Spin off 彼女と彼の天皇賞(上)
再度確認します。
競馬に興味のない方は苦痛でしかないかと思います。
なので引き返すなら今のうちです。
勿論えろすも皆無です。ただただ競馬のお話が続きます。
それでもよろしければどうぞ。
とある日、とある場所で交わされた一つの約束。
『天皇賞に負けた方が今――の――するのよ? 勿論――も敗者持ちで。良いわね?』
『あ……ああ。分かった』
それは二人の間に交わされた……大人の約束事。
* * *
茶色や黒や灰色の競走馬が萌黄色の絨毯の上を土煙をあげて疾走する。
その背中には色鮮やかな勝負服に身を包み、赤や黄色のヘルメットを被った騎手たち。
彼らを見守る十二万人の観衆がスタンドを黒一色に染め上げる。
緑のターフを競走馬が駆け抜けるここは、京都府京都市伏見区にある京都競馬場。
通称”淀”。
今年も伝統の一戦が、新緑溢れる春の淀を舞台に繰り広げられていた。
一周目の正面スタンド前を、十七頭を従えながら軽快に逃げる白い帽子。
そこから五馬身ほど離れた七番手辺りを走る競走馬に京都競馬場十二万人の観衆が、そしてテレビの前の何百万というファンが注目する。額から鼻へかけてに白い筋の入った鹿毛の競走馬こそが、単勝4.7倍とこのレース一番人気に推された本命馬。
6枠11番、ハネダクラウン。
昨年の日本ダービーと皐月賞を制し、前走である産経大阪杯も圧倒的な人気に応え圧勝したハネダクラウン。
そして彼に跨るのは黄色と黒の縦縞模様の勝負服、腕には二本の青い帯が描かれ、そしてターフと同じ緑の帽子。
滝沢昇。
日本が誇る天才騎手であり、幾多の金字塔を打ち立て今も尚頂点に君臨しつづけるトップジョッキー。ハネダクラウンのデビューから今日に至るまで手綱を取る、まさにハネダクラウンの最良たるバートナーが滝沢だった。
――疾風は今日も俺をマークか。熱心な奴だ。カトリーヌは……一番後ろだろうな
疾風、カトリーヌと言う自分達の後方に控える両者をしっかりと意識し、天才滝沢はレースを進めていた。
そして滝沢の意識どおり、今日もハネダクラウンを二馬身後方からピッタリマークするのは疾風達。
本命馬ハネダクラウンに幾度となく苦汁を舐めさせられ、今日こそは一矢報いんとする黒鹿毛の対抗馬は、単勝5.5倍の二番人気。
8枠16番スプリングノベル。
ハネダクラウンと同じ年に生まれ、そして同じレースを駆け、そして敗れ続けたスプリングノベル。稀に先着することがあればその時は、ハネダクラウンとは別の競走馬に一着をさらわれ、G1レースで集めた銀メダルは既に四つ。まさにシルバーコレクター、それがスプリングノベルだった。
それは競走馬に限らず、白地に両肩から襷をかけるように赤いラインが×印を描く勝負服に身を包む騎手にしても同じこと。
弱冠二十歳の若手注目騎手、藤北疾風。
デビュー前から彼が惚れこんだ逸材こそがスプリングノベルであり、藤北と同じく競馬界に身を置く父の依頼を蹴ってまでこのスプリングノベルを選び続けた。そして結果は、父が管理するハネダクラウンに苦渋を舐めさせられ続けたのだ。
――昇さん、親父! 今日こそ俺が春を告げてみせるっス!
