幕
岳羽とか言う刑事はどうなっただろうか。
今頃は、顔中から血を滴らせる物言わぬ躯となっただろうか。
耳は何処かな?
目は何処かな?
鼻は何処かな?
あの男に"護符"を送り付けて以来、私はそればかりを考えている。
そればかりを考えて、狂い悶えている。
私は神仏を信仰していない。超常を信奉していない。
私は如何なる光も差し込まぬ土中に蠢く一匹の蚯蚓であり、人間世界の呪いをまき散らすことで"視線"に薄汚れる魂を清め続けてきた醜い生き物だった。
神仏も、超常も、私にとっては等しく手段に過ぎなかった。成就しようがしまいがどうでもよい不完全な理法に過ぎなかった。
旧来の様式めいた呪法に従い神に頭を垂れながら、何を期待するわけでもなく、私はただ呪詛を吐き出し続けている。
あの日、あの神社で、あの護符に出会った。
呪う積もりではなく、捨てる積もりで護符を分け与え、結果三人の人間が死んだ。
そして、明確な殺意を以ってして、私は一人の人間を呪い殺そうとしている。
その者が死ぬのを、こうして待っている。
あれ以来、私は明らかに変わった。
端的に言えば視線に怯えることが無くなった。
誰かに見つめられることに対する不快感は相変わらず残ってはいたが、私は耳障りで、絶えず悪臭を放つ"視線"を受け止める新たな術を見出していた。
不快であれば、躊躇なく呪った。
「発散」は「反発」へと切り替わり、闇へ放逐していた私の内に凝る何か気味の悪いものを、私は相手にそのまま送り返すようになっていた。
呪いの対象者は、誰とも知らぬ者から、顔があり、名があり、家族があり、恋人がある私の知る者へと摩り替わっていた。
私は彼らを呪い、
――その死を願い続けている。
私が心の奥底にしまい込み、病的なまでに他者の視線から隠そうとしたもの。
それは、劣等感だ。
誰かの視線に曝される度、私はその瞳に映り込む自分の姿をまざまざと見せつけられた。
醜悪で、矮小で、気味の悪い、
蚯蚓のような――私。
それが嫌いだった。私は自分が嫌いだった。
肥大化し、膿を撒き散らし、脳を腐らせる劣等感という化物と折り合いをつけるために、私は呪いを撒き散らし続けた。呪って呪って呪って呪って、呪い続けても劣等感は肥え太り続けた。
私の様な屑が、貴方を呪ってはいけない、そう思っていた。
私の様な屑は、誰かを呪いますから、そう思っていた。
私には"殺意"なんて人間らしいものを、もつ資格は無いのだから。
しかし、あの護符が、私に教えてくれた。
殺意に身を任せるということの、狂おしい程の甘美さを。
極上の蜂蜜に全身を浸す様な、むせ返るような甘みの奔流が齎した多幸感は、私の抱く劣等感を容易に押し潰し、磨り潰し、飲み込んでいった。
私の様な醜悪な蚯蚓に殺される善良で普通な無辜の人々が、かつては怖くて堪らなかった視線の群れが、突然に堪らなく哀れで、そして愛おしく感じた。
こうして私という蚯蚓は殺意に身を任せることで、
欲しくて欲しくて堪らなかった、
人間の皮を手に入れた。
そうだ。
明日は鵙神社に行こう。
そうしてありったけの護符を取ってきて、
殺せるだけ殺そう――
嗚呼。
嗚呼。
なんて気持ちが良いのだ――
* * *
目が覚めると、暗闇だった。
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
覚醒の気怠さに横たわったまま、目だけを時計に向ける。
午前二時だった。
喉を乾きを覚え、緩慢な動きで起き上がると、隣に妻が居ないことに気が付いた。
妻は専業主婦で一日中家に居るので、"帰っていない"という事はあるまい、大方息子がぐずったか何かであやしているといったところだろう。
