肆
――あの神社は人間の殺意を内包している
「たった一言、誰とも知らず、いつとも知れず、恐らく意味も分からぬままに噂話に付与されたこの一文が鵙神社、ひいては村に起こった出来事を"合理的に"解釈するきっかけになります」
殺意。
何かを、誰かを、殺してやりたいという意志。
殺して欲しい。
殺してやりたい。
殺さずにいられない。
殺せ。
殺せ。
――殺せ。
脈絡のない言葉が私の脳内に反響し、私は卓上に置かれた護符を破り捨ててやりたい衝動に駆られた。
「山神信仰というものは余り珍しいものではありません」
誰に促されるでもなく、鍋島瑠璃は滔々と語り始めた。
忌まわしい歴史の、殺意の来歴の、その真相を。
「山の産物が山神の賜物であるという汎霊説的山岳信仰は古来より我が国では一般的に行われてきた事象です。養蚕を主産業とする彼の村が、そうした土着の山神信仰を有していていたのはある種の必然といえるでしょう。その信仰に雑音が混じったのは、恐らく室町時代の事です」
「早贄か」
私がそう言うと、鍋島瑠璃は無言で首を縦に振った。
「蚕を殺し、女子供を拐かした悪党某。彼を惨殺したのが村人だったかどうか現代の僕たちには判断できませんが、彼の死を契機に村の信仰が殺意と結びつきます」
「山神の賜物、だな」
「そうです。共同体の爪弾き者をどうにか始末したい。有り体に言えば、亡き者にしてしまいたい。それが村の総意だった。誰もが胸の内に隠し持っていたその殺意が、山の神による奇跡として突如として具現化しました。彼らは松に刺し貫かれた死体に山中を舞い飛ぶ鵙を想起し、鵙の姿に山神の姿を重ねたのでしょう。かくして鵙神社が誕生し、神社を媒介として殺意を汲み取り実行するシステムが構築されてたのです」
「システム……」
凡そ中世世界に相応しくない言葉が耳に残り、無意識の内に反芻していた。
「そう、システムです。本国に於ける信仰の形態はそれこそ千差万別ですが、神道或いは神社ほどに体系化された信仰は存在していません。我が国の成立と同時に誕生し、歴史に寄り添って変化し、変容し、変質しながらも体裁を保ち続けてきたのですから、これほど強固なシステムは存在しません」
私は護符に目を落とす。
これもまた、殺意のシステムを構築する一つの部品なのだろうか。
「玉垣によって聖域を隔離し、鳥居が聖域への侵入を儀式化します。歪曲した参道によって演出され、姿を表した本殿において、神への謁見を疑似体験する。祭祀祭礼によって日常に流入し、冠婚葬祭がそれを補完強化します。こうして見ると僕たちは既にシステムの虜であると思えてきます。鵙神社によって儀式化され、日常化された"殺意"がこうして村の人間に浸透していくのです」
「急に話が難解になったな。"殺意が浸透する"とはどういうことだ?」
「誰かを殺して欲しいと神社に願うこと、そして、願えば神が実行してくれると信じることですよ、岳羽刑事」
鍋島瑠璃は、静かに言った。
「一度システムの虜となれば、自らの意志で脱することは出来ません。システムは干渉不可能な無意識という領域に、根を張り巣を作るんですよ」
「俄には信じられん話だ」
「人間ならば誰かを殺したいと思う時があっても不思議じゃない」
「だからと言って」
勢い込む私の言葉を、彼の碧い目の光が遮った。
「誰かを殺してやりたいと思うその時、あの村の人間は鵙神社を見遣るんですよ」
――それがあの村のシステムです。
――それだけで、十分なんです。
彼の言葉に、私は反論できなかった。
* * *
応接室には重苦しい沈黙が漂っていた。
我々は噂話そのものが導き出したかのような突拍子もない仮説に基いて話をしている。本来なら一笑に付す様な類のオカルトめいた話だが、そこから転がり落ちた"鍵"が失われた物語を次々と解体していく。それは紛れもない事実だった。
沈黙の内に鍋島瑠璃は前髪をくるくると弄んでいた。癖なのだろう。
コーヒーカップが空になっていることに気付き、内線で二杯目を要求した。
黒色の液体が程なくカップを満たした。
それを無言の合図として、私たちは検討を再開した。
「岳羽刑事の言う通り、システムが人体に及ぼす影響は微かなものだったのかもしれません。しかしながら、明治時代、養蚕業の衰退という混乱期を経て、システムを強烈に補完強化する存在が現れます」
