お祭りの日
ドーン
腹の底に響くような音が空に鳴った。
それが合図だったかのように、健太は目を覚ます。少しだけ寝るつもりで晩御飯の後に横になったまま熟睡していたようだ。
畳の少し青臭い匂いと、仏壇の線香の香りが同時に鼻をつき、自分が田舎に来ていることを思い出した。
そしてまた、ドン、という音。
寝起きのぼんやりした頭で、ようやく花火の音だということに気付く。
健太は慌てて体を起こした。
縁側で仲良くスイカを食べている両親も健太が起きたことに気付いたようだ。
「起きたか。ちょうど花火が始まったところや。みんなで夜店でも廻りに行こか」
そう声をかけてきた父に健太は勢い良く言葉を返した。
「なんでもっと早く起こしてくれへんかってん!?」
父は健太の勢いに目を丸くしている。
「なんでって。いっつもこんくらいの時間に出掛けて夜店廻ってたんやで?」
「そうやで。花火は一時間くらいやってる予定やし。健太、花火なんてあんまり見んと屋台のたこ焼きとかを楽しみにしとったやん。せやからわざわざ起こさんでもええと思ったんよ」
父の言葉に、隣にいた母も口を添える。
そんなことはわかっていたが、文句を言わずにはいられなかったのだ。
「オレ、……ちょっと出掛けてくる!」
言い置いて慌てて玄関に向かった。
すぐに玄関の引戸がガラガラという音と共に開けられて、走って出ていく足音が遠ざかっていった。
残された父と母は顔を見合わせる。
「あの子、どこに行ったんやろ?」
「さぁ? 毎年ここに来たらおばあちゃんの後ばっかり着いて行っとったけど、今年は一人で町の方にも遊びに行ってたみたいやし、もしかしたら友達でもできて待ち合わせしとったんちゃうか?」
父は呑気に残りのスイカにかぶりつきながら言った。
「まぁ、健太ももう小学校の三年やしねぇ。でも道に迷ったりせぇへんやろか?」
「大丈夫や。あんまり構いすぎてもあかんやろ」
「そうやねぇ。そんなら私らも夜店とかちょっと見に行こか。おじいちゃんは誘っても一緒に行かへんやろか?」
言いながら奥の方を見る。自分の部屋にいるはずだ。
「そうやなぁ。毎年父さんも母さんもお祭りの日は一緒に出かけとったのに。今年は行かんとくって言うてたからなぁ。一応声だけかけてから行こか」
スイカを食べ終わって、父は立ち上がる。母もそれに合わせるように立ち上がってスイカを食べた後の片付けを始めた。
またさらに夜空に花火が散る。
この縁側からでは木々が邪魔になって全体は見えないが、綺麗さは充分に伝わってきた。
「やっぱり花火はええねぇ。去年見た花火とおんなじくらい綺麗や」
ふと手を止めて母は花火の方を見遣る。
「そらそうやろ。何年経とうが花火は花火や」
「そうやけど。人間は一年経ったら色んなことが変わったりするやん。そんでも、また去年と同じようにここで花火見れるなんてすごいことなんちゃうかなと、思って」
父も花火を見上げた。
「そうかもしれへんなぁ。健太も毎年大きくなるもんなぁ。いつまでここに来て一緒に過ごせるかわからんのかなぁ」
そんなことを言い始めたら、健太が一緒に花火を見ずに家を飛び出して行ったことがちょっと寂しく感じられた。
それでも、今日ここに一緒に来れたことが大切な事だと思わなくてはいけないのかもしれない。
空に咲く花を見ながらそんな風に思いを巡らす。
健太は力一杯走った。
約束したのだ。
場所がよくわからなかったから、昼間に散策して多分ここだろうという場所を見つけていた。
お祭りのメイン会場となる小学校の校庭とは逆の方に向かって急ぐ。ちらほらと人とすれ違ったりしていたが、段々それもなくなってきた。
