第六話 後悔のシンデレラ
前話あらすじ
ついに瑞希は想いを打ち明ける、けれど信じない伸一に瑞希は激昂。
全てを繰り出してでも誘惑してやろうとする瑞希。
そして誘惑されればされるほど醒めていく伸一。
二人の溝は埋まらないまま、けれど一線を越える決意をする。
お互い後悔すると分かっていて身体を重ねる二人の、虚しい後悔の夜が始まった。
今日という日に一つ数字が加われば、きっとお互い今までどおりに戻れる。
……とは、恐らくいかないだろう。
分かっていて、けれど受け入れるしかない。
彼らの心にわだかまりを残し、罰ゲームに似た交わりが始まる。
部屋の電気が消され、夜に同化した。
彼らを照らすのはカーテンから漏れる一筋の月明かりのみ。
布が擦れる音とともに残り時間を時計が刻む。
それ以外に響くのは、彼らの音だけ。
外の喧騒は遮断されたかのように二人の頭から消え、布と時計と彼らの音だけが二人を支配する。
伸一の胸にゆっくり顔を埋める瑞希の髪が、月明かりに照らされ鈍く光った。
それを綺麗だと思う伸一に、やはりそれ以上の感情は湧いてこなかった。
熱くしっとりとした彼女の肌と身体は、けれど伸一の心を揺さぶるには至らない。
後悔以外の言葉が見当たらず、伸一はただただ虚しかった。
虚しい夜は静かに更けていく。
跨り繋がる瑞希の下で無感情に彼女を見つめる伸一の、月明かりで浮かぶ辛そうな目。
引きこまれそうになる瑞希に、やはり喜びなんてなかった。
身体の中に入る彼は、けれど瑞希の心までは埋めてくれない。
望んだそれの無意味さに、瑞希は改めて後悔した。
そして後悔の交わりは、どちらからともなく終わりを求めさせた。
終わる前に終わった三度目は……惰性だったのか意地だったのか。
三時間ずっと言葉も無く二回半交わり、終えた二人に残った感情。
それは”後悔”の二文字だけだった。
未だ繋がったまま伸一の胸の上に手をつき、大きく息を切らす瑞希。
彼女の肩に下から手を沿え、支えながら彼女の目を見つめる伸一。
その目に気付き瑞希も顔を見合わせ、目を見つめた。
そして目の中に相手の二文字を見つけ、声を殺して苦笑しあった。
一通り笑った後、瑞希は多少荒い息を交えつつ伸一の上から言った。
「こんなに、疲れるだなんて、思わなかったわ」
言葉どおり瑞希は全身に薄っすらと汗をかき、髪を頬に張り付かせている。
瑞希ほどではないが僅かながら汗を滲ませた伸一は、彼女のまぶたの上で玉を作る汗を、そっと指で拭いながら言葉を返す。
「受身やったから俺は全然疲れてへんわ」
顔に掛かる伸一の手の感触に目を細めながら、瑞希は今度は整った声で躊躇いもなく言う。
「今までは私も受身ばっかりだったから……知らなかっただけよ」
「さよか、おつかれさん」
繋がったままの二人は、行為こそ男女のそれであったとしても、会話は二人のそれだった。
「んで感想はどないや?」
「長谷川の言ったとおりね。後悔してる」
自身の身体の中に彼を受け入れ、それだけを感じていた時間よりも、今こうやってふざけあっている方が心地よい。
それに気付いた瑞希は後悔していた。
「せやろ?」
未だに感じる瑞希の熱く柔らかい身体よりも、恥ずかしげもなくそんなことを口にする彼女の方が魅力的に見えて、伸一も後悔しか残らなかった。
しなだれるように瑞希が伸一に身体を預ける。
事の後で熱を持つ、けれど冷たく感じる身体が、接触する面積を広めていく。
そして瑞希は上半身をぴったりと伸一に重ねると、彼女の大きめな胸が二人の間に挟まれ圧力に負けて、円形を崩していった。
伸一はそれをじっと見詰めた後、思わず口に出してしまう。
「こうやって改めて見たところで、やっぱ我侭やなぁ」
「あれくらい言わないと、長谷川は踏み込んできてくれなかったでしょ?」
瑞希はそれを先ほどまでの自身の行動だと受け取り、伸一を少し責めるように言い返した。
