参
三件の連続怪死事件には幾つかの奇妙な符合が存在していた。
第一の符合は自殺の方法である。
三名の犠牲者は何れも耳と目と鼻が引き千切られていた。発見当初は何者かによって死後損壊されたという見方が主流であったが、監察医は即座にそれを否定した。犠牲者の手指に付着した血液や肉片の状況から鑑みて、彼らが自分自身の手で千切り取ったことは明白であるという。
死因は"外傷性ショック"所謂ショック死であり、耳と目と鼻を無理矢理に千切り取った痛みと出血が直接的な死の要因だった。
第二の符合は時間である。
八月の第二週そのたった七日間の間に死体は立て続けに発見されていた。被害者が何れも一人暮らしであったことと折からの猛暑が重なった結果、死体は著しく腐敗しており、正確な死亡時刻の断定は困難を極めた。最終的な結論は三人の犠牲者は同日に死亡しているとの事だった。
犠牲者は全国に点在しており、当然、直接的な面識な無かった。
第三の符合は、この事件を象徴する一等奇妙なものである。
犠牲者たちは全員ある"護符"を所持していた。ある者は額縁に入れて壁に掛け、ある者は無造作に机の中に放り込んでいた。そして、ある者は血と肉片に塗れた手に、その護符を握り締めていた。三枚の護符はいずれも同一のものであり、経年により薄茶色に変色した短冊状の和紙に蛇のように曲がりくねった何重もの曲線が描かれてた。
言語学者に調査を依頼したが、札に描かれた線は凡そ言語と言えるものでは無いということしか分からなかった。
彼らはインターネットを経由して"ある人物"から護符を譲り受けていた。その人物は"呪い"や"祟り"に纏わる曰くつきの品を何年も前から常習的にばら撒いている男であった。詰まる所、あの"護符"もそういった呪われた品というわけだろう。
三件の事件を結びつける人物について調査を行うため、私はその男の自宅に赴き、任意の事情聴取を行った。
にやにやと下卑た笑いを浮かべ、被害者に対して何ら悪びれた様子も無い男に憤り、私は思わず「お前が殺したんだ」と口走ってしまった。下手をすれば懲戒ものの問題行動だが、男が沈黙を守ったこともあり、公にはならなかった。
私は確信していた。
この災厄は、あの男が引き起こしたものであるということを。
上述の様な不可解な点は多かったものの、捜査は早々に決した。
監察医の署名捺印付きの「自殺に間違いなし」という書面が効力を発揮し、数々の疑問点は検討に値しない偶然の一致として黙殺され、連続怪死事件は粛々と収束に向かおうとしていた。
刑事課のデスクに腰掛け、コーヒーを飲みながら私は事件ついてある仮説を組み立てていた。
閃きは、あの男に出会った時に訪れていた。
たった一つの不条理に目を瞑れば、この事件は合理的な解釈を行うことが出来る。
因果関係は全くもって不明で、いわば刑事の勘とでも言うべき暴挙であることは重々承知だ。だが、そう考えるとこの奇妙な事件は非常に明快な構造に再構成されることもまた事実であった。
"護符の所有者が、耳と目と口を千切り取って死んでいる"
これは、つまりそういう事件だ。
ここまで考えて、私は思わず苦笑した。こんなオカルトめいた考えを警察が採用するわけはない。
卓上に置かれた一通の封筒に目を落とす。
表には『岳羽武様』と達筆とも悪筆とも取れる蚯蚓ののたくった様な文字が踊っていた。「やられた」と思った時にはもう遅かった。
差出人は馬鹿にしたような偽名だったが、誰が差し出したかは明白であった。
無造作に切り取られた封筒からは、一枚の護符がちらりと覗いていた。
* * *
「岳羽さん」
護符を見つめながら、これからどうしたものかと思案していると、新米の刑事が私の肩を叩いた。
