弐
幼い頃から人と目を合わせるのが嫌いだった。
他人の視線に曝されることが酷く苦痛だった。
視線というものは無造作で無遠慮で無神経な、ある種の凶器に他ならない。皮膚に覆われ、肉に包まれ、骨に守られた私の内奥に存在する脆く繊細な何かが、視線によって陵辱される。
視線に乗って、目を通じて、他者の意識が私の中に根を張り巣を作り、私という領域を侵そうとしているように感じてならなかった。
家庭に、街に、学校に、職場に、視線は遍く存在し、私を責め苛み続けた。
家庭で、街で、学校で、職場で、視線を避ける事だけを考え、私は暗がりでじっと耐え忍んでいた。
今でもそうしている。
必然、一人でいる時間が増えた。視線を遮断し、孤独に浸る間だけが私の幸福だった。
私は蚯蚓になりたかった。
暗く冷たく一人ぼっちの土塊の内に在って、泥を啜り土を喰み、孤独と平穏の内に生きて行きたかった。
しかしながら、私を取り巻く全ての要素が、私に孤独を許さなかった。
自室に籠もることを親が許さなかった。街に出なければ生活が立ち行かなかった。学校に行かなければ教育を受けられなかった。就職をしなければ金を稼ぐことが出来なかった。
いつのことだったか。
日に焼けたコンクリートに一匹の蚯蚓の死体がこびり着いていた。熱に焼かれ変色した身体は黒く爛れ、至る所に蟻が纏わりついていた。茹だる様な炎天下、私はじっと蚯蚓が朽ちて行く様を眺めていた。
自転車がやって来たかと思うと、蚯蚓の死体を轢き潰していった。
コンクリートにこびりついた薄汚い肉片だけが残った。
外に出なければこんな事にはならなかったのに。
けれど、私はやっぱり蚯蚓になりたかった。
中学に入った頃だった。
私は飛び交う視線を遮断するように、教室の隅で本を読んで一日を過ごしていた。
同級生は私を無視し、居ないもののように扱った。
時折投げかける好奇の目に対する怖気にさえ、目を瞑っていれば、私は概ね幸せだった。
いつからか殴られるようになった。
殴られて、金を取られるようになった。
私が視線を合わせず、黙って殴られ、金を払い、時には相手の靴を舐めた。
それでも私の心は動かなかった。
ただ。
そのうち、同級生の侮蔑と嘲笑と憐憫の篭った視線が私に纏わりつくようになった。
それだけが、苦痛だった。耐え難い苦痛だった。
初めて人を呪ったのはその時のことだ。
別段"呪い"に興味があったわけではない。
自分の内に凝り、沈殿していく気味の悪い汚物を吐き出したかっただけだ。
たまたま目に止まったものが呪いだったから。
私は人を呪った。
それだけのことだ。
放課後図書館に籠もり、呪術に関する書籍を読み漁り、その手法を暗記した。殴られ、蹴られ、唾を吐きかけられながら、その手法を反復した。視線に耐えられず時に嘔吐しながら、その手法を習得した。
ある日の深夜、私は家を抜け出して、近所の神社に出掛けた。
月の綺麗な晩だったことを今でも良く覚えている。
鳥居を潜り、手水場で身を清め、参道を進んだ。
そして。
さして親しくもない隣家の子供の名を書いた人形を、神木に括りつけた。
別に同級生たちを恨んでいたわけではない。
私はただ、澱の様に体内に堆積し、肥え太っていく気味の悪い何かを吐き出したかっただけだ。
だから相手は誰でも良かった。
寧ろ、見ず知らずの誰かの方が、気分が良かった。
呪いが成就しようがしまいが、それもどうでも良かった。
呪った子供がどうなったのか、私は知らない。
* * *
以来、私は呪いを撒き散らしながら、生きてきた。
陰日向に潜み、時に日光のもとに引きずり出され、殴られ蹴られながら、誰とも知らぬ他人を呪い、帳尻を合わせてきた。
良心が痛まなかったと言えば嘘になる。
私の様な欠陥を抱えた人間の、言うなれば排泄の様な行為に見知らぬ誰かを巻き込んいるという自覚が無かったわけではない。しかしながら、やっぱりそれは"見知らぬ誰か"であり、いくら思いを馳せようと、申し訳ない程度の感慨しか浮かんでこなかった。
すれ違い、隣り合っただけの誰かは一般化され矮小化され、居ても居なくても変わらない路傍の石のような存在に過ぎなかった。
路傍の石に思うことなど何もない。
長じて私は就職し、工場で玩具を作るようになった。