しかし、そんな泥に塗れた日々もきっと今日で終わるはず。勝負服に描かれた赤の両襷が今日こそ、スプリングの名に相応しくこの淀に少し遅い春の訪れを告げるのだと、藤北疾風はいつになくスプリングノベルから手応えを感じ、そう確信していた。
滝沢が意識したもう一人、カトリーヌはどこにいるのか。
ハネダクラウンとスプリングノベル、その二頭を含めた全十七頭を視界に捉え、最後方を進む競走馬。灰白色に鉛のような黒い斑が混じる芦毛の小柄な牝馬。その手綱を取る一目で女性と分かる外国人騎手こそが、滝沢が恐れたカトリーヌだった。
今日もポツンと最後方から虎視眈々と前を窺う、前哨戦である阪神大賞典で二着に食い込み距離が伸びるほど強くなる実績から本日三番人気に推された牝馬。
単勝13.9倍、4枠7番テンプテーション。
背中跨るのはフランス人女性騎手、真っ青な勝負服に青い帽子、青一色に染まったカトリーヌ=ヴェイユ。
昨年の秋、エリザベス女王杯で豪快な追い込み勝ちを見せて以来、テンプテーションの手綱はカトリーヌに任された。ただしカトリーヌには年間を通してテンプテーションには乗れない彼女ならではの事情がある。
――牝馬だからって油断してると痛い目に逢うわよ
人馬共に紅一点。
数少ない騎乗の機会を無様なレースで無駄にしたくないカトリーヌと、ようやく見つけた自分らしい競馬に生涯最高のテンションで挑むテンプテーション。
芦毛の牝馬と青い外国人騎手もまた、この一戦に並々ならぬ気合を入れていた。
五月五日。
日曜と重なったこどもの日。
十二万人の大観衆が集うここ京都競馬場。
長距離王者を決める伝統の一戦”春の天皇賞”は、今まさに佳境を迎えようとしていた。
距離に不安を抱える本命馬ハネダクラウンを騙し騙し走らせる、天才滝沢昇。
本命馬の不安を知り今日こそがリベンジの機会と意気込む、若手藤北疾風。
紅一点ながらこの絶好の舞台こそが自分達に与えられた最高のチャンスと自負する、外国人女性騎手カトリーヌ=ヴェイユ。
天皇賞は春と秋、年に二回行われる。
春はこの京都競馬場を舞台に、三千二百メートルという日本で一番長い距離のG1レースとして、文字通り長距離王決定戦の位置づけがなされている。
そして秋は東京競馬場の二千メートル。春から千二百メートルの距離短縮がなされ、こちらは中距離ナンバーワン決定戦の位置づけ。
競走馬にとってこの千二百メートルの距離の差は大きく、特にハネダクラウンとテンプテーションにはまさに距離の壁として立ちはだかっている。本命ハネダクラウンに三千二百は長すぎ、テンプテーションにとって二千はやや短い。
その両方でポテンシャルを遺憾なく発揮出来る競走馬は、その両者ではなくスプリングノベルだろう。
だがスプリングノベルはスペシャリストではなくオールラウンダー。
如何に能力で牡馬に劣る牝馬と言えども、この三頭の中で最もこの舞台に合致しているのはテンプテーションに間違いない。
そう考えていたのは鞍上のカトリーヌではなく、ハネダクラウンに跨る滝沢だった。
カトリーヌはただ自分の愛馬を最高のパフォーマンスへ導く事だけしか考えていない。
藤北に至っては自らのライバルがハネダクラウンのみであることを信じて疑わなかったくらいだ。
そんなそれぞれの思惑が複雑に入り組みながら、勝負は第三コーナーへと向かっていく。
向こう正面を先頭で走る人気薄の逃げ馬がベテラン騎手に導かれ、十七頭を引き連れて三コーナー手前の坂を登りきる。
ここから先の三コーナー、緩やかな右カーブは通称”淀の坂”と呼ばれる高低差約四メートルの下り坂。勢いがつきすぎて外へ膨らまないよう、逃げ馬は慎重に埒沿いを駆け下りる。
後続の十七頭は手前の坂を登りきると、逃げ馬の外を一気に追い抜くべく淀の坂を利用して加速を始め、その差を一気に詰め始める。
縦に長かった隊列が淀の坂で詰まり、流れは静から動へと突如変貌した。
――疾風、お先に失礼するぞ
まず仕掛けたのは滝沢とハネダクラウンだった。
滝沢が指示を与えずとも、馬自らの意思で前の馬を追い抜こうと徐々に速度を上げていくハネダクラウン。
「昇さん! そうはさせないっスよ!」
ハネダクラウンに離されまいと藤北の手がしきりに動き、外からハネダクラウンを追走する。
それに続いて有力馬が一気に前へと上がりだした。
そして二頭からはるかに離れた後方。
ようやく前へ進出し始めた灰色の馬体のテンプテーションが、青い帽子と共に距離損などまるで気にしないかのように馬群の外を通り、じわりじわりと前へ位置を上げていく。
人気を分けた両雄が勝負所でスパートを始めた姿に、或いは芦毛の牝馬が最後方から徐々に前へ進出する姿に、京都競馬場十二万人の大観衆から一際大きな歓声が上がった。