人が少なくなって、街灯もぽつりぽつりとしかついていない。小さな川の流れているところまでやってきた。
暗くてよく見えないが川のほとりに人影があるのは間違いない。
土手を駆け下りながら思いきって呼び掛けてみた。
「ばあちゃん!」
それに反応して、人影が振り向いた。
「健ちゃん、そんなに走ったら転ぶよ」
やっぱりばあちゃんだ。
安堵の気持ちでちょっとだけ走る速度を緩めたが、祖母の方へ急ぐ。
祖母は健太が自分の側まで来るのを見守っていた。
「健ちゃん、走って来てくれたんやねぇ。今日はばあちゃん、ここで一人で花火見ることになるかもしれんって思っとったのに」
健太が祖母を見ると、とても嬉しそうな顔がそこにあった。
「オレ……。約束したから。それで……」
走ってきたので息が整わず、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「ほんまは夜店に行って綿菓子食べたかったんちゃうの?」
祖母はいたずらっぽく問いかけた。
その質問に健太はちょっと詰まりながらも言葉を返す。
「……綿菓子とかたこ焼きとか、そんなんも行きたいけど、でも、今日はばあちゃんと花火見るって約束したやん」
「覚えとってくれたんやねぇ。もう去年のことやし。ほんまはね、もうそんな約束忘れてるかもしれへんてちょっと思っとったんよ」
しばらく静かだった夜空にまた花火が上がった。遮る物のないこの川縁からはその姿がとても良く見える。
大勢の中で見る花火とはまた違って、幻想的にも見える。
ばあちゃんのとっておきの場所があるねん。
去年のお祭りの日に祖母が健太にこっそり言った言葉だ。
花火見るのにちょうどええ所。ちょっと山に行ったところに川が流れとるの健ちゃんも知っとるやろ? その川の土手から綺麗に花火が見れるんや。お祭りの会場とは逆にある場所やから誰も居らへん。父ちゃん達と夜店に行く前に一緒に行こうか。
その時も健太はお祭りの前に寝入ってしまって、結局その場所に行くことができなかったのだ。
そして、夜店を廻りながら祖母にこっそり言った。
ばあちゃんごめんな。オレが寝とったから。また来年! 来年は花火一緒に見に行こうや! オレ絶対覚えとくから! な?!
そう言う健太を見て祖母はにっこりと微笑んだ。
わかった。ばあちゃんも忘れへんからね。じゃあ、約束やね。
健太はなんだかすごい秘密ができたようで、ちょっと得意に思ったのだった。
「だって。約束したやん。オレ、ばあちゃんはもう忘れてるかもしれんって思ってた。そんでもここに来たらきっと綺麗な花火が見えるんやと思ったんや」
「そうか。……ほんまはこの場所なぁ、健ちゃんのお陰で見つけたんやで」
「オレの?」
健太は不思議そうに首をかしげる。健太にはここに来た記憶がなかった。
「覚えとらんやろうねぇ。まだ健ちゃん小さかったから。お祭りの日にみんなで出掛けようって言って準備してる時に、健ちゃんははしゃいでいつの間にか家から出ていってしまってたんよ。気付いてじいちゃんもお父さんもお母さんもみんなで探しまわって……。たまたまばあちゃんはこっちの方に探しに来てな、この川の土手まで来たんよ」
一旦、祖母は言葉を区切る。
迷子になったことがあるというのは母から聞いたことがあったが、健太自身はその時のことを全く覚えていなかった。
「そしたら健ちゃん、帰り道がわからんくなって不安やったんかわぁわぁ泣いててねぇ。慌てて駆け寄ったちょうどその時に花火が上がって。その音の大きさにも驚いたんかもしれんけど、暗いのを吹き飛ばすような明るい花火がものすごい綺麗で。健ちゃんも泣くのをぴたっとやめたんよ」
祖母は懐かしむようにぽつりぽつりとそんなことを話してくれた。