ベルトコンベアーを流れてくる手や足や首を繋ぎ合わせて人形を作る仕事は、人の視線に曝される機会が極端に少ないという一点で、私にとっては天職とも言えた。
その頃には私は人を呪うことを止められなくなっていた。
厳密に言えば、止める気が無くなっていた。
妻子を得たことがきっかけだ。
見合いをし、結婚をして、子供が生まれた。
妻が私を見つめる目。
子が私を見つめる目。
蚯蚓の様な人生の中で初めて心の底から尊いものを得ることができたという実感があった。
失いたくなかった。
だから私は誰かを呪うことで均衡を保った。
均衡を保ち、生活を保ち、心を保った。
そうやって、私は――
必死で人間の振りをした。
* * *
その神社の存在を知ったのは全くの偶然であった。
定時で仕事を終えた私が更衣室の隅で着替えをしていると、どやどやと同僚が入ってきた。彼らは平素と変わらず、私を無視して大声で会話に興じていた。
別に盗み聞きをする積もりは無かった。話し声が余りに大きく自然と耳に入ってしまったのだ。
聴くに、同僚の叔父だか甥だかが東京で民俗学者をしており、その者から伝え聞いた話らしい。
鵙神社――
不可思議を好み、不条理を愛する民俗学者の間にあって、その名は一種のタブーになっているそうだ。
噂に拠れば、かつて在野の郷土史家によりこの神社の由緒来歴伝承の研究が行われたことがあったらしい。研究成果は少数ながら稀覯本として頒布されたのだが、当時我が国の民俗学が黎明期であったことに戦中の混乱が重なった結果、殆ど陽の目に触れることはなかったらしい。
昭和の中頃、この稀覯本が史上から出土した。
どういう伝手を使ったか丹念な調査に裏打ちされたその論文の資料的価値は高かったようで、複数の学者が研究対象とし、検証あるいは解釈を行った。
結論から言えば、その何れもが公表されなかった。
事実、今日に至るまで、鵙神社に関する研究が行われた形跡は全くない。
噂があり、資料がある。
何故研究が行われないのか。
誰かが囁いた。
倫理的な問題があったんだよ。
人倫に触れる忌まわしい何かが、あの神社に隠されている。
興味が湧いた。丁度、そろそろ新しい呪いを行わなくてはならないと思っていた。
誰にも気付かれぬように、私は更衣室を出た。
背後から、誰とも知れぬ声が追いかけてくる。
――あの神社は人間の殺意を内包している。
* * *
休日を利用して鵙神社について少し調べた。
意外にも、鵙神社は神社庁に正式に登録された神社として今日に至るまで存続していた。縁起によると建立は室町時代、祭神は"素盞鳴尊"である。
図書館に赴き、過去の新聞なども調べてみたが、大きな事件が報じられた形跡はなかった。
唯一、明治初期に地すべりがあり、神社だけを残して村が消滅していたことが分かった。
神社の場所は、容易に知れた。
半ば朽ち果てた林道の果てに、その神社はあった。
石造りの鳥居を抜けると、凡そ人が登るに適さない程に急な階段が続いている。
神社を取り囲む松林が障壁となり、階下から覗きこんでも本殿を伺うことは出来ない。幾千幾万の針葉が天然の遮光幕を形成し、参道は山中ということを差し引いても不気味な暗闇に包まれていた。
階段の根本には風雨に晒され、薄汚れた石碑が置かれていた。傷つき、欠け、削り取られた石碑の表面に目を凝らす。神社の名前は分かったが、由緒来歴は読み取ることが出来なかった。
空気の鈍重さに息苦しささえ感じながら、私は階段に足を掛けた。
急な怪談を登り終えると、再び鳥居があり、境内が広がっていた。
境内の隅には立派な松の木が聳え立っていた。注連縄が巻かれているから、これが御神木であろう。
下から見上げてみると、かなりの高さがある。樹齢は恐らく数百年に登るだろう。
その巨体に圧倒され、私は暫く神木を眺めていた。
びしゃ。
背後で、水風船の破裂するような音がした。
振り返っても、何もなかった。
境内に敷き詰めたれや石畳が、そこだけ黒く汚れているのが嫌に目に残った。
再び境内を見回す。
どこから転がってきたのだろうか。
境内の真ん中に、鍬が一本置かれていた。
本堂の方を見遣ると、少しだけ扉が開いている。先程は扉は閉まっていたはずだ。
境内に何かの気配が濃密に立ち込め始めた。
