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第四話 誘われ惑う逃げ馬

前話あらすじ

 身体でなく内面を見る伸一に、いつしか心惹かれていた瑞希。

 伸一の彼女の座を望む瑞希の背中を、誰かがそっと押した。

 それはテンプテーションとカトリーヌ=ヴェイユ。

 淀を駆け抜けた灰色の競走馬と青い女性騎手に瑞希は自身を重ね、

 そして伸一への誘惑を実行に移すことを決意した。


「袋の中身を身に着けた私、見たくない?」

 彼女の全てを賭けた勝負が、これから始まる。


「長谷川は確かノンカロリーってダメだったわよね」

 伸一にそう聞きながら瑞希がキッチンからリビングへ戻ってくる。

 手に持つトレイには琥珀色のペットボトルと、氷の入ったグラス、そしてご丁寧にクッキーまでが載せられていた。ボトルのラベルは伸一が好むオーソドックスなそれ。

「あ、ああ。気ぃ使わんとってや」

 まさに至れり尽くせり。

 だからこそ伸一は信じられないのだ。一見何でもない友人宅でのおもてなしの先に、眼前の女性のコスプレ披露が待ち受けているなどとは。

「っちゅーか、そんなことより……」

 喫茶店で瑞希の言った言葉はただの聞き間違えだった、と結論付けかけた伸一だったが、

「それ飲んで待ってて。着替えてくるから」

 ユニットバスに向かおうとする彼女の言動がそれを強く否定した。


 ”何が”と聞かれてもきっと伸一は上手く答えられないだろう。

 ただこの状況を”危ない”以外の何で表現すれば良いのか思いつかなかった。このまま流れに乗ってしまえばきっと”危機的状況”になる。

 伸一には何ら確証の無いこの予想が、何故か酷く現実的なものに思えた。

 だから何とかそれを先に伸ばそうと、瑞希を引きとめる。

「あ……あ、あの藤田? 意図が分からへんねんけど」

「長谷川の罰ゲーム、だけど?」

 けれど瑞希相手では小手先の引き伸ばしなど通用しないだろうことも、伸一は予測していた。

 ただし彼の予想外だったのは伸一の知らない彼女の決意までもが混じっていたことだろうか。

 だからちょっとのことでは中止になどなるわけがない。もっとも、そんな事情など伸一が知るはずも無く、彼にはただ瑞希が暴走し始めているようにしか思えなかったのだが。

「俺が苦悩してんのを見て楽しむっちゅーのは分かるねん。けどお前、もしその紙袋の中にし、し、下着が入っとったらどないするつもりやねん!」

「長谷川の好みが下着だって自分で証明したことになるんじゃない?」

「お、お前は恥ずかしゅうないんか!」

「ないわよ? 下着だったらお店で長谷川も見たじゃない。それに下着じゃなければ体操服に学校指定水着だもの」

 しかしながら瑞希の言葉は暴走とは似ても似つかないほど冷めたもので、声質もまた普段と全く変わらない。

 伸一は思った。

「……さ、さよか」

 何を言ってももう瑞希を止めることは出来そうにない、と。

「心の準備なら着替えてる間にして頂戴。いいわね?」

 突き放すように言い残し、足早にユニットバスへ消える瑞希。

 その手にはしっかり、伸一から受け取った紙袋が握られていた。


 言われたとおり、伸一は覚悟を決めるしかない。

 逃げるという選択肢があれば、そもそもここへ来ることも無かったのだから。

 意味不明な言動を残し着替えに行った藤田瑞希。

 部屋主がユニットバスへ消え、残されたのは”主賓”である長谷川伸一。

 伸一が今居る場所は瑞希のアパートである。

 シンプルを好む彼女らしいモノトーンで統一された装飾のない瑞希の部屋だったが、初めて踏み入れた場所なのに予想外に落ち着くのは伸一の好みと合致していたからだろう。

 本棚には彼女と弓削匠が専攻する薬学部のテキストや専門書などが並び、その横に積み上げられたCDはジャズやクラシックばかり。藤田瑞希も女性、もしかすると部屋は可愛らしい装飾で包まれているかも、と思った伸一だったがそれは裏切られた。大き目の姿見こそあったものの、瑞希の部屋には一切の女性らしさが見当たらなかった。