「鵙の巫女か」
鵙の巫女。
耳と目と鼻を失った、三重苦の少女。
忌まわしく呪わしい殺意の権化。
「ここからは完全に僕の想像であり、妄想です。だから、これから僕が語る仮説を信じるか否かは、岳羽刑事自身で判断して欲しい」
判断して欲しい――
彼にしては珍しく敬語を置き去りにした。
それだけ、本気、ということなのだろうか。
「岳羽刑事は五感のそれぞれに他の感覚を代替する機能があるという話をご存知ですか?」
「事故で失った人間の聴覚が異常発達して、聴くだけで周囲の景色をイメージできるようになるという類のあれか?」
以前ニュースで見たことがあった。あれは確か雷に打たれ視覚を喪失したバスケットボーラーが聴覚を頼りに試合に臨むというものだった。チームメイトとスムーズにパスを交換し、シュートを放つ男の姿は今も良く覚えている。人体には得てしてそうした"奇跡"が起こるらしい。
彼が言わんとする事がいまいち理解できず私は彼を見遣る。
視線を受け止め、こちらを見つめ返す彼の表情には苦悶の表情が浮かんでいた。
絞りだすように、彼は言った。
「鵙の巫女には、聴覚も、視覚も、嗅覚もありませんでした」
碧い瞳が、小刻みに揺れる。
「残された味覚と触覚が彼女の失われた感覚を代替していたとしたなら、彼女の感じる"この世"は一体どういうものだったのでしょう?」
鍋島瑠璃の言葉が、私の脳を揺さぶり、イメージが湧き上がる。
薄気味悪い笑みを浮かべた神主の膝の上で、巫女がもぞもぞと蠢く。
緩慢な身体の動きとは対照的に、舌だけが別の生き物のように、活発に動き回り、その度に唾液が糸を引いて滴り落ちた。削ぎ取られた声を、抉られた景色を、毟り取られた匂いを、味わっているように。
ひゅうひゅうと空気の漏れるような音がする。
これが呼吸。
巫女の呼吸。
だらりと伸びた舌。
溜池に身を投げる男女。夫に食い殺された女。首を括った男。松の枝から飛び降りる男。
何度も何度も。
娘を細切れにする、
男。
その全てを、舌が絡め取り――
もぞもぞと。
娘の身体が痙攣した。
「鍋島瑠璃。お前、まさか」
「そうです岳羽刑事」
言うな。
「鵙の巫女は」
言わないでくれ。
「失った感覚と引き換えに」
聞いてしまったら。
「殺意を感じ取る事が出来たのではないでしょうか?」
もう、引き返せない。
* * *
「これはあくまで仮説です」
鍋島瑠璃は独り事の様にそう呟くと、コーヒーに手を伸ばした。
私はそれに習おうとしたが、急激に粘性を増した熱気が身体に纏まり付き、どうしても身体を動かすこと出来なかった。
「見えない。嗅げない。聴こえない。そうして障害を抱えた人間は稀に生まれるそうです。本来なら失っていた命なのかもしれません。しかしながら、彼女が生まれたのは鵙神社で、彼女を育てたのは殺意に中てられた神主だった。神主は物言わぬ娘を"巫女"として養育し、そして、巫女もろともシステムに取り込まれた。もはや彼らは人間ではなく、村人と山神を往復する殺意を媒介する装置に過ぎなかった」
「装置……」
「悪党某の惨殺以来、殺意を神社に向ける歪んだ信仰が村人に根付いたことは先に説明しました。しかしながら、それは実体の無い信仰の領域の話、微かな意識の漏出に過ぎなかった。ようは、何かを成す程の強度が無かったのです。実際、悪党某の惨殺から明治に至るまで、村で大きな事件が起こった形跡はありません」
「そこに、巫女が現れた」
一言呟くのがやっとの鈍重な身体に反して、思考だけは鋭敏に機能していた。
鍋島瑠璃は黙って私の言葉を首肯した。
ゆっくりとだか確実に仮説を積み上がっていく。仮説が積み上がり、真相に肉薄していく。
そこから、何が覗くのか、私には未だ見えない。
「巫女が行ったのは"殺意の集約"です。携帯電話が電波を受信するように、巫女はその歪に研ぎ澄まされた感覚を以って、殺意をその身に集めました。本来なら、山中に溶けて消えていった数多の殺意が、巫女の体内に蓄積され、濾過され、純粋化されていきます」
「それで、何が変わる? 私には精神世界の四方山話に聴こえなくもない」
――修辞法に過ぎないのではないか?
