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第五話 誘い惑わす追込馬

前話あらすじ

 魅力的な身体、魅惑的な行動、扇情的な言葉。

 目の前で始まる瑞希の誘惑に言葉を失う伸一。

 けれどその真意に辿りつけない彼は瑞希を止めた。

「ちょっと真面目に話しようや。怒らへんさかい」

 頷く彼女は、しかし止まっていなかった。

 既に瑞希の誘惑は、最終段階を迎えつつあったのだから。


 瑞希が三年生になった今年の四月上旬。

 同じく三年生になり就職活動を始めた伸一は、彼の親友である弓削匠の傍から離れることが増え始めた。

 接触する機会が減り、形容しがたい不安に駆られた瑞希は、自身の抱く伸一への想いをその親友に打ち明け助言を願い出た。

 そして知った。

『伸一は色々あったらしい。だから藤田は”今のまま”の方があいつにゃ気楽だろうな』

 彼が抱く自分への評価が”気の合う友人”以上にはなりえないことを。


 匠の言う一言一言が目の前から光を奪っていく。

 けれどそれと同じくらいに、無闇な行動を取らなかった今までの自分を褒め、喜んだ。

 絶望と歓喜を同時に味わう自分の対極した感情に、瑞希は自嘲するしかなかった。

『あいつにゃ藤田って存在は、あくまでもお友達だと思うぜ?』

 そんな瑞希の心など知らない目の前の男は、止めの一言”お友達”で瑞希を完膚なきまでに打ちのめした。

 けれど、

『だから、藤田が心を隠し続けて苦しい顔をすりゃ、どっちみち伸一は後悔する』

 彼は叩き落した後、瑞希をすくい上げたのだ。

『なぁ藤田。お友達だけじゃ満足出来ねぇなら、やれることやった方が良いんじゃねぇか?』

 テンプテーションに出会う前、最初の一歩を踏み出す切欠はまさにこれだった。

『……まぁ人並みのアドバイスしか出来ねぇ。悪い』

 確かに人並みだけれどそっと背中を押してくれたことに、複雑な感情を抱きつつも素直に感謝した。



 氷の溶けたグラスをじっと睨む伸一は、瑞希が部屋に戻って着たことに気付いていないようだ。

 瑞希はそっと彼の向かい側に座り、少し前に顔を出しながら伸一へ存在を知らせる。

「お待たせ」

「うぉ! あ、いや、そない待って……って、なんでそんなもん着とんねん!」

 突然視界に現れた瑞希に驚きながら、でも予想通りのツッコミを入れる伸一。

 その反応はいつもの伸一で、だから瑞希は大きく揺れた。

 手放したくない関係と、手に入れたい関係、どちらを選ぶべきなのか。

 ホンの少しだけ、あと少しでいいからこの放しがたい居心地のよさに浸りたい。

 瑞希はそう思い、伸一同様に普段の返事を返して見せた。

「私の高校時代のなんだけど、長谷川の趣味とは違う?」

 細い白のラインが入った紺色のチェック柄ブリーツスカートと、白い長袖ブラウスを着て臙脂のネクタイを弄りながら、瑞希は自分の姿に戸惑う伸一を心底楽しもうと決めた。


「お、おま……お前! 学生服とか考えとんねんっ!」

 予想外のいでたちに戸惑いつつも、与えられたツッコミどころは逃せない伸一の言葉が心地いい。

 ボケ役にそうであってほしい台詞を、無駄だと分かっていて自分に求めてくる伸一がたまらなく好き。

 だから、この短い時間を心に焼き付けようと決めた。

「これしかないんだから我慢しなさい。それともブルマか水着の方が良かった?」

 伸一は折れてくれるはずだ、と瑞希は自分に言い聞かせた。

 確かにスタイルは隠していないが、前の二つと比べれば格段に譲った方だ。決して淫靡な感じはしないはず。

 それはブラウスの白さとスカートの紺が成せる業だったのだろうか。

