第七話 勝者の居ない罰ゲーム
前話あらすじ
重なる身体、すれ違う気持ち、残ったのはやはり後悔だけだった。
一線を越えて後悔を痛感した二人。なのに離れれば寂しくなる。
心に棲みつく後悔以外の何か。
それに少しずつ辿りつきはじめた二人を、時が遮った。
後悔を背負い日常に戻る二人の”見えない罰ゲーム”。
宝塚記念まで続いたそれが、ついに終わりを迎える。
六月三十日、日曜日。
初夏の日差しが眩しい阪神競馬場。馬場は良。
十万人の観衆の目当ては勿論メインレース、第54回宝塚記念。
春の天皇賞より千メートル短い二千二百メートルで行われた宝塚記念は、意外な幕切れとなった。
レースが終わり、テレビモニタが競馬場の着順表示板を大きく映し出す。
前走”春の天皇賞”ラスト二百メートルで失速し三着に甘んじた無念を晴らし、自身のテリトリー中距離戦で見事な競馬を見せつけたハネダクラウンの馬番号6番。
その下に点滅する14番は、最早二着が恒例となったスプリングノベル。一着と二着との差はクビ差しかないが、内容はまさにハネダクラウンの横綱相撲だった。
更に二馬身差で人気薄の1番、三着からハナ差で六番人気の9番が点滅している。
帰国したカトリーヌ=ヴェイユに替わって野々村という中堅騎手を背に、天皇賞同様後方一気の作戦を取ったテンプテーションの2番は……一番下の五着の表示欄に点滅していた。四着との差はハナ。
テレビから競馬場に流れる放送が中継される。
『お知らせ致します』
と同時に画面は着順を知らす表示板の最上部に灯る青いランプを映し出した。
そしてその青いランプの下には大きく目立つ”審”の電光表示。
『阪神競馬第十一レースは、最後の直線走路で、2番テンプテーション号の進路が狭くなったことについて審議をいたします』
このレース、テレビから流れる競馬場の放送が告げるように、まだ表示板どおりの順位とは確定していない。
ヴェイユが跨った天皇賞と違い、直線で内側を突いた野々村とテンプテーションは、バテた逃げ馬に前をふさがれた。そして右を内埒に、他の馬が追込み態勢に入っていた左側は馬そのものが壁となりふさがる。
逃げ場を失った彼女と野々村は、バランスを崩すほどの急激な減速を余儀なくされ、五番目にゴール板を通過した。
『お持ちの投票券は、勝ち馬が確定するまでお捨てにならない様お願い致します』
しかし審議の内容によっては、被害を受けた馬の順位が上がる可能性もある。
加害馬が被害馬よりも先着していたならば、降着させられたり、酷ければ失格もありうる。
だが恐らく宝塚記念の上位順位は、着順表示板に挙がったとおりで確定するだろう。
「シンパシティックは二桁順位だろうし、こりゃ変動無しだな」
加害馬シンパシティックは、彼女よりも後ろの着順だったのだから。
例によって部屋主、弓削匠が二人にそう告げる。
つまりテンプテーションは5着。
どちらかが選んだであろう灰色の彼女は、残る一人が選んだであろうハネダクラウンやスプリングノベルに敗れたのだ。
と、匠は暗に示しているのだが……けれどそのあと会話が続かない。
勝負を繰り広げているはずの二人、伸一と瑞希は、レースが始まる前から一切言葉を発しなかった。
テレビの向かい側、部屋主に許された特等席に座る匠は、その右に座り見ているのかどうかすら怪しい目をテレビに向ける伸一と、左に座りじっとテーブルの真ん中を見つめる瑞希を交互に眺める。
向かい合うウマ馬鹿二人は、部屋に入ってからずっとこうだった。
それどころか、この二ヶ月目も合わせず言葉を交わしたところすら見たことがなかった。
匠には二人がお互いを意図的に避けているようにすら見えるほど。
無言で中継を眺める伸一と、テーブルをじっと見つめる瑞希。
そしてその二人を見つめる部屋主。
『お待たせ致しました』
テレビの声が十三分に渡る審議の終わりを告げる。
伸一と瑞希にも何かの終わりを告げるように、匠に何かの始まりを告げるように、テレビの声が続く。
『阪神競馬第十一レースは、最後の直線走路で、2番テンプテーション号の進路が狭くなったことについて、審議をいたしましたが、到達順位どおり確定いたします』
一着にハネダクラウン、二着にスプリングノベル。
テンプテーションは大きな不利を受けたものの五着から順位を上げることはなかった。
