは、白のドレスに白の花冠とドレスコードが決まっている。
淡い栗色の髪は結いあげて、垂らす所はティファニー自身の髪で作ったつけ毛を使って仕上げている。少し幼く見える小さめの顔に水色の瞳が煌めいていた。
背の低めなティファニーは、とても高いヒールの靴を履いた。足は痛くなるけれど、仕方がない。
ティファニーのデビュー用のドレスは、キースが贈ってくれたものである。何の血縁もないティファニーに、こうして今も親身にしてくれるキースとレオノーラには、ティファニーは感謝している。
とても……とても……。
王都の有名な仕立て屋であるミセス アヴァの作品であるドレスは、ティファニーの体を綺麗に見せてくれていた。
深いローズカラーのドレスに身を包んだクロエと二人、四頭だての馬車に乗り込むと、王宮に向かう。
二人で乗り込んだ馬車の中。しかし、ティファニーがクロエに話すこともないし、クロエからティファニーに話もしない。
一度、クロエに追い出されたティファニーが再び、バクスター邸で暮らすようになったのも、ルロイの取りなしのお陰であるし、ルロイがそうした事の背景には、ティファニーの予想が正しければ、キースの何らかの作為があったと思っている。
カツカツと規則正しい蹄の音と、車輪の回る音。
その音が耳にひどく響いてくる。
緊張しているのかも知れない。この先は上流貴族たちの世界で夢のような、きらびやかな世界なのだ。
ティファニーの自己評価は親無しの、受け継ぐ財産のない、何よりも親に愛されていない娘なんて、誰も見向きもしないとそう思っていた。
デビュタントたちの集う控えの間、そこでティファニーは同じように白のドレスに白の花冠を身に付けた少女たちと待っていた。
すぐに近くの少女たちとすぐに打ち解けて、話はじめる彼女たちを、ティファニーはそっと見るともなしに見つめていた。
デビューに心踊らせて、はしゃいだ声をあげていて、とても可愛らしい…そう思った。
でも、なんだか違う彼女たちとはなんだか違う、感じる疎外感…やっぱり、なんだかここにも、私の場所はないのだな…
身体はここにあれど、いつもティファニーにはそんな想いがつきまとっていた。
ここにいてもいいんだと、心の底からそう思えた場所をいまだかつて見つけることが出来ていない。
デビュタントたちのエスコート役の男性たちが入ってくる。
エスコート役をつとめる貴公子たちは、独身で社交界慣れした20歳くらいで、兄や従兄弟や知人の男性から選ばれていたし、もし知り合いにいなければ、主催者が選んでいた。
この日、ティファニーのエスコート役はレオノーラの弟の、ラファエル・ブロンテであった。
ラファエルは19歳。華やかで美しい金髪と緑の瞳、体つきは若々しくしなやかで、すらりとした長身に、さらに美貌を兼ね備えた青年で、友人からの人望も厚く、その上次期伯爵とあっては10代のレディたちが狙いを定める結婚相手の中でも上位にくるのは当然である。
黒のパリッとしたテールコートを身に付けたラファエルが登場すると、令嬢たちが息を飲んでラファエルを見つめている。
あたりの空気を変えるほどの存在感で、長い脚で歩み寄るラファエルにティファニーもまた目を奪われていた。
ドキドキが他の人たちにも聞こえてしまいそうだ…。
「ティファニー、ひさしぶりだね」
少しだけ笑みをのぞかせ、そう言ったラファエルにティファニーはさらにどきりとした。
「そうですね…本当に、ひさしぶりです」
ティファニーは、まっすぐに顔が見られずラファエルの首のしたにあるタイ辺りに目をさ迷わせた。
ラファエルと最後に会ったのは、昨年の社交シーズン中の夏の事であったから、ひさしぶりであるのには間違いない。
「……なんだか、ドレスのせいかな。まるで違う人を見ているようだ」
ふっと笑う空気がした。
「ラファエル……卿も、まるで違う人のように思えます」