「え? あ、いやちゃうねん。俺が言うてんのは性格やなくて、お前のおっぷ」
最後まで言いきらないうちに、伸一の口を瑞希の手が塞ぐ。
「長谷川には余韻を楽しむって感覚、ないわけ?」
責める瑞希は笑っていた。
「すまん。せやけど……えろい身体やなぁ」
叱られる伸一も笑っていた。
「人を『えろい』の三文字で纏めないで欲しいわね」
「しゃーないやん」
だから分かる。
繋がる下半身が教えてくれたのはこれだけだと。
後悔。
三時間の果てに行き着いた答えが後悔だけだなんて。
二人は再び互いを無言で見詰めた後、やはり声なく苦笑しあうほかなかった。
「なぁ、何でこんなことしようと思たん?」
伸一の言葉に瑞希はようやく彼の上から身体を離し、傍らに横たわった。
そして仰向けのまま全身で伸一をベッドから押しのけ、彼から枕を奪い取る。
端に追いやられ身体を起こしかけた伸一の顔に、瑞希は先手を打って起き上がりすぐさま枕をぶつけ、言った。
「二年は……耐えられそうになかったのよ」
薬剤師の国家資格を目指す瑞希にとって、大学生活は四年ではなく六年。
理学部の伸一は同じ年に入学し現在同じ三年生でありながら、二年早く大学を去っていく。
知っていても受け止め切れなかった事実に真正面からぶつからざるを得なくなったのは、弓削匠の傍にいつも居たはずの伸一が就職活動を始め、居なくなったから。
離れていくのではないかという焦燥感を持った瑞希が匠に相談し、そして伸一とは友人以上になれないと思い知らされたその日。
瑞希は罰ゲームに想いを込める事を決めたのだった。
そんな瑞希の独白に、枕を載せたままの篭った声が問いかけた。
「ほな……負けてたらどうするつもりやったん?」
その疑問がおかしくて、瑞希は声を弾ませながら答えを明かしていく。
「ハネダクラウンが良いって、弓削くんにそそのかされたでしょ?」
伸一が選んだハネダクラウンは大きなレースを数多く勝った馬。
「それを選んだ時点で、長谷川は負けだったのよ」
『恐らくハネダクラウンは最後の二百メートルでバテるぜ』
ハネダクラウンは長距離戦に一抹の不安を抱える馬。
それは初心者の伸一はおろか、それなりの知識があると自負した瑞希にも気付かなかった事実だった。
『菊花賞ですらラストはバテてたんだからな』
今回の勝負の舞台、春の天皇賞は京都競馬場三千二百メートル。
菊花賞もまた京都競馬場で行われ、距離は二百メートル短い三千メートル。
その菊花賞レースでバテたというハネダクラウンは、更に距離が二百メートル伸びる天皇賞でより不安が増すに違いない。
『伸一に選ばせてやりゃ良いんだな?』
だからこそ、その情報は打ちのめされた瑞希にかけられた、匠からの情けだったのだろう。
彼の誘導により伸一は”バテるかもしれない一番人気”ハネダクラウンを選ばされていたのだった。
『スプリングノベルなら、ハネダクラウンにはほぼ勝てるだろ』
そして同じく彼の誘導により瑞希は勝利をほぼ手中に収めかけ、けれど――。
彼女は選ばなかった。
「テンプテーションでも『勝負にはなる』。だけど『大きな賭けになる』って言われたわ」
「せやけど、お前が選んだんはテンプテーションやった」
伸一という存在を手に入れるために罰ゲームに想いを託す、その第一歩が大きな賭け。
それが皮肉にも運命にも感じられた。
だからその時、瑞希にはテンプテーションがまるでこれからの自分のように見えた。
「出走するメンバーの中で唯一の女の子だったし、乗ってる騎手も女性。それが自分と重なっちゃって、ね」
更には牡馬に混じり果敢に挑戦する芦毛の牝馬。男性騎手の中にに一人だけ居たフランス人女性騎手。
そんな彼女達が身近に感じられたのだ。
そして。
「何より名前に惹かれたのよ」
テンプテーション、それは誘惑、それは魅了を意味する英単語。
瑞希の一言にようやく伸一は、今までの奇怪な半日が解き明かされた気がした。
「テンプテーション……ってお前、もしかして!」
