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四季廻り

新緑の候

作者: 北海

 その日は朝から細かな雨が降っていた。

 このくらいならばと傘を持たずに出たのが祟ったのか、昼過ぎには雨足もずいぶん強まっており、青年は学帽の下から曇天を見上げた。

 灰色の空気に溶けるような、とかく色素の薄い青年である。同じ学び舎で机を並べる同輩たちも、軒先に立ち尽くす青年を見つけると一瞬ぎょっと立ち竦んだ。日向の下では柳のような風情の青年も、ことこのような日和となれば静謐が過ぎていっそ幽霊のような立ち姿である。

 青年は向けられる視線を知ってか知らずか、さてどうしたものかと思案に耽った。

 急ぐ用事があるかと問われればそれは否である。田舎の寒村で生まれ育った身ではどこぞへ遊びに繰り出せるほど手持ちもなく、かと言って学費を稼ぐために働かねばならぬほど貧窮してもいない。才気煥発なところを見込み高等学校どころか大学にまで進学できるよう援助してくれた奇特な名士がいるのである。

 その名士の名を、御堂杜惟。先日その姪にあたる少女と見合いし、半年後には彼女との結納を控えている青年にとっても、一応は義理の伯父ということになった人物である。

 ふと、青年は思い出した。見合いの話を聞いた同輩が、顔をしかめて吐いた言葉を。

『幾ら恩義のある相手といったって、いやだからこそ、そんな人の親族と縁付くなんて俺なら御免だ』

 何故かと、青年は問うた記憶がある。それに同輩は呆れたような表情をして、その癖どこか、憤りを抑えるようにこう答えたのだ。

『一生をともに過ごす相手に、こちらはずっと頭が上がらないということじゃないか!』

 そういうものかと青年は思った。いや、何も感じなかったと言った方が正しいかもしれない。

 瑣末なことだ。一歩軒先から踏み出すと、足元で水が跳ねた。

 雨音が騒がしい。霞がかった視界の端に、新緑ばかりが鮮やかに映る。

 郷里ではもう雪は溶けただろうかと青年は思った。こちらではとうに桜も散りすぎていったが、あちらは今頃山桜が見頃を迎えているに違いない。茅葺屋根の裏手に広がる山の木々が、ぽつりぽつりと薄桃色に染まる景色は見飽きぬほどに見事なものだった。

(見せに行きたいと言ったら、鏡子さんは困ってしまうだろうか)

 未だ婚約者とも呼べぬ間柄だ。恋人などと称するのは些か自惚れが過ぎるだろう。ではどう定義しようかと考えたところで、青年にとってはどうしたって「妻となる女性」以外に適当な言葉などないように思われる。

 遊びのひとつも知らぬ男だと、同輩達の間で呆れと賞賛、侮蔑を込めて囁かれていることを青年は知っている。事実、彼は女を買ったこともなく、博打に対して興味も沸かぬ。唯一酒だけは嗜むが、これが酔うことも知らぬざるであるのに酒の旨さ違いもとんとわからぬ無粋者とくれば、さて後は何をしたものかと青年自身途方に暮れるほどである。

 そういう所を指して、件の御堂杜惟などには真面目な男と評されたりもするのだが、当の本人からしてみれば真面目なのではなく面白みのない男の間違いではないかと思えてくることもある。