『なお、11番シンパシティック号は、最後の直線走路で、2番テンプテーション号の走行を妨害しましたが、被害馬が先着のため、着順の変更はございません』
十着のシンパシティックから走行妨害を受けなければ、灰色の彼女はきっと直線で突き抜け、楽に一着を奪っていただろう。
或いは大外を回っていたら、もう少しだけスパートが早かったら。
カトリーヌ=ヴェイユが居れば……。
けれど競馬に”もしも〜〜たら”、”あのとき〜〜れば”はない。
結果が全て。
「テンプテーション、負けたぜ?」
栗毛のフランス令嬢が欧州に去ってしまい、灰色の彼女は五着に敗れた。
それが現実、それが結果だった。
「で、どっちが勝ったんだ?」
匠の一言でようやく行動を開始した二人は、各々ポケットから、或いは定期入れから馬券を取り出した。
そしてそれを全く同じ素振りでじっと見つめた後、申し合わせでもしたかのように寸分たがわぬタイミングでテーブルの上に置く。
そして馬券をそっと突きつけあう二人は、互いに相手のそれを見た後、驚き、呆れ、戸惑った。
口元をかすかに吊り上げながら、部屋主が問う。
「これ、どっちが罰ゲームするんだ?」
テーブルの上には、”2 テンプテーション”、と記載された馬券が二枚。
奇遇なことに二人とも自信のなさの表れか、賭けた金額の記載、百円までが一致していた。
過去の七回は事前にお互いが選ぶ馬を教えあい、被らないようにしてきた。
けれど今回はそれが無かった、いや、出来なかった。
お互いに気まずさから避けあってきたせいだ。
それは勝者のいない宝塚記念という形で跳ね返ってくる。
二ヶ月友人と恋人のどちらでもない関係を強制させられた、二人の罰ゲーム。
耐え続け今日までやってきたというのに、レースが終わったというのに、何ら結果が出ず続行が指示された。
そんな風に思えて、伸一と瑞希は互いに顔を見合わせたあと力なく笑うしかなかった。
この曖昧な関係にピリオドを打つべく挑んだはずの宝塚記念が、後悔の残るテンプテーションの競馬の如く、彼ら二人の心を重くした。
けれど――
「んじゃ、俺の勝ちでいいよな?」
――勝者は突然現れた。
困惑する伸一と瑞希を馬鹿にするように笑いながら、匠はハンバーに掛けてあったワイシャツの胸ポケットから何かを取り出した。
そして二人のテーブルの上に重なる馬券の上に、それを叩きつけるように捨てる。
6という数字とハネダクラウンの文字。
馬券だった。
しかも宝塚記念の勝ち馬の名前が記載された。
天皇賞ではバテるだろうと予言した匠が、宝塚記念でそのハネダクラウンの勝利を予言していたというのか。
しかも突然勝負に参加し、自分達二人を嘲笑うように勝者の席に座ろうとしている。
突然の事態に、伸一と瑞希は大いに戸惑っていた。
弓削匠は今日までの約二ヶ月間、親友である長谷川伸一と藤田瑞希を同時に見かけたことがなかった。
その奇妙な事実は、天皇賞の翌日に執行された罰ゲームが原因であることは明白だった。
五月七日から既に二人はおかしかったのだから。
けれど両人とも一向にその事実に触れようとしない。
『宝塚記念んとき、また部屋借りるで。かまへんやろ?』
共にした昼食の席で告げる伸一の顔色は、いつもと比べ酷く悪いように思えた。
『藤田はやっぱテンプテーションなんやろか? 何か聞いてへん?』
『さぁな……』
そして後日。
『長谷川はテンプテーションを選びそう?』
『どうだろうな』
『六月三十日、お邪魔するから』
講義のあと匠にそう告げて去っていく瑞希の背中は、自信ありげに歩く普段よりも酷く小さく見えた。
触れづらい空気。厄介な二人。
なのに相手の動向をテンプテーションと限定して探る二人の不可解な一致点。
面倒なことに関わりたくないと、彼は表向き傍観者を決め込んだ。
そして今日。
――そんな雰囲気でも勝負はするんだなお前ら……
二人の頑固さに内心呆れながらも、彼は快く部屋を提供した。
表向き不干渉を決め込むのもレースが終わるまでだ、と手薬煉引いて待ち受けていたのだから。
「なっ、何考えとんねん!」
「どういうことよ!」
騒ぎ立てる二人を勝者は軽く笑い飛ばして言う。
「敗者は罰ゲーム、だったよな?」
”罰ゲーム”の言葉に、伸一と瑞希は一瞬声を失った。
そして二人は思った。
これから自分達が受ける罰ゲームはきっと、今までの二ヶ月間への叱責だろう。
宝塚記念の勝者は、この二ヶ月間、自分達の我侭に文句を一切言わず付き合ってくれた。