 けれど伸一が唯一、実に瑞希らしくそれでいて女性らしさを感じた物があった。

 低めのPCデスクの上に置かれた週刊競馬雑誌の上にポツンと佇むぬいぐるみ。バレーボールよりやや小さい灰色のそれには、首から赤いレイが掛けられている。そう、競走馬のぬいぐるみ。そして伸一にはその競走馬の名前が分かる。

 間違いなくそれはテンプテーション号だった。

 そしてその灰色のぬいぐるみまでもが部屋のモノトーンと絶妙にマッチしている偶然に、伸一は思わず苦笑する。

 ――俺の知っとる藤田瑞希は、この部屋の主で間違いあらへんな

 そんな女性らしさの見当たらない瑞希らしい部屋の中で、水滴に塗れたグラスを前に伸一は思った。

 ――せやったら、風呂に消えてったあいつは誰やねん……

 伸一の頭に浮かぶのは結局この疑問だけだった。


 喫茶店で瑞希がそうだったように、伸一はグラスを見つめながら悩みはじめた。

 奇しくも彼女と同じ、琥珀色の液体が入ったグラスと灰色の競走馬の、その前で。


 確かに瑞希は伸一をからかうのが好きな奴だ。それは被害者自身が一番よく理解している。

 けれど今日のこれは度が過ぎている上に、彼女自身が身を切り刻んでまでするほどの価値があるとは到底思えない。一歩間違って伸一の理性が飛べば一番傷つくのは間違いなく瑞希なのだから。

 勿論伸一にだって理性はある。女性を見せない瑞希との今までの間柄は何物にも変えがたいからこそ、より強く理性が働く。この関係を壊したくない。

 確かに瑞希は安全かもしれない。それは誰でもない伸一自身がそう思ってもいる。

 ――せやけど……なぁ

 瑞希が取る行動の危険性を彼女は理解しているのか。

 瑞希は男の持つ理性をどこまで理解しているのか。

 そもそも、何故こんな行動を取るのか。

 疑問が疑問を生み、不可解が不可解を作り出す。

 それらが混じりあい新たな何かが生まれ、そして打ち消しあう。

 伸一の頭にはいつしか不敵に笑う瑞希の顔だけが浮かび、そして消えては浮かんでいく。


 そんな自分を灰色のぬいぐるみがじっと見ているような気がして……、

 ――そもそもの原因はお前やっちゅーねん

 伸一は「彼女」の顔をそっと壁に向けた。



「そんなにテンプテーションが嫌いなの?」

 渦を巻いていた瑞希の顔がしっかり元の形を取り戻していく。いや、頭の中のそれではなく、目の前の女性の顔がそれなのだ。

 不敵に笑う顔は伸一の頭の中にあるのではなく、今目の前にあるのだ。

 窮屈そうな体操服を着て。

「確かにブルマって下着みたいね」

 そして目の前の女性が放つ表現しがたい妖しさに、伸一はいつになく戸惑いを覚えた。

「どう?」

 そう言いながら瑞希は両腕で豊かな胸を下から支えるような姿勢で、彼女の我侭を伸一に見せ付ける。

 キャミソールにミニスカートという普段とは違う瑞希を去年の夏に一度限り見た伸一は、これを知っている。

 記憶の中に焼き付けられたあの艶かしい瑞希の我侭な身体が、今一度目の前に現れたのだ。


 一本芯の入った姿勢が強調するのは「何を食うたらそないに大きなるねん」と言うほどの胸。

 普段と違いサイズの合っていない体操服の上着には、大きな胸が作り出すラインがくっきりと浮かび上がる。いや、胸だけでなく上半身全体のラインと言ってもいいのかもしれない。ぴったり張り付いた体操服が瑞希のプロポーションを伸一の前に曝け出していた。

 そんな我侭に張り出した胸とは対照的に、上着の丈が短くて隠しきれていないウエストラインが引っ込むべきところは引っ込んでいることを証明する。キャミソールで発覚した予想以上のくびれが十ヶ月のブランクを経て再び伸一の前に姿を見せる。

 更には緩やかでいてメリハリのついた扇情的なラインの到達地点には、紺色のブルマが待ち受けていた。上着と同じく張り付いたそれが、彼女の丸みや柔らかさを強烈に印象付ける。ピッタリと張り付くブルマの紺とそこから下へ伸びていく白い生足は、二色のコントラストとなり互いを強調しあう。