しかしハネダクラウンの背中で滝沢は、地鳴りのような馬の足音とうねる歓声に紛れた場内放送を、かすかに聞き取った。
『青い帽子テンプテーションはまだ後方、ここから届くのか!』
およそ二年前、滝沢はテンプテーションとコンビを組んでいた。
そして彼女と共に桜花賞やオークスなどのレースへと挑んだ。
天才とまで呼ばれた滝沢にだって分からないことはある。彼が分析したテンプテーションという競走馬は、常に先頭をキープしてこそ力が出せる馬。
だがそう信じ逃げ続けたクラシックは、桜花賞を含め全て惨敗だった。
『昇君。来年は京都牝馬ステークスからなんだが……』
年の暮れ、テンプテーションを管理する調教師は、来年も天才騎手滝沢を確保しようと彼に声を掛けた。しかし滝沢は、別の陣営から声が掛かったことを隠さず告げた。
『すいません先生。来年はロックブーケに乗るんで……』
テンプテーションと同じ年齢で、G1レースを二つ勝ったロックブーケ。滝沢は翌年そちらに乗ることを決め、そして彼はテンプテーションに見切りをつけた。
その後、滝沢の手を離れ幾人もの騎手を乗せ替え続けながらレースを続けたテンプテーションは、ついに一勝もすることはなかった。
滝沢は年が変わった当初こそ新聞や競馬雑誌でテンプテーションの戦績を確認していたが、その内テンプテーションの存在自体を忘れはじめていった。
彼に罪はないだろう。騎乗しないレースはないと言われるほど周りが放っておかない騎手、それが滝沢昇なのだから。
毎週のように多種多様な騎乗馬と巡りあう滝沢が、中級で燻るテンプテーションに気を掛ける理由などなかったのだから。
だが滝沢に見切りをつけられた灰色の彼女は生まれ変わった。
昨年の秋、彼はテンプテーションから大きなしっぺ返しを食らったのだ。
牝馬限定G1であるエリザベス女王杯。スタートから大きく出遅れたテンプテーションは、終始最後方でレースを続けた。そして直線に入り、滝沢が操る一番人気ロックブーケを豪快に差しきった。
滝沢はその時初めて気付いたのだ。
テンプテーションは逃げ馬ではなく追い込み馬だったのだと。
負けた事実以上に、彼女の能力を見抜けなかった自分の不甲斐なさに、滝沢は酷く落ち込んだ。
最後方に控えるテンプテーションを全十八組の出走メンバーの中で一番恐れているのは、間違いなく滝沢昇その人だろう。
――今日もテンプテーションは絶好調、か。カトリーヌにしても厄介だな
そして天才とまで言われた自分が見抜けなかったテンプテーションを最も理解するカトリーヌもまた、彼が恐れる存在だった。
四コーナーの柵に沿うように植え込まれた生垣をが途切れ、大歓声に迎えられながら逃げる白い帽子の馬が最後の直線へと入った。
春の天皇賞は四コーナーから坂のない四百四メートルの直線へと舞台を移す。
コースの最内、内埒沿いを逃げていた白い帽子は依然として先頭をキープしていた。
しかし逃げ馬の左側に余力十分のハネダクラウンが満を持して外から並びかける。
ハネダクラウンに跨る滝沢、その左手に握られた鞭は未だに愛馬に下ろされない。
――まだだ、まだ奴らは来ない!
彼が待っているのは藤北疾風とスプリングノベルか、それともカトリーヌ=ヴェイユとテンプテーションか……。
一方、逃げ馬へは騎手の左腕が何度も振り下ろされ鞭が入れられる。しかしその差は広がるどころか徐々に縮まっていく。逃げ馬が既にスタミナ切れなのは明白。
必死に抵抗を続ける逃げ馬が間もなく一番人気に飲み込まれるだろうことに、疑う余地など無かった。
先に抜け出したハネダクラウンが逃げ馬を振り切る頃、ハネダクラウンを捉えようと対抗馬もやや遅れて後続から抜け出した。内埒から少し離れ馬場の真ん中辺りからピンクの帽子がぐんぐんと伸びる。
そのスプリングノベルに跨る藤北が懸命に左手で鞭を入れながら前に迫っていた。
スプリングノベルと藤北が後続集団から完全に抜け出した頃、先頭は力尽きた逃げ馬からハネダクラウンへと替わった。その姿にスタンドから一際大きな歓声が上がる。
――お客さんには悪いけど、明らかに手応えが悪いな……限界か
一番人気に推された自身の愛馬がそろそろスタミナ切れを起こしている事実に、滝沢は馬の上から苦笑いを作る。
先頭の緑の帽子に襲い掛からんと対抗馬が後続集団から抜け出し前を走るハネダクラウンに一馬身差まで迫る。
四コーナーまで逃げた白い帽子はもう後続集団に飲み込まれた。
ハネダクラウンの外、左側からゆっくりとスプリングノベル並びかける。
――昇さん、長距離戦でハネダクラウンじゃ”こいつ”に敵わないっスよ!