 自身が持つやや冷たい表情は、意外にも清潔感漂う服装と合っている、と瑞希は我が事ながら思う。

「それでええわ……しっかし、様になっとるなぁ」

 そして願い叶って伸一は折れてくれた。

「藤田って高校んときモテたやろ? それ見たら一目瞭然やで?」

 それも当初の目的である真面目な話を忘れる位に。

 けれど伸一の振った話題が過去の汚点を突いた気がして、呼吸がしづらくなる。

 瑞希は無意識の内にネクタイを緩めたあと、

「残念ながらそうね。否定はしないわ」

 ネクタイと違い意図的に襟元のボタンを一つ、ごく自然に外しながら投げやりに答えた。


 本当に求めたい人からは”残念ながら”モテない。

 それが藤田瑞希という女性。

 漏れた言葉から何かを感じ取ってくれたのだろう伸一は、その何かに触れて良いのか悪いのか判断に悩んでいるように瑞希には見える。

「去年の夏の事、長谷川は覚えてる? 私があんなことした理由知りたくない?」

 その気遣いが嬉しい半面心苦しくて、伸一が求めた”真面目な話”に踏み込むことを決めた。


「匠やろ? 藤田がおかしなったんって、あいつに彼女出来た後やったし。あぁ荒れとるなぁて思うとったけど、ちゃう?」



 伸一の言うとおり彼女が心惹かれたのは弓削匠で、長谷川伸一はあくまでも”ただの友人”だった。


 けれど大学二年の夏、それまでフリーを貫いてきた匠が高校時代の同級生と交際を始めたという噂がキャンパス内を駆け巡ったことで事態は急変する。

『ねえ長谷川。弓削くんに彼女が出来たって噂、本当なの?』

『ホンマやで、間近で見たから断言したってもええわ。噂やのうて目撃情報やさかい』

『相手ってどんな子?』

 プライバシーに関わるから言えないと頑なに口を閉ざした伸一を何とか口説き落とし、瑞希は聞いて嫉妬した。

『見た目以上に性格の方でお似合いの二人やと思うわ。俺も匠があんな風にあしらわれてんの見たのんは初めてやったで』

 自分の事を性的な目で見ない貴重な異性、弓削匠。

『……そう』

 それが失われたようで、この手に奪い返したくて。

 伸一から情報を引き出した翌日、露出の高い服を着てこれ見よがしに伸一を引き連れた瑞希は、誰に当てつけるでもなく町を歩いた。

 女性としてみない人物に惚れたのに、女性を武器にして取り返そうとする矛盾には全く気付かないまま。


 けれど瑞希は己の矛盾でなく、別のことに気付いた。

『いや、そういうことやあらへん! けどちょっと刺激が強いねん』

 伸一が瑞希に掛ける言葉もまた、弓削匠と同じく、今までの男とは違っていたことに。

 可愛い、美人、胸が大きい、スタイルがいい。上辺を褒める言葉ならいくらでも貰ってきた。

 そこに心が篭っていない、何らかの意図を感じさせる褒め言葉なら、自分が望まないものまで押し付けられるように。それがベッドの上でなら尚更。

 けれど藤田瑞希を女性ではなく個として見る男性が、弓削匠以外にももう一人居たのだ。

『あ、いやいや、ごっつええ役やねんけど……俺には大役すぎただけやって。そんな、俺こそすまん』

 上辺を褒めるそれは同じだったのかもしれない。

 けれど瑞希は全く不快感を感じなかった。それどころか伸一の言葉を心が求めたのだ。

 だからそれ以来伸一の心地よさを求めた彼女は、彼の前で女性を武器にすることをやめた。

 そしてその時、瑞希はようやく気付いた。


 恐らく自分は長谷川伸一のことを好きになる、と。



「褒めすぎやで」

 信じられないと言う顔でやや俯き、けれどふざけた様子のない伸一は、惚れた弱みもあるのだろうが普段の彼以上に瑞希には輝いて見える。自分との関係がこんな形でなければと悔やむほどに。