もはや私の意識すら介在せず、疑問は奔流をなし、私の口から流されていく。過敏化した思考が、私の意志を凌駕しつつあった。
口にした自分の言葉に「ああ、そんな考え方もあるな」などと思う自分が酷く滑稽に感じた。
「ここまでなら、その通りです」
――しかし、彼女は巫女なのです。
鍋島瑠璃はそう言って、視線を落とす。
「巫女は神と人を媒介する存在に他なりません。人々が神に託す殺意をその身に受けた巫女は、一体何をするのでしょう?」
私は無意識にその視線を追った。
そこには、一枚の"護符”が無造作に置かれていた。
「その護符は、鵙の巫女が作り出したものです」
私は護符から目を離すことが出来なかった。護符から発せられる何からの意志が、私の目を捉えて、離さなかった。
「殺意は祈りであり、祈りは神に奉じられなくてはならない。聴くことも、見ることも、嗅ぐことすら出来なかった巫女が、神に祈りを捧げるために用いたのが、その護符です。だからね、岳羽刑事。その護符には――」
殺意が凝縮されているんです。
表情一つ変えず、鍋島瑠璃は淡々と真実に到達した。
死を齎す護符。
その最後の仕組みが、今、解体されようとしていた。
「だから、この護符の所有者が命を落とすのか」
相変わらず私は微動だにすることが出来ない。
鼓動が早鐘を打ち、汗がじんわりと噴き出す不快感に包まれながら、思考だけが不釣合に加速していき、私の意志とは無関係に会話を成立させている。
奇妙な程に現実感が無かった。
鍋島瑠璃が護符を手に取り、表面に記された文様を、指をなぞった。
「人間が抱く殺意には、どうしたって不純物がまじります。憤怒、愛情、躊躇、悲哀といった感情です。巫女はそうした不純物を、その体内で濾過し、殺意を抽出し、護符に込めました。僕は恐ろしい。純然たる殺意に晒されるという事が、心にどんな悪影響を与えるか、想像することすら憚られる」
濾過された殺意。
殺してやりたいという、思い。
護符から漏れ出した殺意が、所有者に染み込んでいく。
彼らは何を見た? 何を聴き、何を嗅いだ?