不自然な自分達に一切無理強いをしなかった。何も聞かずにいてくれた。触れずにいてくれた。
だから罰ゲームを執行するに足りる十分な資格を持っているのだ。
二人は思った。
あの夜から今までずっと続いてきたこの苦しみも、言ってみれば罰ゲームみたいなものだった。
だから二ヶ月に渡る得体の知れない罰ゲームよりも、せめて形あるそれを望みたい。
二人は思った。
「お前ら……何があったのか、そろそろ話してくれてもいいんじゃねぇか?」
真顔で告げられたこれこそが、敗者に相応しい罰ゲームだ、と。
伸一と瑞希は二ヶ月間閉ざし続けた堅い口を開いた。
五月六日の出来事を包み隠さず、伸一は本音を曝け出しながら淡々と言葉にした。
キャンパスで噂になるほどの容姿を持った女性が、平凡な自分に言い寄ってくるはずがない。突然友人が女性に変化してそれを受け入れられない。過去に似たような経験があった。だから信じられなかった。
そして今も信じられない。
「俺、女性不審なんかもしれへん……」
伸一はようやく全てを告げ、胸の中に痞えていた何かが取れたように感じた。
そして顔をしかめる瑞希を見て更に気が重くなった。
「私はそれも承知の上だった……」
しかし伸一の気持ちとは裏腹に、彼女は全ての事情を知っていたのだ。
自分が友人としてしか見られていないことは勿論、目の前の臆病者が軽い女性不審であることも彼女は匠から聞いていたのだから。
その上で、ガードの固い長谷川伸一をどうやったら手に入れることが出来るのか。どうすれば自身の居場所をキープすることが出来るのか。
女性と見られたくない。女性として見られたい。
思い悩んだ末の結論が五月六日だった。
今日に至るまで溜め込んできた想いの全てを乗せて、瑞希は時に感情的に、時に無表情で、心の中の物を吐き出すよう声に変えていった。
そして今度は伸一が顔を歪める。
後悔する伸一を見て、瑞希が苦しむ。
苦しむ瑞希を見て、伸一が後悔する。
そんな二人に掛けられた矛盾する言葉。
「付き合っちまうと、付き合わないと、楽しくやれねぇのか?」
二人はしばし呆然とするしかなかった。
「伸一、お前は潔癖症か? 女はダメで藤田は良い、ってどういうことだよ」
女性がダメなら藤田瑞希もダメなはず。
藤田瑞希が大丈夫なら女性も大丈夫なはず。
「お前だって理解してんだろ?」
けれど、そんな単純な話じゃない。
そう思っても、何故か矛盾がが伸一の胸に引っ掛かった。
「噂の藤田瑞希はそれっぽくなくても、女の子、ってお前言ったじゃねぇえか」
第三学食で競馬専門雑誌片手に談笑する伸一と匠に、噂の彼女から声が掛かったのは二年前。
彼ら三人が大学一年の秋だった。
『貴方達、競馬するの?』
数日後に行われる牝馬限定G1レース、秋華賞に出走する三歳牝馬テンプテーションを熱く語っていた伸一に話しかけたのは、当時からスタイルの良さや人を寄せ付けない独特の雰囲気が噂になっていた藤田瑞希だった。
彼女の噂は、その手の話に興味のない匠はおろか噂に疎い伸一にすら届くほどのもので、だからこそ二人は目の前に現れた藤田瑞希に声を失った。
けれど蓋を開けてみれば彼女は筋金入りの競馬馬鹿。
そして競馬に興味を持ちはじめた伸一とは意外なほどに”馬が合った”。
『また参加させてもらってもいいかしら?』
快諾する二人に、瑞希は笑顔で言った。
『そう、ありがと。勝つと良いわね、テンプテーション』
笑顔で言い残し去っていく瑞希の背中を見て、伸一は隣の友人にこう言ったのだ。
『なんや噂に聞いてたのんと違うてなかなか面白い子やん。きっとお前目当てやで?』
胡散臭そうに彼女の背中を眺める匠は、伸一にその視線を移した後、口元を上げて笑った。
『伸一も自信持った方がいいぜ?』
突然掛けられた思わぬ高評価を上手く受け入れられなかった伸一だったが、
『俺もあーいう女の子となら、上手くやっていけそうやねんけどなぁ……』
頭の中で思い描いた彼女との関係が予想以上に成立していて、思わず言葉に漏らしていた。
『だろうな』
それを隣の友人は聞き逃さなかった。
そして今の今まで覚えていた。
「この二年、上手く友人やってきたんだろ? いいじゃねぇか、その延長線上で」
延長線上。
その言葉が伸一の心を強く打った。
「藤田。お前も分かってんだろ?」
伸一と違い、瑞希はこれから彼が言うだろう言葉が痛いほど分かる。
