陸
深々と一礼した後、踵を返した実相寺祥子は、そのまま夜の闇に溶けて消えた。
私達は彼女に言われた通り、件の護符を五寸釘で本殿の扉に打ち付け、鈴を鳴らし、二礼二拍一礼を以って簡易的な儀式を行った。拍子抜けする様な簡潔さに、私は自分が救われたのだという実感を未だ持てずにいた。
「本当にこれで良かったのだろうか?」
私は隣で松の木をじっと眺めていた鍋島瑠璃に問いを投げかける。
「ええ、問題無い筈です。祥子刀自の仰る通り、護符の問題についてはこれにて落着です」
「余りにも呆気無くて、どうにも実感が沸かん」
「では、少しだけ解説を」
鍋島瑠璃は本殿に向き直り頭を垂れた後、私に向き直ると微笑みを覗かせた。
「明治期以降の鵙神社は祥子刀自の祖父、つまり彼の村の村長の手によって、その信仰の体系を徹底的に組み替えられています。その"執念"と言うべき取り組みは、只一点、この神社に救う殺意を封じ込めることを目的としていた。その根幹を成すのが、神の招聘です」
「神の招聘?」
「ええ。調べてみると分かることですが、鵙神社は神社庁に登録のある公的な神社です。登録は昭和初期のことですから、村長の手によるものだと見て間違いないでしょう。登録に当たって必要な要件は、まあ色々とあるのですが、ここで重要なのは"祭神"。つまり、その神社が祀っている神です。そしてこの神社に祀られている神は"素盞鳴尊"と言います」
境内を一陣の風が吹き抜ける。
空を覆い隠すように繁茂した松の枝がざわざわとさざめいた。
「山神信仰に限って言えばこれは不自然です。大国主命あたりならば納得が出来る」
「出来ん」
鍋島瑠璃はそこで初めて声を上げて笑った。夜の闇に沈む不気味な境内にあって、ほんの少しだけ瘴気が和らいだ気がした。
「素盞鳴尊は山神信仰とは関連性が薄い神です。ヤマタノオロチを退治した神様と言えば分かりやすいでしょうか」
「それならば分かる。有名な話だ」
「素盞鳴尊は言うなれば荒御魂、荒れ狂う魂の権化の様な神様です。逆説的では有りますが、それゆえに素盞鳴尊は荒御魂を鎮める神様として信仰を集めています」
「荒御魂を、鎮める」
私はそこで諒解した。
村長が成したことを。
そこに込められた思いを。
鎮魂という言葉の、本当の意味を――
「つまり、村長は鵙神社を祭神を挿げ替えることによって、殺意を封印しようとしたということか」
鍋島瑠璃は暫く黙って空を見上げていたが、やがて私に向き直ると、微笑みを浮かべて「その通りです」と言った。
「殺意を集約し、狂気を拡散していた神社という空間そのものを利用して、殺意を封じ、狂気を鎮めんとしたのが明治期以降の鵙神社の有り様です。一切が放逐され、禁忌が放擲されたこの場所を、再び神に委ねることで、事態の収集と犠牲者の鎮魂を図ったという訳です」
「だから実相寺祥子は、護符を神社に封じ込めろと言ったのか」
私は本殿を振り返る。
その深奥には、未だに無数の"護符"が残されているはずだ。
解き放たれることのなかった、殺意の残滓が。
その一葉一葉は今は神の御手に抱かれ、山に溶けて消える日を待ち続けているのだろうか。
「先程も言いましたが、神社ほど体系だった信仰は本国に存在しないと言っても良い。それゆえに、殺意が増殖拡散したのと同様の強固さを以って、現在の鵙神社は殺意を封印鎮静すると考えることが出来る」
「まさに逆説的だな。ありがとう。納得がいったよ」
再び風が吹いた。
吹き荒れる風は針葉のヴェールに一点の穴を穿ち、幽かな月明かりが境内を照らした。
本殿に打ち付けられた護符がはためき、狂ったように風に踊るのが見て取れた。
私は闇夜に小さく覗く月を見上げ「終わったな」と一言呟いた。
傍らの鍋島瑠璃を横目に見る。
彼は、
消え入りそうな程儚げで、
哀しそうな顔をしていた。
ごとり、と。
重みのある不気味な音を立てて、
本殿の扉を封印していた木製の錠が、
腐って、落ちた。
振り返ろうとは、思わなかった。
「行きましょう」
錠の腐り落ちる音が聞こえなかったのだろうか。
鍋島瑠璃は何事もなかったかのように言うと、そのまま石段を下り始めた。
私はと言えば、まるで石畳を突き破り出た蔦が足に絡みついてしまったかのように、足を踏み出すことが出なかった。背後から立ち込める濃密な気配に、冷や汗が垂れた。
「岳羽刑事」
鍋島瑠璃は振り返らない。
しかしながら私の脳裏には、闇夜に浮かぶ二つの深い蒼がはっきりと描き出されていた。
「帰りましょう」
闇夜の神社の冷たい空気を、濃密な生温かい気配を、そのたった一言が切り裂いていった。
足下から這い上がる蔦は鋭利な振動によって、細切れに寸断され、吹き荒れる風に乗ってどこかへ飛び去り、私は呪縛から解き放たれた。
今でも思うことがある。
例えば、あれが"言霊"というものだったのだろうか。
「ああ。すまなかった」
私が石段に一歩を踏み出した時、鍋島瑠璃が微かに笑った気がした。
* * *
「なあ、鍋島瑠璃」
石段を下りながら、私は彼に声を掛ける。
「何でしょう」
こちらを見遣ること無く、鍋島瑠璃は歩を進める。
その双眸が湛える青い光は、やはり闇夜に良く映える。
「私は思うんだ」
「何をでしょう?」