 ――藤田の身体つきでピチピチの体操服て、男を誘惑しとるようなもんやで……

 目の前にある我侭な瑞希は、かつて見たそれとは比べ物にならないほど我侭で、妖艶さを持っていた。

「聞いてる?」

 サイズが合っていないのは意図的なのか違うのか、伸一には分からない。だがこれだけは言える。

「その服は反則やで。なんやろ、妙にえろいわ」

 それは伸一が感じた素直な感想だった。

「ムラっと、きた?」

「きた。結構きとる」

 ――こんなもん、ムラっとこーへん方がおかしいやろ……

「と言うことは、伸一の好みはブルマ?」

 伸一は声高に否定する。断じてそうじゃないと。

「な、なんでやねん! 俺の好みって勝手に決め付けんといて欲しいわ!」

「でもムラっときたんでしょ?」

「強いて言うなら服がえろいんとちゃうねん。藤田の身体がえろいねん」

 そう。明らかに小さいサイズのそれを着て、普段以上に身体のラインを露にする瑞希自体が刺激的過ぎるのだ。

「わ、わ私はえろくないわよ!」

 今着ているその扇情的な服には一切恥じらいを見せなかった瑞希が、何故か”えろい”と言う単語に過度の反応を見せる。

 それはまさに恥じらいから生じた動揺であることに伸一は気付かない。

「私の身体は、ど、どどうでも良いのよ! 次!」

「まだやるんかいな……」

 恥ずかしがりながらもこの意味不明なコスプレショーは続ける瑞希に、呆れながら言った伸一。

 だが更に着替えを敢行する瑞希が何にそこまで恥じらいを感じたのか、結局伸一がそれを断定するには至らなかった。


 腑に落ちず瑞希をじっと眺めていた伸一は、しかし彼女が取った次なる行動に思わず叫んで止めざるを得なくなった。

「あかんあかん! 今着てるそれでも十分『キてる』って!」

 何故なら。

 ――その身体でそのスクール水着は男を殺せる! この空気なら断言したってもええ!

 体操服をまくしあげた瑞希の上半身には、今まで以上に窮屈そうなスクール水着で浮き彫りになった悩ましいラインが待ち受けていたから。

「しかも何で目の前で脱いどるねん!」

 更には伸一の眼前で着替えようとする瑞希の行動そのものが危険だった。

 白旗が無駄だと理解していてもそれえを振るしかない時がある。今がまさにその時。

 伸一はこれ以上ないほどに情けない顔で瑞希に土下座しながら鑑賞会の中止を頼み込んだ。

「藤田! もう勘弁してーな!」

 けれどやっぱり無駄なのだ、瑞希には。

「ダメよ長谷川」

 不敵に笑う瑞希が次に発する言葉を、伸一はそろそろ予測できるようになった。

「罰ゲーム、っていうんやろ?」

「分かってるんじゃない。だったら黙って見てなさい」

 その言葉と同時に体操服を、何故か今度は下から脱ぎ始めた。

 瑞希の、まずは足の付け根辺りが作るラインに悩殺される。

 せめてこの時間だけは免れんと視線を上にあげると、口元を吊り上た瑞希が悪魔の微笑を作り迎えた。

「見なさい」

 あまりの理不尽さに声を失う伸一に見せ付けるように、そしてその微笑を体操着で隠すように、休む間もなく体操服の上着も脱いでいく。

 瑞希はごく短い時間すら伸一から奪い去った。


 危ないと分かっていても目を逸らすことすら許されない。瑞希が服を脱ぐ姿を見なければならない。それだけならまだしも、体操服を脱ぐ瑞希は伸一から決して目を離さない。

 それが伸一には艶かしかった。

 ――監視するんはええけど、その行動の危なさを藤田は認識しとるんかいな……

 躊躇いもなく体操服を床に脱ぎ捨てた瑞希に、伸一は完全に翻弄されていた。


 一分もしないうちに白い肌の瑞希に紺の水着と言う、先ほど以上の強烈な色を持つ存在が現れる。

 はちきれんばかりの彼女の身体を、食い込むそれが強烈なまでに色づける。

 分かりやすい言葉を使うなら、ぴっちぴち、だったのだ。

 けれど人間とは追い込まれれば追い込まれるほど、的違いでありながらも冷静な返事を返せるのだろうか。

 伸一が無意識に口にした言葉は伸一自身にも意外な、けれど自分を褒めたくなるほどに無難なものだった。

「サイズおうてへんみたいやけど、それ選んだん俺とちゃうで?」



 時は少しばかり遡る。

 喫茶店で瑞希が「彼女達」から激励を受けていた頃、伸一は再びコスプレショップに足を踏み入れていた。

 伸一はそこで手痛い一杯を喫する。

 店の店員らしき人物が即座に伸一を捕まえ、そして言ったのだ。

「お連れ様の衣装、取り置きしておりますので。こちらへどうぞ」

 いちいちサイズの心配をする必要も、手にとって確認する手間や辱めもない事には喜びを感じるものの、瑞希がここへやってくることを見透かしていたようで、伸一は少し苛立った。

 ――絶対に一矢報いたるからな!