一応様子を見ておこう。
ドアノブを掴み、軋みを最小限に抑えるよう注意深く回し、そして開いた。
息子は四歳になる。
手がかからなくなってきたとは言え、幼児であるから、しばしば愚図るし、泣き喚く。
特に暗闇が怖いらしく、夜中に目が覚めてしまった時などは、私や妻を求めて酷く泣くことが良くあった。その度に私たちは息子を寝室に招き入れたり、或いは息子の枕元でお気に入りの絵本を読んでやったりした。
だから、せめて息子の気が少し紛れるようにと、深夜であっても子供部屋には常に間接照明が灯されていた。
なのに、何故――。
こんなに昏い――。
廊下の暗がりの中、子供部屋の扉が少しだけ開いているのが見えた。
そこから漏れるべき間接照明の灯りは見て取れない。
ただ、不気味な暗がりだけが廊下を包み込んでいた。
立ち尽くす私の先で、扉はキィィー…という耳障りな音を家内に響かせ、そして、音もなく閉まった。
夏の絡みつくような濃密な暑さに、汗が滴り落ちる。鼓動が早さを増すのを感じる。
「美奈子」
私は妻の名を呼ぶ。返事は無かった。
ぺたぺたという重く湿った滑稽な足音が、沈黙に呑み込まれて消える。
私は子供部屋の扉に手を掛け、
「美奈子」
もう一度妻の名を呼び、開いた。
誰もいなかった。
息子が寝ているべきベッドは空だった。当然に、妻の姿も無かった。
ただ、窓だけが開け放たれて、カーテンが風に揺れるばかりである。
「美奈子? 翔太?」
妻と、そして息子の名を呼ぶが、その声は虚しく闇に溶けて消えた。
私は犯罪めいた事態に妻子が巻き込まれたことを危惧した。危惧し、そして、恐怖した。
私が蟲の様に瑣末な人生において手に入れることの出来た唯一幸福めいたものが、何か得体の知れない不気味なものに攫われていくように思われてならなかった。
廊下に踊り出て、手当たり次第に部屋を調べた。
何処にも、誰も居なかった。ただ、気味の悪い静けさだけが家中を満たしていた。
乱暴に扉を開ける音も、妻子を呼ぶ声も、一切が暗がりに呑まれて、消えた。
何も、何事も、無かったかのように。
粗方の部屋を調べ作りた私は、廊下の奥にある階段に目を向ける。妻子は一階に居るのかもしれない。
鼓動は早鐘を打ち、絶え間なく頬を伝う汗は暑さによるものではないだろう。
ふと気が付いて、階段の電気を点けようと、スイッチを押す。
反応は無かった。
何故か、それが当然だと感じた。
身体が内から破裂しそうな程に凝縮された恐怖を押さえつけながら、私は闇に包まれた階段をゆっくりと一歩ずつ降りていく。裸足のままの足は汗に濡れ、ぺたぺたという嫌な感触が妙に印象に残った。
ぺた。
手摺をしかと掴み、足を踏み出す。
ぺた。
一歩、また一歩。
ぺた。
階下は冥々と昏い。目を凝らしても、何も見えない。
ぺた。
一歩、さらに一歩。
ぺた。
汗が落ちる。
ぺた。
呼吸が乱れる。
ぺた。
足音に紛れて。
ぺた。
何か。
ぺた。
得体のしれないものに――
――ずるり
後を尾けられている。
階段を這い降りる何かの気配は、その濃さを増しつつあった。
粘り気のある恐怖が私を雁字搦めにし、足が止まりそうになる。
足を止めて、振り返りそうになる。
それはいけない。
見たら、きっと、戻れなくなる。
ぽたりと、汗が床に滴り落ちるのを合図に私は一足飛びに階段を駆け下りた。
あれは多分、同じものだ。
あの日、あの神社を訪れた日、石段の上から私を見下ろしていたものと同じものだ。
あの視線。
見ているのに、見ていない。見ていないのに――
見ている。
そんな背反するこれまで感じたどんな視線よりも異質な眼差しを、私が捉え損なうはずはない。
