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第三話 三つの選択肢

前話あらすじ

 何を聞いても「罰ゲーム」としか答えない瑞希。

 腑に落ちない伸一に無慈悲な罰ゲームは続いた。

 舞台をコスプレショップや女性下着販売店に移す瑞希に、振り回されっぱなしの伸一。

 そこでまたしても心身ともに辱めを受けた伸一は、ようやく罰ゲームの真意に気付く。


 けれど彼は、瑞希の本当の企みにまでは、未だに気付いていなかった。


 コスプレショップに続き、伸一から少し遅れて手ぶらで店外へ出てきた瑞希。

 先の店と同様下着専門店でも何一つ購入しなかった瑞希に違和感を感じつつも、辱めから解き放たれた安心感からか伸一は素直に喜んだ。

「藤田、もう堪忍してぇな」

 そして泣きついた。

「分かってるわよ。今ので店巡りは最後だから安心しなさい」

 今度こそ瑞希に本当の慈愛の心を垣間見た伸一だったが、疲れていなければそんな馬鹿な考えなど捨てていただろう。


 二人がウインドウショッピングを終え、駅前の喫茶店で休憩を取ったのは午後四時過ぎ。

 待ち合わせの十一時から既に五時間が経過したが、いまだ罰ゲームらしい出来事はない。羞恥プレイを除けば。

 少し落とされた照明に、流れるジャズ。洒落ていて落ち着いた喫茶店の雰囲気に伸一は人心地つく。

 そして乾ききった喉を琥珀色の炭酸が通過し、弾ける刺激が伸一に生きて帰ってきたことを実感させた。

 食事の一時間を除きこの四時間、本当に地獄を味わった伸一だったが、今ようやく命の素晴らしさを痛感するのだった。

 一口目は味がしなかったのは気のせいだ、疲れていたからだ、と心の中で復唱する伸一の束の間の安息は、けれどすぐに奪われた。


「それじゃ長谷川、そろそろ本題に入るわよ」

 瑞希は湯気の立つミルクティを片手に、口元を片方だけ吊り上げながら意味深に笑う。

 酷く優雅な悪魔の微笑を目の前に、伸一はかなり酷い罰ゲームを予想していた。羞恥で固められた今までが今までだっただけにそれも無理はない。

「今から言う"私の欲しい物"三つの中から、どれか一つを長谷川が買って私にプレゼントして頂戴」

 がしかし、ここにきて"物をおごる"などというありきたりな罰ゲームは意外であった。

 だからあまりに大きな落差に安堵の溜息を漏らし、伸一は軽く返事をした。してしまった。

「三万で足りるもんにしてや?」

 伸一は気付かなかったのだ。

「そんなこと分かってるわよ。長谷川の手が届く物にしてあるから安心しなさい」

 罰ゲームの軽さに隠された瑞希の思惑に。

「そもそも今までのウインドウショッピングは何の為やってん。初めっからそう言うてくれりゃあんな恥かかんで済んだのに、嫌がらせやん」

「罰ゲームだもの」

 瑞希がまた罰ゲームを免罪符に会話を中断した。

 その程度にしか思っていなかった伸一は甘かった。

「……さよか」

 たった三文字で返事を済ませた伸一は、後悔するほどに甘かったのだ。


「じゃ、一つ目」

 不敵な笑みを更に強め、瑞希は口にした。

「デパートにあったウェディングドレス」

「アホ言うな! あないに高いもん誰が買えるねん!」

 喫茶店の客がこちらを振り向くのもお構いなしに、伸一は大きな声で突っぱねた。

「七万二千円のなら手が届くんじゃない?」

 それを窘めようともしない瑞希。

「お前……なに考えとんねん……」

 伸一の頭に、格安のドレスとそれを手にした瑞希の落ち込む顔が思い浮かんだ。

 七万円を越えるドレスに手が出せない伸一を、ガッカリしながらも気遣って見せた瑞希。

 思い出せば思い出すほどに瑞希へ申し訳ない気持ちを抱いてしまう伸一。