怖い。
そう思った。
私は半ば導かれるように本堂の扉に手を掛けた。
黒い。真っ黒だ。何も見えない。
手探りで壁を伝っていると、何かが手に引っ掛る気配があった。爪で擦ると剥がれて地面に落ちた。
手にとって背後の光に翳すと、それは"護符"であった。
本堂の内部は、護符で埋め尽くされていた。
"鵙の巫女に客人じゃ"
背後で何者かの声がする。
"鵙の巫女に客人じゃ"
背後に何者かが立っている。
私は何枚かの護符を千切り取ると、目を閉じ、そのまま本殿を出、境内を駆け抜けた。
足が縺れ、盛大に転ぶ。ひざ下がぱっくりと割れ、血が滴った。
這うように石段を降りた。
目を閉じ、全身に切り傷を作りながら石段を降りきった。
目を開ける。
石段の上から、何かが私を見ていた。
それはこれまで感じたどんな視線よりも忌まわしく、呪わしく、そして異質だった。
それは私を見ていて。同時に見ていなかった。
突然に吐き気が込み上げ、私は嘔吐した。
* * *
呪う積もりで神社を詣で、神社に呪われて逃げ帰ってきた。
敗北感にも似た倦怠が体中に重く纏わりついていた。深く裂けた膝下からは今だ血が滴っている。
手元には、護符だけが残されていた。
さて。
私にとって呪いは行為そのものが目的であったから、その結果に興味が無いのと等しく、"呪具"に関してもさほど興味は無かった。インターネットの掲示板で希望者を募ると、呪いを求める数多の人間が誘蛾灯に惹かれた蛾のように集まってきた。誰とも知らぬ人間たちに、呪いの残滓を配ることが私の日課になっていた。
いつからか賞賛されるようになり、どこからか礼賛されるようになった。
呪いは拡散され、私の知らぬ誰かに、二次的三次的な被害を拡大していった。
それも、私にはどうでも良いことだった。
護符は四枚あった。
いつもと同じように希望者を募った。
その日の内に四枚全ての受け入れ先が決定した。決定したので、投函した。
そうして札のことは綺麗に忘れた。
そうして幾日が過ぎた頃、私の家を一人の刑事が尋ねてきた。
岳羽と名乗ったその刑事は、三人の人間の名前を挙げ、何か知っていることは無いかと言った。それは私が請われて護符を送った四名のうちの三名だった。
全員、自殺したそうだ。
自らの耳を削ぎ、目を抉り、鼻を削いで、
死んだそうだ。
少なからず驚いた。驚いたので、正直に話してやった。
刑事の顔に一瞬狼狽の色が浮かんだが、それはすぐに隠れて消えた。
代わりに浮かんできたのは、燃えるように赤い、怒りの色であった。
本来、一般の方に漏らすべき情報ではないのですが――そう前置きをした上で、刑事は言った。
「警察はこれら三件を自殺と断定しています。目と耳と鼻を引きちぎるという異様な共通点はありますが、それらはきっと偶然の産物なのでしょう」
探るような、射竦めるようなその視線に吐き気を抑えることが出来ない。
だが、私は同時にちりちりと身を焦がすような静かな快感を感じていた。
「良く出来た偶然ですね」
「全くです」
刑事はそう言うと、失礼しましたと言い、ドアノブに手をかけた。
そのまま出て行くかと思ったが、彼は振り返り、私の目をじっと見つめた。
胃の内容物がせり上がる不快感と、燃え上がる快感が交じり合うのを感じた。身を捩りたくなるような混沌に目を震わせながら、私は刑事を視線を受けてたった。
誰かの視線に応えたのは何年ぶりだろう。
刑事は静かに言った。
「私は」
――貴方が殺したと思っていますよ。
刑事はそのまま出て行った。
私は洗面所に駆け込むと、そのまま胃の中身を全てぶちまけた。
それは、初めて感じる堪え様の無い快感であった。
ある程度予想はしていたが、最後の札は、宛先不明で返送されてきた。
顔の見えぬ取引であるから、こういうことは良くある。
再度連絡を取ることも考えたが、せっかく拾った命だ、大事にして貰おう。
私はパソコンの電源を入れた。
岳羽とかいう刑事の所属する警察署の住所は案外簡単に見つかった。
私は丁寧にその住所を封筒に書き写し、それが終わると、最後の護符をその封筒に入れ、唾液を塗り付け、しっかりと糊付けした。
この封筒が届いたら、あの刑事はどんな顔をするだろう。
私は生まれて初めて、殺意をもって呪いを行おうとしていた。