「岳羽さんにお客様がお見えです。先日調査依頼を受けた民俗学の先生の使いの者だそうで」
「使い?」
そう言えば護符の調査について近隣の大学の民俗学教授に依頼を出していたことを思い出した。そう言えば、約束の日は今日だった。
それにしても"使い"とはどういうことだろう。先方に何か不都合でもあったのだろうか。オカルトの専門家である民俗学者に話を聞けば、問題解決の糸口くらいは掴めるかと思っていたが、余り期待は出来そうに無かった。
「それ何ですか? もしかしてあの怪死事件の新資料とか?」
新米刑事が封筒に手を伸ばそうとする。
「触るな!」
思わず、大声が出た。喧騒に包まれていた部屋が沈黙に包まれ、私のデスクに視線が集中した。私は新米の腕を掴み顔を引き寄せると、耳元で囁くように言った。
「個人的な資料だ。恥を掛せないでくれ」
訳知り顔で頷く新米をデスクに残し、封筒を引っ手繰るようにポケットに突っ込むと、私は逃げるように応接室に入り込んだ。
* * *
「はじめまして。僕は鍋島瑠璃と申します。社会学部民族学科加賀谷研究室所属の学生です」
彼はそう言って、私に手を差し出してきた。軽くウェーブの掛かった髪と切れ長の眼が、まるで猫の様な印象を私に与える。青いジーンズは細身の体に程よくフィットしているのに、白いシャツはややサイズが大きく、全く調和が取れていない。余り見た目に頓着が無いのかもしれない。
「岳羽武です。今日は加賀谷教授にご相談がありまして」
私は差し出された手を握り返し、業務用の作り笑いを浮かべながら、単刀直入に言った。考えたいことが山のようにあるからお前になど用は無い、と伝えたかった。
彼は心底困ったという表情を浮かべ、髪の毛をくるくると弄んで言った。
「教授は、その、急な用事が入ってしまいまして、来ることが出来なくなってしまいました」
警察の調査要請に優先する用事は何だと尋ねたかったが、堪えた。
「では、またの機会ということで」
椅子から立ち上がり掛けたところで、鍋島瑠璃は慌てた様子で声を上げた。
「教授から、これを預かっています」
彼はポケットから茶封筒を取り出し、私に差し出した。表には一言"紹介状"と書かれていた。私は黙って封筒を受け取ると、無造作にその封を破った。中にはくしゃくしゃになったレポート容姿が収められていて、お世辞にも綺麗とは言えぬ文字が踊っていた。
解読には苦労したが、そこには、自分は訳あってベトナムへ行かねばならないということ、約束を破って申し訳ないということが書かれており、そして、
貴殿のご相談には、小生に代わって鍋島瑠璃が対応させて頂くことご容赦願いたい――
そのように結ばれていた。
「これを書かせるのが精一杯でした」
私が手紙を読み終わるのを察してか、鍋島瑠璃は言った。彼は私の怪訝な視線を正面から受け止め、にこりと微笑んだ。私を見つめる彼の目には青み掛かった光が宿っていた。先天的に眼の色素が薄い、青い眼をした人間は少なからず存在する。彼もその一人だろう。目を合わせていると、その魔術めいた瞳の煌めきの深みに呑まれそうになるのを感じ、現実感を保とうと私は思わず頭を振った。
「警察の内部情報が含まれる案件だ、君の様な学生には――」
「でも、人死にが出ているんでしょう?」
彼の青い眼が再びこちらを射竦める。相変わらず微笑を浮かべたままではあるが、こちらの思考を読み取るような挑戦的な視線は、彼が常人とは少し異なる"特別な"人間であることを示しているように思われた。
刑事を長年やっていると、色々な眼をした人間に出会う。暗い闇を抱えた瞳のものも居れば、怒りの炎を内に秘めた瞳のものもいた、犯罪者の眼、被害者の眼、まあ様々だ。
稀にそんな普通とは違うという人間が事件において最も重要な役回りをすることがあった。