 篭絡すると言う目的からは外れ始めたけれど、行き着く場所が同じならそれで良い。

 そんな打算が働いた瑞希は、再び顔に悪戯っぽい笑みを浮かべながら伸一に言った。

 罰ゲームの続きを始めようと心に決めて。

「長谷川はモテなかったわけ? 私が惚れる位だもの、いい男よ?」

 けれどものの数秒でそれは崩壊する。

「その自信がどこから来るんか……は、さっき見せてもろたからええわ」

 結局あれだけアピールしたところで、伸一に伝わったのは瑞希の”臨んでもいない女性としての自信”だけだった。

「せやけど……面と向かって言われても、俺、ホンマに信じられへん」

 そして気持ちはまるで伝わらなかったのだ。

「藤田が俺に罰ゲームしてるみたいに、誰かが藤田に罰ゲームさせとるんとちゃうかって」

 身体を武器にしてでも、一線を越えてでも手に入れようとした今までが、全て否定されたように瑞希には思えて、

「嫌な相手にここまでするわけないじゃない!」

 思わず叫んだ。


「なら本気だって証明してあげるわ!」

 感情が頭を支配し、渇望が身体を支配していくのが分かる。

 ――私の全てを使ってでも

 瑞希の頭の中から灰色と青の彼女達が完全に消え、瑞希は関係を手放すことを決めた。

 そして新しい関係を手に入れようと、ゆっくり後ろを向き背中を丸める。

 背に掛かる髪の合間から透けて見えるだろうそれを、伸一に気付かせるようにゆっくりと。

「……忘れとった。俺、もう一つ買っとるやん」

 伸一に見せ付けるように。

 そしてネクタイを解く手を動かしたまま、喫茶店で口にした言葉を瑞希は今一度、伸一に聞かせるように呟いた。

「袋の中身を身に着けた私、見たくない?」

 体操服と水着は既に消化した。となれば残るは今制服の下に身に着けている黒いレースのあれだけだ。

「あのな、そない魅力がないとかクラっとけぇへんかったとか、そんなんとちゃうねんで?」

 伸一の優しさが痛い。これ以上聞けば気が狂いそうになる。

 それを言葉に乗せないように歯を食いしばり、俯きながら耐える。

「これは俺が悪いねん。せやから藤田は」

 けれど長くは持たなかった。

「ここまでのこのこやって来たんだから、最後まで黙って見てなさい!」

 伸一の言葉を遮る声は、瑞希自身が驚くほどに冷たく鋭かった。


 瑞希は意を決して立ち上がると、スカートに当てていた手を離す。

 紺がフローリングに落ち、紺色の花でも咲くように広がる。静かに広がったスカートの布が擦れる音の代わりか、背後から息を呑むような音が瑞希の耳に入る。

 紛れもなく伸一のそれだろう。

 確かな手応えに変わる。

 だから躊躇っていた胸元のボタンを外す手が、再び動き出してくれた。

 一つ外す毎にブラウスとは違う別の白が、レースの下着の黒と共にその面積を広げていく。

「も、もう、ええやろ……」

 弱々しく零れてくる伸一の言葉がまるで火をつけたように、瑞希の行動は止まることを忘れていく。


 ボタンを全て外し、振り返る。

 胸元を露にしたブラウスの白の間から覗く、大きく前に迫り出した自身の白とそれを覆い隠すレースの黒。

 それらを見せ付けるように、右手で髪をかき上げながら伸一を見下ろす。

 見知った女性が目の前で学生服を脱ぐ異様な光景を、眼下の伸一は何も言わずただ口を小さく開けながら眺めていた。

 その姿は”見惚れている”なのか、”困惑している”なのか。瑞希はぞれが前者である事を強く願った。

「止めるなんて野暮な事、しないでよ?」

 釘を刺しながら片方の白を身体から離し、そっと床に投げ捨てる。

 ボタンと床がぶつかる乾いた小さな音が一回。ブラウスが完全に手を離れた事を無言で告げる。

 瑞希を覆うものが申し訳程度の生地とそれを装飾する黒のレース、予め購入しておいた同じ柄のストッキングのみであると、彼女に自覚させる。

 透き通るように白い瑞希の肌と、我侭でいて引き締まった身体、薄手の黒い生地と肌が透けて見えるレース。

 普段隠してきた女性の面と、女性を嫌が上でも感じさせる妖艶な下着。

 黒い下着と白い肌のコントラスト。

 何もかもを対極的にして、そしてどこにも隙を作らない。

 それを意思表示として目の前の優しい臆病者に見せ付けることで、自分の本気を知らしめる。

 いつしか誘惑は本来の意味を失い、彼女自身を奮い立たせるための儀式へと変わっていた。

「……で、どう?」

 自分の全てを曝け出すその一歩手前まで、ようやく彼を追い詰めた。


 更に先へと踏み込む事に対する激情からなのか、はたまた残っていた恥ずかしさからなのか、瑞希の白い身体がかすかに赤く染まっていく。

 その赤の広がりと共に伸一の目がゆっくりと見開かれていく。

 彼も気付いている。

「白い肌に黒い下着は、くるなぁ」