ティファニーとラファエルは、こんな風に改まった服装や、こんな口調で話したことは初めてである。あながち違う人と会ったような気がしても、おかしくもないのである。
以前は呼び捨てにしていたから、卿をつけるのに少しだけ躊躇った。それはひさしぶりに会う彼がとても大人びて見えて、そして貴族子息らしく現れたからでもあった。
「さて、ではお手を」
いたずらっぽくティファニーの手を取り、肘にかけさせた。
ティファニーはふと、その顔を斜め後ろから盗み見た。前より少し頬の辺りが精悍さを増したかと思った。それに、背が少し伸びたのかも知れない。
あの頃……出会った頃………いったいどうやってこの、美しい青年と話していたのかと、ティファニーは過去の自分を思った………。
けれど、当時の反抗期真っ盛りのティファニーは、思い出すだけで恥ずかしくなる、忘れ去りたい………。そして、当時を知っている人には、忘れ去ってほしい過去でもあった。
デビュタントたちの列は、人垣で出来た道を通り舞踏会の会場に入っていく。
慣れた仕草のラファエルに導かれて、ティファニーも着飾った人達の中に収まった。
「王族の方々だよ」
そっとラファエルが言うと、扉が開いて王族の入場となる。
はじめてみる天上人の圧倒的な存在感に、ティファニーはほうっと見とれた。
キラキラとしたその人達と同じ場所にいるなんて、現実のものとも思えなかった。
王族の方々が踊ると、その後は華やかなカドリールでみんなが踊りはじめる。着飾ったドレスとテールコートが、動きに合わせてひらめき、本当に夢のような世界である。
一曲目はエスコート役と決まっていて、ティファニーの相手はもちろんラファエルであった。さすが伯爵家の嫡男というべきか、ラファエルのダンスは完璧で、流れるように踊っていた。
「どこにいくつもり?」
一曲目を踊って、休憩でもしようかとしたティファニーにラファエルがあきれたように言った。
「ちょっと、休もうかと思ったの」
「ティファニー、まだ休むには早いよ」
ポケットから出して手渡したのはダンスカードである。
手首にかけれる紐がついていて、美しい装丁のその小さなカードには曲名と、ダンス相手がかかれている。
「ほら、びっしりだろ?今日はデビューだから全部埋まってるよ?」
「………え………」
ティファニーは青ざめた。それほど、ダンスを練習してきたわけでもないし、たくさん踊りたいとも思ってもいなかったというのに
「あ、次の相手が来たよ」
ラファエルが言うと、優雅にダンスを誘いにくる男性の姿があった。
「こんばんはミス ティファニー。次は私がお相手ですよ」
にっこりと微笑むのはシリル・オーブリーである。
オーブリー子爵の嫡男である彼は、栗色の髪に青い瞳の優しげな青年である。
それから、次はジョルダン・アシュフォード、侯爵家の次男。銀髪と青い瞳が印象的な青年で……、
そうして、次々と現れるダンス相手と踊り、半ばにさしかかった頃には足はじんじんしているし、汗ばんでいるしでくたくたであった。
すでに、踊った相手の顔も名前も、話した内容も思い出せない。
ああ、やっぱりこういう社交も向いてないんだ………と、ティファニーは思った。
「足が痛む?」
ラファエルがティファニーを連れて椅子に座らせる。
少しだけカーテンで隠されたそこまで来ると、
「ちょっとだけ、靴を脱いでおけよ」
「………うん」
素直にティファニーは靴を脱いだ。
「これは、大変だなぁ………」
脱いだ靴を見たラファエルが呟いた。
「私、背が低いから」
10㎝以上あるヒールはほとんど爪先立ちに感じるほどだ。
「まだ、ダンスが残ってるけど、限界が来たら俺にちゃんと言えよ?」
ラファエルの緑の瞳がまっすぐに、ティファニーの水色の瞳を居ぬいて、心臓が跳ね揚がった。
「………分かった………」
ラファエルの手を借りて、立ち上がると勢いがつきすぎたのか、足が疲れていたのか、ティファニーはラファエルの胸元へよろけてしまった。
ドキンとまた心臓が音をたてる。