革靴が石段を踏みしめるコツコツという音が規則的に山の静寂を侵していく。
「やっぱり何も解決はしていないんだよな」
鍋島瑠璃は何も言わず、少しうつむき加減に石段を下る。
「結局のところ、鵙の巫女に纏わる因縁を引き起こしたのは人間の殺意と狂気に他ならない。こういう言い方が正しいのかどうかは分からないが、人間世界で手に負えなくなった理屈を神の理屈に擦り替えて、解決を神に任せてしまったんだな」
「そうするより他にありませんでしたから」
高速で流れる雲が月を再び覆い隠し、石段を覆う闇はより深みを増していて、私には彼の表情を読み取ることは出来なかった。
「実相寺祥子やその祖父のやり方を責めている訳ではない。こう思うのは、多分私が刑事だからだと思う。どこかで誰かが神ではなく自らの手で"悪党"を裁く勇気を持つことが出来たなら、鵙神社は今頃は無くなっていたんじゃないだろうか」
無意識に蹴飛ばしたのだろう。
小石が一粒、からからという乾いた音を立てて、石段を落ちていった。
鍋島瑠璃はその様子を見つめながら、独り事のように言った。
「まるで坂道を転がり落ちる石の様に、狂気には歯止めが掛かりませんでした。僕にはそれを誰かが止められたとは思わない」
でも――
そう言うと、彼は初めて足を止め、私を見遣って言った。
「そういう"優しい"考えは嫌いじゃありません。貴方は立派な"刑事"ですよ。岳羽さん」
「だったら良いがな」
「きっとそうです」
そこからは黙って歩いた。
一歩一歩石段を踏みしめながら、私はこれまでにあった出来事を反芻していた。
よく命があったものだ。
結局、刑事の"捜査"としては大きく常識を逸脱してしまったが、私は満足していた。
事件は真の意味で決着しようとしている。
護符による"殺人"も程なく終息するはずだ。
犯人が裁かれぬ事が少しだけ心残りだったが。
「護符の"呪い"もこれで解けるという訳だ」
鎮守の松がざわざわと揺れ、一筋の風が石段を駆け登っていった。
石段はあと一歩を残すのみだった。
あと一歩を残すのみだったのだ。
「岳羽さん」
鍋島瑠璃が立ち止まった。
「それは、"呪い"じゃないんです」
「"呪い"ではない?」
「本当は話すつもりはありませんでした。祥子刀自ですら意図的に話さなかったことです。でも、岳羽さん、やっぱり貴方には全てを知っていて欲しい。全てを知った上で、この事件を終わりにして欲しい」
鍋島瑠璃は闇夜を見上げる。見えぬ月を見つめるが如き、遠い目だった。
――あれは"呪い"じゃありません。
――"祈り"です。
「信仰に根差した神聖な祈り、犯さざるべき神の御業に他ならないのです」
私には彼の言わんとしていることが分からない。
分からないから、最後の一歩を踏み出せない。
踏み出しては、いけないと思った。
「どういうことだ」
「岳羽さんの命を救うという点においては、両者の違いはさして問題ではありませんでした。でもね、岳羽さん。本来、両者は決して混同してはならないものなのです。神に捧げるべき神聖な呪物を、醜い雑念に汚された人間の殺意で汚すことなど――」
――決して許されることではない。
そう言って鍋島瑠璃は、音もなく、最後の一歩を踏み出した。
* * *
石段を降り、鳥居を抜け、私たちは神域を脱した。
鍋島瑠璃が最後に言ったことがなんだったか、私にはいまいち判然としなかった。
しかしながら、彼の言葉は私に重く纏わり付き、強い拍動に私に何かを告げようとしている。
ふと。
何かの気配を感じ、私は神社を振り仰ぐ。
石段の中腹。
漆黒の暗闇。
その深淵の深みに、石灯籠が一つ、ぽうっと明かりを灯した。
闇夜に浮かぶその一点から、私は目を離すことが出来なかった。
時間の感覚が緩慢になっていく。
それは一瞬のようにも、永遠のようにも感じられた。
炎が揺らめき、影が震えた。
初めに見えたのは手だった。
指だった。
爪だった。
次に見えたのは髪だった。
頭だった。
顔、だった。
顔、だったものだった。
石段を這いずり、降りてくる。
鵙の巫女――。
弛緩しきった身体と対照的に舌が狂ったように動き回る。
唾液が糸を引く。
緩慢に、
舌に導かれるように、
顔なき貌が、こちらを向く。
石灯籠の幽かな明かりに照らされた巫女は、
笑っていた。
笑って、
嗤って、
哂い抜いた。
巫女の唇が怪しく蠢き、
そして――
『見つけた』
そう動くのを、見た。
* * *
「岳羽さん?」
石段を見遣ったまま動きを止めた私を訝しんだのか、鍋島瑠璃が私に声を掛ける。
はっとして目を擦る。
瞬きをする間に、全ては消え去っていた。
軽い目眩がする。
「分かったよ。お前の言いたいことが」
私は全てを了解していた。それが最後の結末だと承知していた。その味を噛みしめる覚悟を、既に決めていた。
しかしながら、それは当然の帰着で、当然の結末で、当然の報いだったのだろうか。
その答えは未だに出ていない。
「"彼"を救うことは出来ないのか?」
彼はゆっくりと頭を横に振る。
「聴覚と視覚と嗅覚を奪われた彼女に出来る事は限られています」
――笑うこと。
――祈ること。
――描くこと。
そして。
――喰うことですよ。
そう言って、彼は天を仰いだ。
かくして事件は決着する。