伸一だって手のひらで踊らされていることは自覚している。けれどそれはただ伸一をからかい、弄び楽しんでいるだけだと思っていた。部屋に来て誘惑されていることも分かってはいた。
だが、まさか誘惑が待ち合わせから既に展開されていたなどとは、予想出来るはずもない。
だから瑞希が見せた十時間の奇怪が”誘惑”の一語で全て纏まったことに伸一は驚愕した。
けれどそんな瑞希が何故か、彼女らしいとも思った。
「結果オーライやったけど、他力本願もええとこやん」
「私には結果が全てよ。こうやって目的は果たせたんだから、長谷川にとやかく言われたくはないわね」
声に笑いを混じらせながら、瑞希は枕の上から伸一の顔を数度叩いた。
枕越しの衝撃は数を重ねる毎に弱まり、やがて衝撃と同じくらい弱々しい声が伸一の耳に届く。
「それに……自力でそこまでする女って……どう思う?」
半分以上が他力本願だったと言えど、瑞希の行動には驚かされてばかりだった伸一。
それが全て自力だったらなど想像するだけで鳥肌が立った。
「ちょっと引くかも」
そもそも今日の瑞希が行動に統一性を持たせていたことにすら、伸一は鳥肌を立てていたのだから。
「っちゅーかもう引いとるわ!」
だから伸一は思わず飛び起きて、今まで散々引っ掻き回してくれた瑞希に怒鳴る。
「私の胸を凝視しながら言っても、説得力無いわよ?」
けれども一糸纏わぬ彼女が持つ大きな胸を目の前に、伸一はなす術なくあっさり負けてしまう。
再び枕を顔の前に載せベッドに沈みながら、伸一は情けなく呟いた。
「……さよか」
枕を通して聞こえる彼の投げやりな返事は、瑞希の頭の中で響き渡り心を充足していく。
そして瑞希の中で一つの仮定が生まれた。
満たされなかった交わりの後には、満たされる会話が待っていた。
ならば満たされる会話で埋め尽くしたベッドの上でなら、満たされなかったそれも或いは……と
「ねぇ、三回戦、やり直してみない?」
悪戯混じりに笑う瑞希は、今まで見たどんな服を着た彼女よりも伸一の胸を速めさせた。
「……ええよ」
そして暗い部屋の中で薄っすらと月明かりを浴びながら、二人はそれを心から楽しんだ。
おおよそベッドの上で交わされるとは思えないような、普段どおりの言葉を言い合って。
時にそれは皮肉の応酬となり、時にそれが理由でつねり合いとなり。
更にはくすぐり合い、そして叩き合い。
事の終わりに至る前に、気付けば双方笑い転げながらギブアップしていた。
男女がベッドの上で行う本来のそれとは、まるで似つかわしくない二人のやりとり。
けれど予想通り、快楽のまるでないそれは今までの二回半よりも、はるかに心地よい一時だった。
再び伸一に馬乗りになり、湿った音を立たせながら繋がり、そして瑞希は言った。
「落ち着くんだからいいじゃない」
「まぁ……ええけどやな」
互いに笑いあい、そしてようやく心と身体の両方が理解した。
今までの関係が一番良いのだと。
「やっぱ一線越える必要、なかったんやな……」
「そうね……」
ならば心の中に棲みついた後悔はなんなのか。
越えるべきでは無かった一線を踏み越えたから、それならば既に受け入れたはず。
ならば後悔以外に棲みついたこの感情はなんなのか。
今繋がる理由は、繋がって落ち着く理由はなぜなのか。
二人にはそれが分からなかった。
「背中から抱きしめて」
「我侭やなぁ……まぁええわ」
契約に似たベッドの上での二人の関係も、残り三十分で一つの区切りを迎える。
繋がったまま身体の力を抜き、全てを委ねるように伸一にもたれかかる瑞希は、まどろみの中に意識を投げはじめる。
うつらうつらし始めた瑞希を背後から抱きしめ壁にもたれる伸一は、後悔と共に棲みつく正体の分からない何かに捉われながら、揺れる瑞希の頭をじっと眺めていた。
瑞希の前で組まれた伸一の腕の上で、彼女の豊か過ぎる胸が頭の動きに合わせ緩やかに形を変え続ける。