………脳裏に、聞こえるはずのない雨音がする………
「ごめんなさい、ありがとう」
無言で、ティファニーを支えたラファエル。その顔をやはり見ることは出来なかった。
後半の曲も無事に踊りきった頃には、妙な達成感に襲われていた。
舞踏会はまだ続くがデビュタントたちの多くはこの辺りの時間で引き揚げる。ティファニーもまた、帰る気満々であった。
「デビュー、おめでとうティファニー」
本当に近くから、声がかけられた。
懐かしささえ感じる、低くて響く甘い声………。黒い髪に、緑の瞳の長身の色気ある男性、それはキースであった。そしてその隣には、ラファエルをそのまま女性にしたような美貌の人、レオノーラだった。
「ありがとうございます、キース卿、レディ レオノーラ……ドレスも、それから色々と気を配って下さって感謝しています」
体ごと向き直ると、ティファニーは微笑みを向けた。
‘’思い出す…去年の夏の終わり…
『アークウェイン家の娘にならない?』
キースはそう、言ってくれたのだ。
ここに居ても良いという場所をティファニーに与えるべく…‘’
キースとレオノーラは一瞬顔を見合わせると、
「なんだか、本当にティファニーなのかな?ほんの数ヵ月離れていただけなのに…」
キースは笑みを向ける。そう言われても、無理はない。ティファニーは彼らと過ごした日々のほとんどを反抗的な態度で接していた。
「女の子は、少し見ない間に大人びてまるで別人になってしまうんだね」
「去年の私の事なら…。もう本当に忘れてほしいくらいです…」
ティファニーは目を伏せて小さな声で告げた。
「家の方とはうまくやっていけている?何かあったら、ちゃんと私たちを頼ってきて」
レオノーラが真剣にティファニーに言った。優しいレオノーラ…あの時もっと素直に楽しく過ごせば良かったな…今更だけれど…。
「大丈夫です。それなりに、やっていけています」
「そう?それなら良かった…ラファエル、ちゃんとエスコート出来たのか?」
「なんだよ、姉上が俺にって言ったくせに、疑うわけ」
くすっとラファエルが笑いながら言った。
キースもレオノーラも、ラファエルとティファニーが仲が良いと思っている。だからこそ、ティファニーのデビューのエスコートにはラファエルを選んでくれたのだ。
「ちゃんとしたよな?ティファニー」
「………え、ええ。もちろん」
「もう、足が限界らしいから、送っていくところ」
ラファエルがティファニーの体をしっかりと支え、そう言った。
「ティファニーの靴、スッゴイヒールなんだ」
笑いながら言った。こんなの、と手で表す。
「それは大変だったね、気をつけてな」
キースが労りの言葉を向けた。
「ありがとうございます」
ティファニーははにかんだ笑みを見せると、
「じゃあそろそろ行くか」
と会場の外へ連れていった。ラファエルはコートを、ティファニーはストールとバッグを受けとると馬車着き場に向かう。
ラファエルは何も言わずに、ブロンテ家の馬車を呼びつけた。
「乗って」
少し強引とも言うべきその言葉に、ティファニーは逆らわずに乗り込んだ。
軽車両馬車は二人を乗せると、軽やかに走り出した。
少しだけ、雪が降っていて、屋根には幌が伸ばされる。
冷気がまとまりつくけれど、火照った顔と体に心地よい。
「髪、」
後ろに垂らした長い髪を、ラファエルの手が触れた。
「つけ毛を足しているの」
ティファニーはそっとラファエルの手から取り返すと、そう返した。
「なぁ………縁談、なくなったんだって?」
ピクリと、ティファニーの肩が揺れた。
「そう………なくなったの………。向こうから…白紙にしてほしいとお詫びがあったそうよ…」
「良かったな…」
「ええ………」
「………後悔、してる?」
また、脳裏に激しく窓に打ち付ける雨の音がする。後悔………。ラファエルが言うのはティファニーとラファエル、二人だけが知るあの出来事。
「後悔………?」
何に対しての後悔だと言うのだろう?