"彼ら"には私たちとは違う何かが見えているのかもしれない。
コイツなら――
刑事の勘が、再び私に囁き始めていた。
* * *
「刑事である私が超自然的な要因を認めるのは意外に思うかもしれないが、私なりに検討した結果、そう考える他にこの連続怪死事件を解読する手段が無かった。それに」
――次は、私かもしれないからな。
そう言って、私は懐から例の護符を取り出しテーブルの上に置いた。
「拝見します」
彼はそう言って護符を取り上げた。
そうして静かな声で「やっぱり……」と言った。
護符を見つめるその目からは先程まで湛えていた魔術めいた光は消え失せ、小刻みに震える瞳には明らかな狼狽の色が見て取れた。彼は暫くその護符をじっと眺めていたが、大きな溜息を一つ付くと、独り事のように言った。
「鵙神社…」
そうして私に向き直ると、真剣な面持ちで語り始めた。
「順を追って説明しましょう」
鍋島瑠璃はそう言うと、鞄の中から一冊の本を取り出した。丁寧に製本されてはいるが、所々に染みや汚れが目立つ、かなりの年代物であることが分かった。
「今から凡そ八十年前。ある郷土史家が一冊の論文を発表しました。"発表"と言っても、自費出版した稀覯本の一章節に過ぎず、戦争前夜の混乱期、民俗学も未発達だった当時、学術的な注目を集めることはありませんでした。読んでみると分かりますが、この論文は"鵙神社"という寒村の神社を研究対象として、丹念な調査から室町から明治に至る神社の由緒来歴伝承を詳らかにしたものです。非常に優れた研究で、事実、戦火を潜り抜けた何冊かが昭和のある時期に相次いで発見され、一時期は再評価の流れもあったようです」
――これが、その稀覯本です。教授から預かってきました。
そう言って彼は本をパラパラとめくった。堆積した本の山に埋もれて長年開かれなかったのだろう、古書特有の饐えた匂いが室内に広がった。彼は暫く愛おしそうな目つきで本を眺めていたが、不意にパタリと本を閉じた。
「この論文について、何人もの民俗学者が調査検討を行いましたが、結局一本の論文も発表されることはありませんでした」
「何故だ? 私には良く分からないが、それなりに良い研究だったのだろう?」
「内容に問題があったのです」
「問題?」
「そう、倫理的な問題が」
そう言って鍋島瑠璃は稀覯本を私に寄越した。
私は黙ってページを開き、そこに記された狂気の物語に没入した。
神木に刺し貫かれた悪人。
もぞもぞと蠢く、奇形の蚕。
蔓延する死。
振り下ろされる鍬。
祭礼。
飛び降りた男。
嗤う神主。
目も、耳も、鼻も無い娘。
鵙の巫女――
* * *
「研究内容は素晴らしいものでした。特に狂人が語る村の呪われた歴史は資料的価値に加え、一つの読み物の様な活き活きとした臨場感に満ちており、評判高い」
――何より、気持ち悪いですよね
応接室の無機質な白い壁を見やりながら、鍋島瑠璃は言った。
「まず問題視されたのは、殺人を含む複数の怪死事件の描写です。語りの雰囲気に呑まれて見失いがちですが、彼の独白には明らかにいくつか不自然な点があります。例えば、村で怪死が頻発しているにも関わらず、官憲が出動した様子がありません」
目に怪しげな光を灯したその学生に、私は気圧され、息を呑み、その話に聞き入っていた。
資料があり、民俗学者が居る。
たったそれだけでこれだけの物語が組み上げられるものかと私は舌を巻いていた。
しかし、そんな驚きなどどこ吹く風で、鍋島瑠璃は朗々とした声で自説を語り続ける。
「村人たちが公権力の侵入を拒んだ理由は何でしょうか? 確定的な論拠は示されていませんが、少なくとも、村には明らかにされたくない秘密が隠されていたように感じます」