 ――買えるなら買ってやりたいわ……せやけど

 買えないものは買えないのだから仕方がない。譲り合っても気を遣い合っても、話は進まない。

 残りの二つのどちらかでフォローすればいいのだ。

 だから。

「三万でええって言うたやんけ!」

 伸一はドレスという選択肢を声高に否定した。

 瑞希に対する複雑な気持ちを振り切るように。


「それじゃ二つ目」

 少しばかり寂しそうな表情を浮かべたものの、瑞希はそれを隠すように二つ目の選択肢を提示する。

「コスプレのお店で売ってた体操服のセットとスクール水着」

 寂しがる瑞希に一瞬でも同情した伸一は、数秒前の自分に激しく後悔し、そして即答した。

「アホか、無理やって! 絶対に無理やから!」

 伸一の即答が一つ目の選択肢と同じなら、それに対する瑞希の返答もまた同じ。

「全部で一万円にも満たないし、買えるでしょ?」

 当然ながら騒ぎ立てる二人、特に大声で叫ぶ伸一には喫茶店の視線が集中していた。

 しかし額に一筋の汗を浮かべながら目を見開いて否定する伸一はそれどころではない。晒し者になる以上に財布と矜持が危機に晒されたこの現状こそが最も危険なのだから。

 そして目の前で騒ぐ伸一をさ然もありなんと言わんばかりの表情で、けれど慈悲などかけない瑞希もまた、伸一の連れという理由から周囲の視線を集めていた。別の事情から周りを気にする余裕などない瑞希が気付くはずもないのだが。

 そもそも周りを顧みない彼らのやり取りは、ここにいない匠が見れば「またかよ……」と溜息をつくような恒例行事。そして匠というストッパーが居ない喫茶店は、手の付けられない無法地帯と化しはじめた。

「値段はクリア出来ても、あないな店で買い物する勇気はあらへんわ!」

 伸一の言い分は当然。あのコスプレショップには二度と足を運ぶことはないだろうとすら思っていた、いや思おうとしたくらいに、彼は辱められたのだから。

「店内に足を踏み入れたんだもの。一度も二度も同じよ」

 二度、と言う言葉に伸一はふと思い当たった。

 ――にしても藤田の言う欲しいもんって……なんちゅーかさっきの店巡りと一致しとらへんか?

 伸一の予想が正しければ、三つ目の選択肢は今までの二つ以上に厳しいものとなるはずだ。

 先ほどまで居た店の商品を買えなどと言う選択肢であれば、ドレスを買った方がまだマシだと思えるほどに。

「なぁ藤田。ちょっと聞いてええか?」

 伸一の額に浮かんだ汗は言うまでもなく冷や汗である。でなければ脂汗だ。


「三つ目」

「いやその前にや、俺の質問をやな」

 そんな伸一のささやかな抵抗など、瑞希の前では無力としか言いようがない。

「ブラとショーツとガーターベルト」

「ほらきた、無理! 根本的に無理!」

 やはり予想通りの選択肢に即答も即答、完全な否定で返してみせる伸一。

 伸一にとってコスプレショップが"もう足を踏み入れることはないだろう"場所なら、下着専門店は"半径五十メートル以内には近づきたくもない"場所である。

 そんな場所で下着のセットを、それも隠す気があるのかすら疑わしいような過激なそれなど買えるはずもない。無論、紐よりマシだなどと思えるはずもない。

「あれもダメこれもダメじゃ、話にならないわよ?」

 けれど瑞希が譲るはずもない、これも事実だった。

「他に選択肢はあら」

「今の三つ」

 さきほどの伸一をはるかに上回る早さで即答する瑞希。

 彼女が放つ得も言われぬ迫力は、伸一を三択以外の道へ逃さない。

「そないなもん出来るわけあらへんやないか!」

 それでも抵抗を続ける伸一だったが、更なる一言で諦めざるを得なくなった。

「出来そうにない事をさせるから罰ゲームなんじゃないの」

 ”罰ゲーム”