集団から三馬身(約七メートル強)ほど抜け出した二頭は、更に後続との差を広げながら激しい競り合いを見せはじめた。
本命馬に跨る滝沢が、鞭を鮮やかな手さばきで右手に持ち替えた。
「ハヤテ相手におめおめと負けられるか!」
対抗馬の藤北は、本命馬の左に愛馬を導き、左手の鞭を振りかぶった。
「そろそろ諦めたらどうッスか、ノボルさん!」
そして滝沢と藤北、両騎手の鞭が全く同じタイミングで唸りを上げる
馬の後ろから乾いた音が幾度と無く響き、その度に馬上の二人は力の限り馬を追い立てる。
前年度ダービー馬ハネダクラウン。
常に二着に甘んじたシルバーコレクター、スプリングノベル。
ゴールまで一ハロン(約二百メートル)の標識を、鼻面を併せて通過していく二頭。
「これでも二冠馬、若造相手にすんなりハナを譲るわけにはいかんのだよ! 疾風くん!」
内で先行逃げ切りを図るハネダクラウンの手綱を懸命に扱く名手”滝沢昇”。
「何言ってるんスか! そいつダービーだって一杯だったじゃないっスか!」
ライバルを力で捻じ伏せようと左手でスプリングノベルに鞭打つホープ”藤北疾風”。
どちらも譲らない、負けられない。
しかし名手のプライドと若手の意地のぶつかり合いは、とうとう、意地がプライドを捻じ伏せた。
『スプリングノベルが頭一つ抜け出したーっ! ハネダクラウン苦しそう!』
場内放送がそう告げたと同時に、スタンドから悲鳴に似た怒号が響く。
「お先に失礼っス!」
スタンドから押し寄せる声の波に心地よさすら感じながら、藤北は右に居る滝沢に軽く声を掛けた。
「くっ! 疾風のくせに生意気なことを!」
馬を追う動作を止めず、けれど滝沢は藤北の軽い言葉に、更に軽く声を返した。
『宿敵ハネダクラウンを捻じ伏せて、スプリングノベルが遂に先頭!』
藤北疾風、二十歳。
若手ナンバーワンの名を欲しいままにする彼も、G1レースでは惜敗が続いていた。
そんな彼も素質馬スプリングノベルに出会い、ようやくG1ウィナーの仲間入りを果たすだろうと思われた。しかしその矢先、ハネダクラウンと滝沢昇が突如として現れ、彼らの勝利をことごとく阻止していったのだった。
皐月賞とダービーはハネダクラウンに敗れて二着。
菊花賞こそ五着ハネダクラウンに先着したものの、生粋の長距離血統を持つリミットオーバーに敗れての二着。暮れの有馬記念に挑むもまたしてもリミットオーバーの二着、ハネダクラウンは出走していなかった。
そしてリミットオーバーが感冒により出走を断念した今回の天皇賞には、やはりハネダクラウンが立ちはだかっていた。前哨戦で快勝するもののG1では常に二着に甘んじていた彼ら。陣営も含め、銀メダルに飽き飽きとした彼らは、この春の淀で一矢報いる決意を全身に漲らせていたのだ。
『藤北、悲願のG1制覇まであと百メートル!』
――行くっスよスプリングノベル! もう二着はいらねっス!
場内から聞こえたその言葉に、藤北は今一度気を引き締めなおし愛馬を駆り立てた。
半馬身(およそ一メートル強)抜け出したスプリングノベル。
尚も食い下がるハネダクラウンに、差し返すだけの余力は残っていなかった。
――やはり限界か。……だがな疾風、お前の相手は俺でもハネダクラウンでもないぞ
スプリングノベルがハネダクラウンを力で競り落とし、大勢決したかに見えたこのレース。
内埒から左のスタンドをチラッと流し見た滝沢は異変に気付く。
スタンド最前列の客が明らかに自分達ではない後方を見ながら指を指していたのだ。
――ほら来たぞ疾風。お前のG1制覇はまたしてもお預けだ
それが何なのか滝沢はもう気付いていた。
いや、もしかすると気付いていないのは先頭を走る藤北疾風だけなのかもしれない。
軽く左前方を見れば、藤北の愛馬も耳を伏せ後ろから来る猛烈なプレッシャーに警戒心を強めていた位なのだから。
後方の異変、それは恐らく怒涛の勢いで前に迫る青い彼女と灰色の彼女だろう。
――あーあ。また調子付くぞあいつ……
頭の中に悪戯っ子っぽく笑う”あいつ”の顔を思い浮かべ、滝沢は少し大きめに溜息をついた。