腕に感じるその感触の変化と意外な質量に、伸一は瑞希を起こさないよう小さな声で言葉を漏らした。
「思ってたより重たいねんな……おっぷ」
寝ていたはずの瑞希の後頭部が伸一の口元へ押し付けられた。
「胸にしか興味が無いわけ?」
「す、すまん」
その謝罪は彼女を起こした事へのものなのか、ムードを台無しにした事へなのか。
謝る伸一にもよく分からない。
「せやけどホンマに重いって思たんやって」
「それだけ?」
「あ、いや、うん……やらかい。あったかい。あと……でかい」
「……長谷川に期待した私が馬鹿だったわ」
しかしよく考えればいつもそうだった。
訳も分からないうちに目の前で呆れる女性に操られ、馬鹿にされながらもそれを心から楽しんでいた。
「けど、馬鹿は私だったのね」
彼女の後悔が何であるか薄々感付いた伸一は、無意識の内に声を出した。
「俺もやって」
「私たち、馬鹿だったのね」
馬鹿だから後悔した。そして後悔は受け入れた。
けれどそれを自嘲する瑞希がいじらしく見えた伸一は言った。
「馬鹿はなんか嫌やなぁ……アホやってん」
「それも一緒よ」
この後悔を笑って話せるようになるまで、どれくらい掛かるのだろうか。
「気分の問題やって」
それともいつか、男として恵まれたこの状態を手放したがった自分に後悔する日が来るのだろうか。
もし瑞希が離れてしまうことで後悔するなら、彼女は伸一にとってまさに……。
「シンデレラみたいやな」
「だけど私はガラスの靴なんて持ってない。それが悔しいわ」
シンデレラは寂しそうに笑った。
だから彼女をせめて元気付けさせたくて、伸一は普段使ったであろう言葉を何とか搾り出す。
「似たようなもんなら持っとるやん。まぁ、言うと怒るから言わへんけど」
「どうせ胸でしょ?」
「ごめーとー」
「残り少しなんだから、好きなだけ触ってなさい」
伸一の腕の上に乗るシンデレラの胸が、彼女の笑いと共に弾んで揺れた。
無言のまま時は過ぎる。
そして月明かりを受け薄緑に光る時計の長針と短針が、頂上で重なり合った。
重なる針がまるで今の自分達のように思えて、魔法が解けてもしばらく動けなかった。
けれど、やがて意を決したように二人は日常へ向けて歩み出す。
五月六日に別れを告げ、二人の関係をまた今までのそれに戻すために。
「魔法、解けたわね」
「おつかれさん」
繋がりを解き伸一の腕の中から離れると、五月の夜とは思えない寒さが瑞希を襲った。
後悔しか無かったはずの交わりを解いたのに、彼女の心を冷たい風が襲った。
身体以上に凍える心を隠しながら伸一へ振り返り、瑞希は平然を装いつつ言う。
「ご飯、食べに行かない?」
行き場を失った両腕と温もりが消えたそこに、伸一は戸惑った。
約束の時間が終わったことを寂しく思う自分に、戸惑った。
けれど伸一は何とか冷静を保とうと苦心しつつ返事を返し、立ち上る。
「せやな、昼から何も食うてへんし」
普段どおりの会話を作り出しているはずの二人の声は、普段以上に重く低いものだった。
動いた彼女に月の光が強く当たり、白い身体が闇の中に薄っすら浮かんだ。
闇に浮かぶ白があまりに衝撃的過ぎて大きく見開かれた彼の目が、部屋に寂しく浮かびあがった。
けれどもう五時間は終わったから、もう手遅れだから……。
二人は漏れ出しそうになった言葉を、喉の奥に押し込んだ。
それぞれの心の奥底に”後悔”を抱かせて、黄金週間は終わった。
明日からまた大学が再開する。日常に戻るのだ。
けれど今までどおりを装う二人の日常には、今までとは少し違う”曖昧で気まずい関係”が確かに存在する。
「次は……宝塚記念ね」
「もう負けへんで?」
宝塚記念が行われる日曜日は、六月三十日。
それまでの二ヶ月間、彼らは曖昧で気まずい関係を引き摺りながら過ごし続けることとなる。
二人に課せられた重く苦しい罰ゲームは、誰が告げたでもなく始まっていたから。