 この言葉の重要さにもっと早く気付くべきだった。瑞希の免罪符にもっと鋭く探りを入れるべきだった。それ自体をもっと警戒するべきだった。

 そう後悔しても後の祭り。

 雰囲気だけでなく言葉でまで逃げ道をふさがれ、伸一には過酷な三択だけが残された。

 それ以外を選ぶことは許さない。瑞希の言動がそう物語っていた。

「くっそ……」

 両手を握り締め、伸一は目の前にあるコーラの入ったグラスを見つめ、悩む。

「あ、言うの忘れてたわね。プレゼントなんだから当然長谷川がレジまで持って行ってラッピングしてもらうのよ? 私はここで待ってるからそのつもりでお願いね」

 一人だけで店に足を踏み入れ、そしてレジへそれを持っていき、挙句にはプレゼント用に包装してもらわなければならない。

 今になって思い直せば一つ目の選択肢であるウエディングドレスは異質。ハードルの低さが異常だったのだ。

「店に行くだけや飽き足らへんで、変態になれっちゅーんかいな!」

 伸一は思わず「そうなるくらいならウエディングドレスの方がマシ」とまで言いかけた。

 それほどまでに一つ目の選択肢が放つ気楽さや気軽さは魅力的なものだった。

 ――いや……藤田の事や、これはこれでドレスにもなんや隠された悪巧みがあるねんやろ

 しかし何とか思いとどまる伸一に、初めての慈悲が掛けられた。

「可哀想だから、ギブアップも許してあげるわよ?」

 不敵な笑みを一段と強めながら瑞希が言ったのと同時に、琥珀色の液体を湛えたグラスに残る解けた氷が小さく音を立てて崩れる。

 目の前の彼女の表情にかすかな愁いを感じ取ったのは、耳心地の良い音が伸一の頭を一瞬クリアにしたからだろうか。

「長谷川伸一、死んでもギブアップなんてせーへんわ! よぉ見とれやぁ!」

 降参する悔しさ以上に、瑞希の中に見た寂しさを気にして、伸一は一世一代の賭けに出るため喫茶店を飛び出した。


    * * *


 瑞希は伸一が残していった目の前のグラスをじっと眺めていた。

 ――伸一は何時もコーラね……子供みたい

 そんな一面を隠そうともしない伸一を馬鹿にしたことは一度も無い。むしろ包み隠そうとしない伸一に好意すら抱くほど。

 声を震わせて叫び、伸一が喫茶店から出て行ってからどれ位経ったろうか。

 グラスの中には氷が溶け切り完全に薄まってしまった琥珀色の液体。それが伸一が出ていってから随分と時間が経過したことを瑞希に教える。

 何の為に伸一がここを離れたのかを改めて思い出し、そして自らの言動を思い出して赤面する。

 ――我ながら思いきったことをしたわね……でもまだ終わらないわよ


 外の景色を眺め、再び視線をグラスへ戻すとそこに伸一が思い浮かぶ。

 笑う伸一を思い浮かべてしまうと、瑞希の決意は確実に鈍っていく。

 だから、それを外の景色で流し去る、笑顔以外の伸一が思い浮かぶまで。

 けれどグラスに浮かび上がる伸一の顔は、どんなに流し去ろうとしても笑顔ばかり。

 瑞希の決意を崩し始めるその笑顔は、瑞希が今何よりも求める笑顔だった。

 伸一との間に築き上がった現在の関係は、男女の垣根を越えた"親友"。

 元々は自分を異性として捉えない伸一だからこそ、居場所を見つけたと喜んだのだ。自分を好色の目で見ない男性がどれほど貴重な存在だったか。

 けれどよりによって惚れてしまうだなんて、こんな事なら近づかなければ良かったと後悔してももう遅い。

 年甲斐もなくコーラなんて頼む伸一に、からかうとすぐに怒る伸一に、性別の垣根を越えたからこそ伸一に、いつの間にか淡い感情を抱いてしまったのだから。


 けれど手放しがたい今の関係を、これから瑞希は壊そうとしている。

 瑞希が求める一歩先の関係、それは恋人同士。伸一は望むのだろうか。伸一は受け入れてくれるのだろうか。

 これから次第ではもしかすると現在よりも後退するかもしれない。そうなったとき、今よりも希薄になってしまう繋がりを、自分は受け入れられるのだろうか。

 瑞希の頭の中に多くの疑問が浮かび、膨らんで、弾けるように消えていく。

「一歩先の関係、このまま、気まずくなる。か」

 皮肉にも伸一へ課した三択に勝るとも劣らない三つの選択肢が知らず知らずの内に自らの前に、それも恐らく随分と前から現れていたことに、瑞希は寂しく笑うしかなかった。


 答えのない思案を続けていた瑞希の横を、スーツを着たサラリーマンらしき男性が通り過ぎた。

 選ぶ事を躊躇う三つの選択肢から一瞬なりとも解放された瑞希は、再び頭にちらつき出した三択を流し去ろうと、その背中を見つめ目の前の出来事に何とか食らいつこうともがいた。

 ――連休最後なのにお仕事なんて大変ね……

 全くどうでもいい感想で三択を、

 ――仕事なのに喫茶店? 叱られないのかしら……

 何の意味もない感想でこの先の展開を流し去ろうと。

 きっと建設的じゃない、けれどそれで構わなかった。

 頭の中の伸一に向ける感想よりも、瑞希にとっては何百倍も気楽だったから。

 離れた席に座ったスーツの男性はウエイトレスに何か注文し、テーブルに捨て置かれた新聞を手に取り広げた。

 彼が広げたのは今朝の朝刊だろうか。祝日の翌日は新聞の休刊日だったろうか。ではあれはスポーツ新聞だろうか。瑞希は目の前の出来事だけに集中してとにかく感想を並べ、頭の中でそれを膨らませ伸一のことを除外していった。


 そんな瑞希に再び救いの女神達が現れる。


  淀を誘惑、魔女ヴェイユ!