 けれどやはりそれをおくびにも出さない伸一は、一筋縄ではいかない相手。

「無理してない?」

「そっくりそのまま返したるわ」

 長谷川伸一はもうゴールしてしまったんじゃないだろうか。

 絶対に捉えきると思っていた彼は、とうのとっくにゴール板を駆け抜けていたんじゃないだろうか。

 あれほど強く渦巻いていた自信や覚悟が、身体の赤まりと共に少しずつ消えていく。

「私、そんなに魅力ない?」

 灰色と青の彼女達のような逆転劇はもう、不可能なのかもしれない。

「言っとくけど、これでも緊張してるのよ?」

「ああ……藤田、震えとるもんな……」

 言いながら立ち上がりフローリングに捨てられたブラウスをそっと瑞希の肩に掛ける伸一は、やはりもうゴールしてしまっていたんだろう。

 先にゴールした相手を追いかけて何になる。いくら追い込んだところで、勝者が相手では何の意味もない。

 もう瑞希は限界だった。溜めた脚は使いきった。


 諦めにも似た感情を、瑞希は言葉と共に吐き出した。

「貴方と話すときはいつもこうだった」

 誘惑でも魅了でもない、怒涛の追い込みでもない。

「でも長谷川を失いたくないって思う私には逆らえなかった」

 ただの吐露。

「貴方といるときが一番、私が楽しいって思うときだったから」

「楽しい……なぁ。俺も藤田とアホな事やっとるときが一番楽しかったで。せやけど、この関係が一線越えて崩れていくんは嫌やねん」

 果たして一線を越えるから崩れるのだろうか。

 一線を越えなければ崩れないのだろうか。

 瑞希の頭の中にはそれだけが浮かんで消える。

 そんな疑問がが彼女に火をつけたのか、全てを諦めさせたのか。

「今日の罰ゲームの費用、ドレスは買わなかったんでしょ? 一万四千円、後で返すわ」

 瑞希自身も分からない、けれどやるべきことが見えた気がして再び足を踏み出す。

「へ? いや、藪から棒に何を言い出すねんな」

「長谷川が払った昼食代は、手数料、とでも思ってくれればいいわ」

 ここまで言って、一度大きく深呼吸する。

 伸一にも分かるほど大きく息を吸い、吐く。

 吐いた息に最後の躊躇を混ぜて、外に出しきるように。


「だからこれから日付が変わるまで、ベッドの上で私を抱きなさい」


 崩れるのかどうか、一線を越えてみなければ分からない。

 瑞希を突き動かすものはもうそれしかなかった。

「な、ななな何を言うとんねん! そないなこと出来るわけあらへんやろ!」

「決定的な一言で強制、必要かしら?」

 伸一にも伝わったろう、決定的なそれは”罰ゲーム”という言葉であることくらい。

「選択権なんてあらへんやん……せやけど、お前後悔すんのとちゃうか?」

 そもそも後悔なら、もうしているのだから構わない。

 ここまでやって『今日のことは無かった、明日からまた今までどおり』だなんて出来るわけがないのだから。

 更には自らの本気を信じてもらうためという理由をつけつつも、二千二百円で足を開こうとしている。

 ――気のない相手なら桁を二つ上げたって売らない。けれどそうじゃない相手ならお金を払ってでも


 伸一の一言に最後の踏ん切りをつけようとした瑞希は、意外な一言を耳にした。

「そんな顔すんなて」

 この期に及んでの優しすぎる一言が、瑞希を苦しめた。

 長谷川伸一とはそういう人物なのだ、そしてそんな彼に藤田瑞希は惚れたのだ、と自分に言い聞かせる。

 けれど苦しむ瑞希より先に伸一が折れた。

「分かってんねんやったら……俺も道連れになったるわ」

 そう告げる伸一の顔は、以前弓削匠が予言したように”後悔”の混じる表情だった。


 自分より目の前の男が苦しむ姿、その原因が自分にあると知った瑞希は、薄く笑うと伸一の傍まで歩み寄って、

「交渉……成立。いいわね?」

 そして悲しそうな顔をする彼の、その手を取った。

「多分……いや、絶対後悔するで?」

「もういいのよ、もう」

 勝てないレースを続けて何になるのか。

 2着以下なんていらない。欲しかったのは1着だけ。けれどもうそれは叶わない。

「後戻りなんて出来ないんだから、覚悟決めなさい?」

「多分俺も後悔するわ」

 そしてそれに伸一をも巻き込んで、自分は何がしたいのか。

 せめて勝者に、彼には快感を……。

「後悔させない」

 だがそれ自体が過ちだったと気付いたのは、伸一の手を自らの胸に触れさせたとき。


 高鳴る瑞希の心拍に反比例するような、微動だにしない伸一の手。

 自身の熱い身体と対照的な、彼の冷たい手。

 はっきりと気付いた。

 彼は女性を受け入れてくれない。

 快楽すら望んでいない、と。


 目の前の男は自分に何を望むのか、瑞希にはそれが分からなかった。


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