 そういうタチなのだ。弁解するというよりはいっそ開き直った心地で、青年はつと口角を上げた。

 相変わらずの灰色の空。新緑よりもなお鮮やかな、紅色の傘が横手から近づいて来る。

 細かな表情などは流石に窺えないが、それが紛れもなく自分の見知った相手だと確信して、青年はゆるりと瞳を細める。

「鏡子さん」

「泰孝様」

 名を呼び、呼ばれた次の瞬間には、鏡子の腕が目一杯伸びて傘を空に掲げていた。

 きょとんと瞬く泰孝に対し、鏡子はきゅっと眉根を寄せて、ひと言。

「風邪を引かれますよ」

「すみません」

 泰孝は自身の頬が緩んだことを自覚した。

 鏡子の手から傘を受け取り、代わりに持ってさしてやる。それが自分の方に傾いているのを見て、鏡子がもの言いたげに泰孝を仰いだ。

「せっかく綺麗に結われた髪を、濡らしてしまうのは詮無いでしょう」

「どうせ夜には解いてしまうもの。泰孝様が体調を崩される方が問題です」

「なに、これでも自分は男で、しかも寒さには滅法強い生まれですから。この程度、行水にもなりませんよ」

「まあ」

 強がりを言うのかと、些か厳しい鏡子は視線を泰孝に向ける。

 彼は苦笑して、私は信用なりませんか、と悪戯めいて問うた。

「その尋ね方は、少し意地が悪いと思います」

「すみません」

 拗ねた顔も、可愛らしいものだ。泰孝は言葉にこそしないが、耳の先を赤くした鏡子を優しい瞳で見つめる。

 雨は空気中の余計な汚れを落としてしまうのだという。そのせいか、雨音は絶えないというのに不思議と静寂を感じた。道を歩いているだろう他の人々の気配もぼんやりと遠い。

 初夏が訪れる前の湿った空気が鼻をつく。水の匂いを嫌うわけではないが、郷里では縁遠かったじめついた梅雨が近づいてくることを否応なく予感させた。

 ほう、と鏡子が小さく息を吐いた。何事かと視線を向ける泰孝に、遠くを見る瞳のまま「雨が」と口を開く。

「少し、強まってきたように思えて」

「言われてみれば、そのようですね」

 ふむ、と泰孝は思案した。ここから鏡子の住まう邸までは、遠いとは言わないが、近くもない。まして今は彼女の傘に泰孝が間借りしている状態だ。このまま帰れば、着物はすっかり濡れてしまうに違いない。

 それを厭っての言葉ではないのだろう。泰孝は自身が女心というものにとんと疎い自覚はあったが、鏡子はそんな彼に対し臆することなく真っ直ぐに眼差しを寄越し、言葉を投げてくる。言わずとも察せなどと無体なことも言わず、何か要求があるならばはっきりとそう口にする娘だ。

 鏡子は遠くを見つめている。泰孝はゆるりと瞳を細めた。

「では、少し雨宿りでもしていきましょうか」

「雨宿り?」

「美味かどうかはわかりませんが、ここらにある知人の家が、甘味屋を営んでいるのですよ」

 それは見合いの話を聞いて表情を歪めていた同輩の実家であったが、泰孝は気にしなかった。

 鏡子の視線が泰孝に戻る。二、三度瞬きをした後、くすりと笑みを漏らした。

「そこは嘘でも、『美味しい甘味屋』だと言えばよろしいのに」

「仕方がありません。自分は、貴女に偽りを述べたくはないもので」

「口が上手いのですね」

「本当のことですよ」

 ところが、言葉を重ねれば重ねるほど信用ならないと思われるらしい。くすくすと笑う鏡子に、泰孝はとうとう白旗を挙げた。

「敵いませんね、貴女には」

 それでも、それが不快ではない。泰孝はひたすら穏やかな心地を甘受していた。

 彼は芸者遊びに興味は湧かず、博打もせねば酒もわからぬ。男の遊びと呼ばれるものに対しちらとも関心を覚えないのに対し、ことこの少女に対してはふとした折にぽかりと浮かぶ願望が厄介だった。

(郷里の山の新緑は、鏡子さんの目にも鮮やかに映るだろうか)

 そうか、と泰孝は唐突に理解した。自分は鏡子に、いずれ妻となる少女に、知ってほしいのだ。自分が今まで見た、美しいもの全てを。

 それは郷里の山桜であり、新緑であり、重く頭を垂れる稲穂であり、冬の朝の雪原であった。そしてそれらは皆、泰孝にとって己を形作ってきたもの達でもある。

 一度気づいてみれば、何ということはない。浅ましい自身の願いに、泰孝は密かに苦笑した。

 鏡子さん。名前を呼ぶ。彼女は返事をする代わりに泰孝に視線を向ける。真っ直ぐに。彼は意識して声に色を乗せた。

「どうか私に、もう少し幸福な時間をいただけませんか」

 示す先は件の甘味屋の暖簾。

 言わんとすることがわかったのだろう。鏡子の頬にぱっと朱が散る。

 うろりと視線を彷徨わせて戸惑う彼女を、泰孝はせかすことなく待った。ため息がひとつ。ほんのりと色づいた頬が上向く。

「敵いませんね、貴方には」

 そうして、ふたりは並んで暖簾をくぐった。


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