――あの神社には、何がいたというのだ。
私の脳内を言葉が乱反射し、正常な思考を妨げる。
ずるり――
それが階段を降り始めた。
狂ったように煌めく脳内が、一瞬にして恐怖一色に染め上げられる。
私はそのまま玄関を飛び出し、逃げ出したい衝動に駆られた。
この家から、この恐怖から、一刻も早く解放されたかった。
玄関に向けて一歩踏み出したその時、ダイニングルームに小さな灯りが灯った。
「美奈子?」
まるで何かに導かれるように、或いは初めからそう決まっていたかのように、私はダイニングルームに惹き寄せられていった。ずるりずるりと、化物は一定の緩慢なペースで以って階段を這い降りてくる。
せめて妻子だけは、どうか妻子だけでもこの場から逃してやりたかった。
その時、私は生まれて初めて神に祈りを捧げた。
リビングルームを幽かに照らしていたのは、テレビの明かりだった。
ざあざあと無機質な砂嵐を映し続ける、テレビの明かりだった。
室内を満たす異常な空気。
こちらに背を向けてソファーに座ったまま、
微動だにしない、
妻。
部屋にあるもの全てが忌々しく呪わしく、瘴気に満たされていた。
呼吸を通じて、空気を取り込むことすら不快に思われる。
久しく訪れていなかった酷い吐き気が、私を責め苛んだ。
「美奈子……」
せり上がる汚物の予感に口元を抑え、テレビを見つめ続ける妻の肩に手を置こうとした。
置こうとした。
妻はソファに座ったままの体制で、首だけを動かしこちらを振り返った。
その回転は凡そ人体構造から逸脱した挙動であった。
骨が軋み、筋肉が引き千切れるような鈍い音がした。
白目を剥いた妻の貌がぐにゃりと歪む。
筋肉は意志とは無関係に、無茶苦茶に動きまわる。ビデオの早回しを見ているような違和感。
くちゃくちゃと。
妻は何かを咀嚼していた。
くちゃくちゃと。
一噛みする毎に、妻の顔が醜く歪む。
顔の筋肉という筋肉が無理矢理に駆動している。
まるで、笑っているように見えた。
「お前、何を食っている?」
身体の奥底から来る震えはもはや抑えようがない。
妻は私の問には答えない。
皮膚が盛り上がり、目が鼻が口が引き攣り、蠢く。
だらしなく開かれた口から唾液が溢れ落ちたかと思うと、
何かを噛み潰すような音がして、
唇の端から、血が、滴り落ちた。
「なあ、美奈子――」
上も下も、右も左も、過去も未来も、渾然一体となる。ダイニングルームは、地獄そのものだった。
妻の白濁した目はもはや私を見てはいなかった。
頬を涙が伝う。
それが何に由来するものなのか、私にはもう分からない――
分からないんだ。
骨が折れたのであろう、支えを失った首を上下左右に振り乱しながら、妻は一心不乱に口中の何かを噛み潰している。
最早言葉が届くとは思わなかったが、私は聞かずにはいられなった。
「翔太は何処にいった?」
妻の動きが止まった。不愉快な咀嚼音が止んだ。
ぐらぐらとした首がゆっくりと動き、再び私の眼前に捉えた。
妻の顔が、
今度はスローモーションのように緩慢に歪んでいき、
酷く醜く、不格好で、ぎこちない、
笑みを、浮かべた。
釣り上がった口角から、二つの目玉が、ぽろりと落ちた。
点々と転がる二つの球体を見えぬ目で追いながら、妻は初めて声を上げて笑った。
げぇげぇとした蛙を轢き潰した様な、空気の漏出に過ぎなかったが、それは確かに笑いだった。
可笑しくて可笑しくて堪らないといった様子で妻は笑い続けた。
「どうして、こんな……」
私は血と唾液に塗れた二つの眼球を拾い上げ、掌中に抱く。そして妻だったものを見つめた。
それは、そんな私を見て、今度はにたにたとした嫌な表情を作り出した。