 そう心に決めた伸一の行動は、二度と近づくまいと決めたあの場所へ足を向けさせた。

 だが……。

「長谷川伸一様でございますね? 藤田瑞希様のご予約の品はこちらでございます」

 ”Angelique”で伸一は二度目の敗北を喫した。

 ――な、なんやねん! 見透かしとったんやのうて、どっちも手配しったんかいな!

 瑞希が伸一を先に店外へ出していた理由がようやく明らかになった。

 彼女は選んだ品を取り置きしてもらうため、それを伸一に隠して罰ゲームとするためにわざわざあんなことをしていたのだ。

 ――こんなもん勝てるわけあらへんやないか!

 などと伸一が気付いたときにはもう遅かった。

 既に二着のコスプレと黒い下着を一セット、包装までしてもらい購入したあとだったのだから。


 つまり今彼女が着ている水着も、ついさっきまで着ていた体操服も、厳密には瑞希自身が選んだ品。

 だから体操服がキツ目だろうがスクール水着が食い込んでいようが、そこに伸一の思惑など何一つ存在しない。

 故に彼に罪は無い。

「仕方ないわよ。これでも身体に合うサイズを選んだつもりよ?」

 そしてどうやら彼女にも罪は無いらしい。

 もっともこちらに関してはあくまでも”サイズ”に限った話だが。



「それで、どうなの?」

「サイズが合うてへんから、よりえろい」

「目の保養になるんじゃない?」

「そういうのんって普通、自分で言うか?」

「でも仕方ないのよ。ホントにこれが一番大きなサイズだったんだから」

 いかがわしさなどまるで感じない会話は、その裏に確実な違和感が存在していた。

 やり取りがいつも通りだからこそ、窮屈そうなスクール水着を着た瑞希が伸一の前に仁王立ちするこの空間の異様さがより際たっていたのだ。

「で、どう?」

 それと同様に、瑞希の質問の異質さも特筆ものだ。

「えろいよ、うん」

 唯一まともに思われる伸一の返答が「えろい」であることからもその異常さが窺える。

「ムラっと――」

「きとるわ。せやけど」

 瑞希はどうしてこんな事をするのか、何故自分を誘うような真似をしてくるのか。

「まだ足りないわけね?」

 そう問いただそうと伸一を瑞希の言葉が遮る。

「ちゃうちゃう! そうやのうて」

 何故、どうして。そう聞こうとした伸一だったが、瑞希の行動がより早かった。

「着替えてくるから少し待ってなさい」

 再びユニットバスへ消えていく瑞希を伸一は声を振り絞り止めた。

「ええかげんにせぇ!」

 部屋に響く伸一の声に、瑞希もその足を止めざるを得なかった。

「す、すまん……せやけど、そろそろ……ええやろ?」

 弱気な発言ながらも伸一の目は今までになく力強く真剣なものだった。

「理由を教えてくれても……ええんとちゃうか?」

 それを見た瑞希は根負けしたように溜息を履きながら、短く一言返事を返す。

「分かった。着替えてくるから待ってて」

「変な服はもうやめてや? 表を歩けるような服にしてくれんとあかんで?」

「分かったわ」

 短く、けれどハッキリとしたその口調に、伸一もようやく人心地つきながら瑞希を労わった。

「なんやよー分からんけどやな、ちょっと真面目に話しようや。怒らへんさかい」

 柔らかい伸一の言葉に、瑞希は小さく頷いてユニットバスへ消えた。


 けれど伸一の安堵などどこ吹く風、瑞希は決して諦めてなどいない。

 彼女の溜めに溜めてきた”強烈な末脚”は既に、瑞希自身の部屋という名の”直線”で繰り出されていたのだから。


 数分後、伸一もそれを嫌というほど痛感することになる。


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