「秘密か。それが研究が秘匿された要因というわけか」
「村に死が蔓延したのは明治時代、精々《せいぜい》百年程度前の話です、ほんの最近と言っても良い。そんな最近に、村中で変死が相次ぎ、それを隠匿した上、奇形の巫女を盲目的に信仰していたなんて"痕跡"を無神経に表に出すことが我々には憚られたんですよ。それゆえに、研究は意図的に無きものにされました」
部下が入室しコーヒーが差し出された。鍋島瑠璃は微笑み「ありがとうございます」と頭を下げると、それを一口啜った。
「私は英断だったと思う。私が言うのも何だが、好奇心で侵してはいけない領域というものはある」
「同感です。研究ならば何をしても良いという考え方は好きにはなれませんので」
「君の先生に聞かせたい台詞だな」
「それを言われると、返す言葉がありません」
そう言って笑う彼はどこにでもいそうな普通の学生のように見えた。時折見せるあの魔術めいた目の輝きが嘘のように思えてならない。「目は口ほどに物を言う」という言葉があるが、彼の目は"口以上に"物を言うようだ。
それが無意識なのか、意図して行っているのか、私は判別できずにいたのだが。
「結局、鵙神社は再び歴史の闇に埋もれるはずでした。しかし――」
「そうはならなかった」
鍋島瑠璃はコーヒーを両手に抱えたままコクリと頷いた。
「秘匿された論文が流出したのか、口性のない誰かが内容を漏らしたのかは分かりませんが、"鵙神社"に関する失われた研究があるという事が、実しやかに噂されるようになりました。それはまるで怪談の隠匿それ自体が、新たな怪談となっていくような不気味な連鎖でした」
見えぬからこそ、想像してしまう。
想像してしまうから、恐怖が生み出される。
怪談は、こうして生み出されていくのだろうかと私は思った。
「もはや民俗学者の手を離れ、人口に膾炙したその噂は拡散されながら、多種多様な形態を得るに至ります。見るに耐えない、聴くに耐えない物語が闇の中から次々と湧き出し、溢れていきました。しかしながら、今度はその有象無象の噂たちがヴェールとなり、鵙神社に掛かる真実の物語は、当初の意図通り曖昧模糊としたものになったわけです」
「皮肉なものだな。こうして証明まであるというのに」
私は手元の稀覯本に目を遣る。先ほどまでは何の変哲も無い古書だったそれが、何らかの呪物のようにすら思えてくる。ずしりと、本が重みを増したように感じた。
「既に真相が明らかになっている訳だから、後追いの噂に学術的価値は無いと判断した民俗学者たちは拡大する噂を黙殺します。この話はここで終わりだと誰しもが思った。でも民俗学者たちは忘れていたのです。この物語には忌まわしい"謎"が幾つも残されていことを」
謎。村に隠匿された何か。
「噂はそれ自体がまるで意志を持つ生き物のように、ある一点の共通点を有するようになりました。"集合知"なんて言葉があるように、噂に晒された数多の人々が、謎について考える中で至った結論めいた何かだったのかもしれません。それは、余りに突飛で、余りに忌まわしく、そして科学としての民俗学でには到底到達できない領域でした」
鍋島瑠璃はそこまで言って、言葉を切った。
そうして何かを考えこむように、顎に手を遣った。
今にして思えば、それは彼の民俗学者としてのプライドだったのだろう。
科学とかけ離れた所から湧き出た、忌まわしく呪わしい"真相"を受け入れることに対する――
「僕には、その噂が真実を言い当てているような気がしてなりません」
彼の目が私を真っ直ぐに捉えた。
その瞳が湛える碧い光に、意識が吸い込まれるような感覚を覚える。
「あの神社は人間の殺意を内包している」
護符に刻まれた"何か"が、微かに蠢いたように感じた。