私を追い詰め、私を痛めつけ、私を責め苛むことを無上の喜びとする様な絶望的な微笑みだった。
私という器は絶望に満たされつつあった。
表面張力によってようやく保たれるほどに私を満たし尽くしていた。
それは駱駝の背骨をへし折る最後の藁――だった。
面白そうに私の方を向いていた妻が、ふいに何かを思い出したように、私の背後を見るような動作を見せ、操り人形のような不自然さで腕を持ち上げると、
窓の方を指差した。
窓に顔を向ける。
丁度その瞬間。
まるで図ったかのように。
黒い影が横切った。
それが、どさりという鈍い音を立てて、地面に叩きつけられたのと、私が全てを了解するのはほぼ同時だった。
あの窓は――
真っ暗な部屋。
風に揺れるカーテン。
あの窓の上にあるのは――
翔太の部屋だった。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!」
絶望が私の身体から溢れ出し、私の心は完全に死んだ。
もはや恐怖と恐慌だけが私の身体を支配していた。
全てを投げ出し。
駆け出し。
部屋を抜け。
玄関を目指した。
逃げろ。逃げろ。逃げろ。逃げろ。
怖い。怖い。怖い。怖い。
階段の前に差し掛かり――
あれに足首を掴まれた。
不意に足を取られた私は無様に地面に倒れ伏し、その衝撃で掌中に握りしめいた眼球が、床に落ちた。
そいつは眼球を摘み上げ、その長い舌でひと舐めしたかと思うと、大きな口を開き、無慈悲に噛み砕いた。血が飛び散って、白い壁にへばり付く。
足首を締め付ける腕の力は余りに強く、私がいくら藻掻いてもそいつは意に介さず、それどころか藻掻けば藻掻くほどにそれ以上の力を込めて握り返してくる。
骨は呆気なく、砕けた。
恐怖と痛みに声も出なかった。
混乱と恐慌の中で、吐き気が巻き起こり、私は吐瀉物を撒き散らす。
「鵙の巫女……そう、いう、こと、か」
足首を足掛りに、巫女が這い寄ってくる。
だらりと舌を伸ばし、時折、私の足を、指を、身体を舐めなわす。
唾液に濡れる嫌な感触に混じって、私の内に一つの炎が灯る。
最初は耳だった。
柔らかな耳朶に滑らかな舌の感触がした次の瞬間、灼けるような熱さが襲ってきた。
未だかつて味わったことのない全身を駆け巡る激痛と、噴き出す鮮血の衝撃に、私は床にのたうち回る。いつの間にか私の上にのしかかる形になった巫女が、両手をがっしりと掴んでおり、私は魚のように跳ねることしか出来なかった。
次は、鼻だった。
上の方に前歯を掛かったかと思うと、鉋掛けの容量で鼻が削ぎ落とされた。
既に痛みは感覚を凌駕していた。
泉の様にあふれる血液が顔を染めていく。「ああ、温かい」薄ぼんやりした頭でそんな事を思った。
私の内に灯った炎。
それは狂おしい程の甘美さ、快感であった。
最後は、目だろう。
眼前に巫女の顔が迫る。
耳も、目も、鼻も無いその顔で、巫女は確かに嗤っていた。
その口が大きく開かれ――
暗闇が訪れた。
(鵙の呼び声 了)
拙作を読んで下さり、本当にありがとうございました。
やりたいこと、書きたいことを、全て注ぎ込んだ結果、ホラーともミステリィともスプラッタともつかぬキメラが誕生した次第で御座います。
もし、ほんの少しでも面白いなと思ってくださったのであれば、
是非とも「壱」の章だけでも読み返して頂けると幸いです。
また違った味わいになるのではないでしょうか?
生まれて初めて、一作の小説を完結させることが出来ました。
これほど嬉しい事はありません。
この作品を次、また次へと活かしていきたいと思います。
感想、批評、叱咤、罵倒なんでも結構で御座います。
貴方のたった一言が私を救いますです。はい。
では、またどこかでお会いしましょう。