「オレ、そんなん覚えてへん」
健太は少し拗ねたように言った。
「そうやろ。でもばあちゃんにはこの場所、宝物みたいなもんやねん。せやから健ちゃんと一緒にここから花火を見たかったんよ。……ほら、また上がったよ」
祖母が指した先の花火を見ず、健太は祖母の方を向いた。
「ばあちゃん。それやったらオレまた来年もそん次もずっとここに来る! せやから一緒に花火見ようや!」
健太のその言葉を聞いて、祖母は少し悲しそうな顔になった。
「それはできへんのよ。ごめんね」
「なんで!? なんでできへんの!?」
「ばあちゃんな、大きゅうなった健ちゃんとここで花火見れて良かった。これから一緒におることはできへんけど、健ちゃんがここでばあちゃんと花火見たいうことたまに思い出してくれたらそれだけで充分」
祖母の体がうっすら光り始めたかと思うと、徐々に向こうが透けて見えるようになってきた。
健太はここで泣いてはいけないと思い、下唇をぎゅっと噛みしめる。
「ほら。健ちゃん。花火、綺麗やなぁ」
見ると、きっと終盤なのだろう。今までよりも勢いよく何発もの花火が空を彩っていた。
「ばあちゃん。あんなぁ、えっとなぁ、……」
言いたいことがたくさんあったはずなのに何も言葉が出てこない。
「今日、ここに来てくれてありがとう」
祖母が言う。
そうだ。自分もそう考えていた。ここで会えたことはきっとすごいことなのだ。
「うん! ありがとう! ばあちゃん、ほんまにありがとう!」
祖母がにっこりと笑う。健太の好きな優しい笑顔だ。
そして、すっと暗闇に溶け込むように消えた。
健太は、祖母が見えなくなってからもしばらくその場所を見つめていた。
花火は終わってしまった。
「健太ぁ」
急に土手の上から声をかけられて、びっくりして声の方を向く。
そこにいたのは祖父だ。
「じいちゃん! こんなとこでなにしてるんや?」
ゆっくりと祖父は土手を下りてきた。
「それはこっちのセリフや。健太こそこんなとこでどうしたんや?」
祖父は心配して健太を探してくれたのだろう。
健太はどう答えようか迷ったが、祖父になら言ってもいいだろうと思った。
「ばあちゃんに会っとってん。去年な、一緒に花火見ようって約束しとったから」
言って、祖父の様子を探るように顔を見上げる。
「……そうか」
ぽつりとそれだけを言った。
「信じてくれるん?」
「ばあちゃんは約束を守る人やからな」
「うん」
「去年の冬にあっけなく死んでもうたけど、その時健太は会えんかったしな」
「うん」
「会えて良かったな」
「うん」
「ばあちゃんはなんか言うとったか?」
「来てくれてありがとうって。一緒に花火見たことたまに思い出してって」
「そうか」
しばらく二人で流れる川を見つめる。
「健太。そろそろ帰ろか。遅うなったら父ちゃんらが心配する」
「うん」
来る時は夢中だったし、花火も上がっていたからあまり気にならなかったが、この辺りの暗い道を歩くのは一人では心細かっただろう。
迎えに来てくれた祖父に感謝した。
「じいちゃん、なんでオレがここにおるってわかったん?」
家路をたどりながら祖父の後ろ姿に向かって問いかける。
「昔迷子になった時もここにおったってばあちゃんが言うとったからな。とりあえず来てみたんや。そん時はびーびー泣いとったらしいけど、大きゅうなったもんやなぁ」
「ばあちゃんもそんなこと言うとった」
「そうか」
いつも口数の少ない祖父なので会話が途切れ途切れになるが、その沈黙もなんだか心地良い。
「たこ焼き買って帰るか」
遠くに屋台が並んでいるのが見えてきた。
健太は祖父の提案に「うん!」と勢いよく答えたのだった。