死んだほうがまし
そう思えるほどに、
忌まわしいものだったのだろうか。
「しかし、鍋島瑠璃」
地の底から這い上がる様な悪寒に、私は現実感を取り戻す。
腹の底からせり上がる様な恐怖に、私は現実感にしがみつく。
「お前は巫女がその護符を作ったというが、聴こえぬ見えぬ嗅げぬ巫女にどうやって護符を描くことが出来るんだ?」
護符を弄んでいた鍋島瑠璃の動きが止まった。
「舌ですよ」
彼の目が射竦めるようにこちらを見据えた。
必死で保とうとする現実感が再びぐらりと揺れた。
「聴こえない、見えない、嗅げない。凡そ言語という概念すら持ち合わせなかった彼女が、殺意を物質化
するために用いることの出来た器官を考えれば、それにしか考えられません」
思考の暗闇の中。
蠢く舌が脳裏に浮かんだ。
ぬらぬらと光る舌が、
墨汁を掬い取り絡め取り、
次第に真黒に染まっていく。
舌は、
まるで触角を毟り取られた昆虫のように、
滅茶苦茶に、
のたうち回り――
護符だけが残った。
「言語学者はこれは文字ではないと言ったそうですね」
護符を卓上に滑らせながら、鍋島瑠璃は言った。
「そう、文字ではありません。彼女は言語を有しなかったから。しかしながら、決して無意味というわけではない。彼女にしか、いや、彼女と"神"にしか解することの出来ない理法を以ってこの護符は描かれています」
「ここには、殺意が描かれているんだな」
護符を取り上げ、私は再びそこに描かれた文様を見た。
波線と言うべき線が何本も縦に通っている。薄汚れた紙面に踊る墨の内に、巫女の唾液が光った様に思われ、微かな嘔吐感を覚える。
暫く凝視していたが、私にはそこに書かれた何かを読み取る事は出来なかった。
「岳羽刑事」
鍋島瑠璃の言葉に私は現実に立ち戻る。そこで私は護符から目を切った。軽い目眩を感じる。
自分が思いよりずっと長い間、私は護符とにらめっこをしていたようだ
「その護符に書かれていることを読み取る方法がたった一つだけあります」
積み上げた仮説が、一つの真実に到達する。
「自分の耳と目と鼻を、引き千切れば良いんですよ」
* * *
応接室は沈黙に包まれていた。
凍りついたような空間の中で壁に掛けられた時計の秒針が、かちりかちりと正確に時を刻んでいた。
「これは根拠の無い憶測でしかありませんが」
沈黙を破ったのは、やはり鍋島瑠璃だった。
「殺意には、凡そ人間が抗し得ぬ"甘み"があるのではないでしょうか」
「甘みか。確かにそうかもしれんな」
鼓動が普段のペースを取り戻し、私の身体に適切なリズムを齎しつつあった。縛り付けられるような圧迫感は雪解けを迎え、私は私の制御を取り戻していた。
「その蠱惑的な甘みに中てられた人間が、禁忌に惹き寄せられ、自ら死を選び取ったというわけか」
「かつて村に蔓延した死についても構造は同じです。この場合は、願いが成就したと見るべきなのでしょう。村の人間が殺意を抱き、巫女がそれを護符をして物質化し、神に奉じます。その次の段階は何でしょうか?」
「神による奇跡の実行だな。かつて悪党の某を松の木に突き刺したような」
「そうです。微かな殺意は神社を経由することで純化し、最終的には狂気として村人に還元されます。論理的考察にもはや意味などありませんが、もしかしたら"鵙神社"を祭り上げるという行為自体に、人々を狂気と結びつける何かが備わっていたのかもしれません」
「その狂気が鵙の巫女を切掛に"発症"したということか」
「そういう見方もあるということです」
この考察が、論理的なのか非論理的なのか、私にはもう判断できなくなっていた。
証拠や動機ならまだしも、神の存在などというオカルトを真面目に言及している時点で、私は刑事としては失格なのかもしれない。
しかしながら――
殺意が人を死に至らしめる
私の知る限り、それは普遍的な真実に他ならなかった。
「それで次は俺が死ぬ番という訳か」
この護符が人を死に至らしめるという当初の考えがいよいよもって現実味を帯びてきた。
じわりとした恐怖感を打ち消すように、私は努めて明るい口調で言った。
「岳羽刑事」
鍋島瑠璃が微笑を浮かべる。
「そうさせないために、僕はここにいるのですよ」
彼は立ち上がり、まるで猫のように緩慢な伸びをした。
「行きましょう。岳羽刑事」
「行くってどこにだ」
「鵙神社ですよ」
彼の目に再び深い青い色の光が灯った。
「全ての鍵はそこにあります」