「女を武器にしたって、こいつを落としたって何の意味もないってこと」
五時間の交わりの最初に感じ、果てに確証まで行き着いたから。
先ほどまで伸一の脳裏に強く浮かび上がっていた一年秋の出来事。
それこそが瑞希が捜し求めた居場所をようやく見つけた瞬間だったのに。
自分の持つ女性を隠さなくても、自分に求められた女性を隠しても、ここでならのびのびと息をしていられそうな気がして、
『勝つと良いわね、テンプテーション』
気付けば自然と口にしていたのに。
一年と半年が過ぎ、再び彼女の前に現れたテンプテーションに何とも言えない運命を感じて、二ヶ月前罰ゲームを実行した。
誘惑を意味するテンプテーションという名前は、罰ゲームを思いついた切欠。
”ヴェイユマジック”と称されたカトリーヌ=ヴェイユの大胆不敵さは、この奇抜で破天荒な罰ゲームを実行に移すための心の拠り所。
それが運命だと疑わなかった瑞希。
けれど今ようやく気付いた。
藤田瑞希を女性じゃなく藤田瑞希として接してくれた伸一に、わざわざ女性を持ち出す必要なんて無かったのだ、と。
結局は独り善がりだったのだ、と。
「なぁ……お前ら」
過去に縛られ、或いは過去を忘れた二人に、勝者は告げた。
「友人とか、恋人とか、そんな一つだけのカテゴリーでお互いを縛り付けんなよ……」
友人関係を望む伸一。
恋人になりたがった瑞希。
「人と人との関係は一言じゃ言い表せない。そういうもんだろ?」
その丁度中間が、或いは全く別のものが、もしかしたあるのかもしれない。
「結論は秋の天皇賞まで持ち越し。その間お前ら、曖昧な関係を楽しんでみろよ」
何があったわけじゃない、何を割り切ったわけでもない。
曖昧な関係は続くのだ。
なのに春の天皇賞から宝塚記念までの長く苦しかった二ヶ月と、これから十月下旬”秋の天皇賞”までの五ヶ月は、きっと全く違うものになる。
確証も自信もない。
けれどきっと今より良い。
そんな思いが二人の心の中に広がっていった。
「これがお前らの罰ゲーム、いいな?」
罰ゲームにこれ以上無く救われた気分になる自分に、二人は自然と笑いが漏れていた。
「で、秋の天皇賞。もし勝ったら相手にどんな罰ゲームを望むのか。紙に書いて俺に見せてみろよ」
伸一は渡された紙に、あの時手が届かなかったそれを書き、四つに折って匠に渡す。
瑞希は取り出した紙に、三つの中で一番欲しかったそれを書き、四つに折って匠に渡す。
二人からメモを受け取り中を文字を確認した匠は、大きく目を見開き驚いていた。
そして心底呆れた表情で二人を見比べた後、頭を掻き毟りながら言った。
「もう答えなんて出てんじゃねぇか……」
伸一は何を書いたのか、瑞希が望む罰ゲームは何なのか。
二人は互いに顔を見合わせる。
けれど肝心のそれは勝者の手から離れず、そして彼のポケットに押し込まれてしまった。
「勝者から一言言ってやるよ。お前ら馬鹿も良いとこだぜ、賭け事に想いなんて注ぎ込みやがって」
テーブルの上に置いてあった携帯電話を手に取ると、
「その馬券眺めながらじっくり話し合ってみろって」
彼は立ち上がり、玄関へと向かっていった。
「どうせお前ら、しばらくは目の前の異性以上の奴なんて見つかりっこねぇよ」
そして一言言い残し、勝者は扉の向こうへと消えていった。
部屋主が去ったアパートの一室に、伸一と瑞希だけが残された。
「多分匠はほとんど知っとったんやな……」
「分かってて何も言わないなんて、彼らしいわ」
「お陰で俺もお前も、随分助かったんやろうけどな」
「そうね」
二人はどちらからともなく大きく溜息をついた後、やはり顔を見合わせ声を押し殺しながら苦笑いする。
「しんどかったわぁ……」
思わず漏らした伸一の一言が、彼らの現在の心境を余すところ無く表していた。
この二ヶ月、全く心休まる時間は無かった。
夜になれば嫌でもあの日の出来事を思い出し、宝塚記念が近づけばどうしても相手のことを思い出してしまう。
「……せやけど」
それも昨日まで。
きっと今夜は思い出さずに済む。
そして宝塚記念も終わった。
「すっきりした」
溜息とともに吐き出した瑞希の言葉に、
「やな」
伸一も大きく頷きながら同意した。
『曖昧な関係を楽しんでみろよ』
たった一言が彼らの呪縛を取り払ったようにすら思えて、二人は心の中で勝者に感謝した。