  ターフを切り裂いた女王様!


 男性が広げた新聞の一面を飾る「彼女達」が、遠くから瑞希の目に飛び込んできたのだ。

 今朝待ち合わせの場所へ向かう途中、ヴェイユやテンプテーションを大きく書き飾ったスポーツ新聞が駅のキオスクにも並んでいた。マジック炸裂、魅了魔術、魔女の衝動、ありとあらゆる新聞の一面が彼女達だった。

 "テンプテーション"と"カトリーヌ=ヴェイユ"が、紛れもなく瑞希の背中を後押ししていた。

 折れそうになった瑞希を、今再び「彼女達」が後押しせんと眼前に現れた。

 瑞希は思い出し、定期入れから取り出して食い入るようにそれを見つめる。

 四角で囲まれた"7"という数字、その横にはテンプテーションの文字。

 昨日の天皇賞の勝ち馬投票券。

 瑞希が思いを託したテンプテーションの単勝馬券だった。

 ――今思えば、7番ってラッキーセブン……なんてね

 たった一枚の馬券の全てが自分に味方しはじめたようにすら思えて、瑞希は昨日に続き「彼女達」に感謝する。

 見れば見るほど、思い出せば思い出すほど、瑞希の中に強い意志が蘇っていく。

 ――もう少しだけ見守ってて、ね

 再び強くなる決意を感じ取り、瑞希はその馬券を定期入れへと戻した。



 汗だくになった伸一が紙袋を持って瑞希の元へ戻ってきたのは、それから一時間後。

「随分と掛かったわね」

「うっさいわ!」

 受け取る側も流石に気恥ずかしいそのプレゼントを、伸一は憮然とした表情で瑞希へ渡す。

 瑞希はそれを手にしたあと、中身を確認せずウエイトレスにコーラを注文した。おしぼりで顔を拭きながら「おおきに」と汗を拭いた後脱力しながら椅子にもたれかかる伸一をじっと見つめた後、瑞希は決心したかのように紙袋の中をようやく確認する。

 青白の縞模様の紙で丁寧にラッピングされ赤いリボンが控えめに巻かれた包み。大きさや形からしてウエディングドレスではない。となれば中身はコスチュームか下着。

 大きさから言って恐らくコスチュームだろう、つまり――。

「長谷川の好みがこの袋に詰まってる、って思って良いのよね?」

「なんでやねん!」

 口の端を吊り上げながら伸一をからかう瑞希はもう、挫けそうになっていた一時間前の瑞希ではなかった。

 けれど恥ずかしい事に変わりはない、中身が中身なだけになおさらだ。そしてこの後の展開は衣装を受け取る以上に恥ずかしい。

 ――でも、これで終わったら何の意味もない。そう、本題はこれからよ

 灰色の誘惑とフランス令嬢に、一時間前、瑞希は自身を重ねて決意したのだ。

 今までじっくり溜めてきた何かを、彼女達のように爆発させるのだと。


「ねぇ……長谷川、この後時間ある?」

「まだ何か買わせるっちゅーんかぃ! もう買ったるようなもんも持ち合わせも、いーっさいあらへんからな!」

「そうじゃないわ」

 瑞希の頭の中に京都競馬場の第三コーナー"淀の坂"を駆け下りる芦毛の競走馬と青一色の騎手が浮かぶ。

 激しく手を動かすヴェイユがテンプテーションを大外に振って、一気に前を捉えんとするあの姿が。

「折角お金を出して買ったんだから袋の中身を楽しむ権利、長谷川にもあると思うんだけど」

「へ? 楽しむ? 男の俺がそんなもん着たって楽しいことなんてあらへんわ」

「そうじゃなくて……」

「なんやねんな、せやったらどうやって俺が楽しむねんな」

 逃げる本命馬に伸一を重ね、灰色の牝馬に自身を重ね、瑞希は追う。

 ゆっくりと、けれど確実に。

 一歩ずつ。


「袋の中身を身に着けた私、見たくない?」


 伸一を捉えるために。

 身体を武器にしてでも。

「え?」

「見たかったらそれ持ってついてきて」

「ふ、藤田?」


 レシートを片手にレジへ向かう瑞希は、引き返せない一歩を自らの意思で踏み出した。


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