「どうして、そんな事を聞くの?」
ラファエルは彼にしては珍しく目線を外した。
‘’昨年、夏の終わりに…クロエによって突然知らされた。
アークウェイン邸を訪れた、クロエをレオノーラが相手をしていた…それを知ったティファニーは応接室に向かい、扉に手をかけた瞬間に聞こえてきてしまったのだ。
『レオノーラ様も新婚でいらっしゃるのに、お邪魔してしまって本当に申し訳ございませんわ。あの子も年頃ですし、ちょうど良縁がございましたの』
………邪魔………良縁……
『…良縁と言いますと、結婚させたいと言うことですか?』
レオノーラの声が聞こえた。
『ええ、そうなんですの。是非にとデーヴィド・エーヴリー卿がおっしゃって下さって…あちらはしっかりとしたお方でしょう?』
何が、良縁か…と。全くティファニーの知らない相手ではないか…良いように、扱われるのはもうごめんだ…!とティファニーは思った。
『失礼ながら、ティファニーとデーヴィド卿では年が離れすぎでは?』
レオノーラが、非難の声を向けている。レオノーラが非難するような相手なのだ…。
『まぁ、レオノーラ様ったら…ライアン卿とレディ エレナも、これくらいの年の差ですわ。ちっともおかしくありませんわよ』
『ティファニーは16ですよ?27歳だったレディ エレナとは違いますよ』
『ともかく、ティファニーに会わせて下さいませ』
気がつくと、ティファニーは花器の台にあった鋏で1つに結わえた髪をバッサリと切り落としていた。
バタンと扉を乱暴に開くと、いきなり登場したティファニーに驚くクロエに、それを投げ付けた。
『そんなに良縁だと思われるのでしたら、お義母様が結婚すれば?』
そう叫ぶと、ティファニーは嵐のように乱れた、荒れ狂う激情に駆られて、降りだした雨の中を飛び出した…当てもなく。
アークウェイン邸を飛び出したティファニーは、ちょうど訪ねて来ようと邸の近くにいたラファエルの馬車とぶつかりそうになったのだ。
『ラファエル、お願い助けて………!』
痛々しいほど短くなった髪と、涙で濡れた顔のティファニー…。驚いた顔をしたラファエルは、何も聞かずにティファニーを馬車に乗せてアークウェイン邸から離してくれた…。‘’
………その時、以来の再会であった。
「………ソックス、元気?」
ソックスは、ラファエルがティファニーに贈った猫で、靴下を履いてるように模様があったから、ソックスと名前をつけたのだ。
「すごく、元気。もう、大分大きくなって、走り回ってる。 あとは、寝るときにいっつも上に乗ってくるから……重いの」
「ふぅん、そうなんだ?会いに行っていいかな?」
ラファエルが言う。
「………やめて、私ラファエルと親しくしてたら、他の令嬢たちにいじめられちゃう」
出来るだけ冗談めかして、止めてみる。
「ちゃんとした令嬢を相手にするんでしょ?」
「お前は、ちゃんとした令嬢じゃないのか?」
くっと笑いながら、ラファエルが言う。
「………そうよ、私は真っ当な令嬢じゃないの」
ようやく、ティファニーはまっすぐにラファエルの顔を見つめた。でも、やはりすぐにそらしてしまった。
「送ってくれて、ありがとう。お休みなさい」
馬車は、少し前にバクスター邸に停まっていた……。
「ティファニー」
まだ馬車の手すりを持っていた手を掴まれて、はっと見返してしまった。
「………おやすみ」
緑の瞳が睨み付けるかのような強い光をたたえて、ティファニーを見つめていた。
その眼差しから逃げるかのように、ティファニーは足早に扉へ向かった。