ある帰り道 :約2000文字
遅めの昼食を済ませ、家路についていた男は小さく眉を寄せた。
視線の先――丁字路に黄色い帽子を被り、ランドセルを背負った小学生たちの列が続いていた。まるで蟻の行列のように途切れる気配がなく、次から次へと子供たちが現れては甲高い笑い声や駆け回る足音を響かせ、昼下がりの静けさをすっかり塗り替えていた。
この近くには小学校があり、その道が通学路に指定されていることを男はふと思い出した。
――時間帯が重なったらしいな。
男は小さく息を吐き、子供たちにぶつからないように周囲に気を配りながら歩を進めた。
小学生ってこんなに小さかったか――そんなことをぼんやりと思いつつ、視線を一点に据えて歩く。あまりじろじろ見て、不審者扱いされてはたまったものではない。
そのまま子供たちの流れに合わせるように歩き続け、やがて曲がり角に差し掛かった。その先には本隊から離れたらしい子供がちらほらいる程度だった。
ようやく抜けられる。男はまた小さく息をついた。と、そのときだった。
視界の端から小さな影が飛び出し、黒いランドセルが男の目の前に現れた。
男の子だ。勢いよく振り返ると、無邪気な笑みを浮かべたまま叫んだ。
「じゃあなー! クソやろー!」
すると、すぐさま背後から負けじと別の声が飛んできた。
「じゃあなー、小西の夫ー!」
「うっせー! じゃあなー、うんこ漏らし!」
「漏らしてねーし! じゃあなー! チンパンジー!」
男はちらりと後ろを振り返った。
おそらく仲の良いグループなのだろう、数人の男子小学生がこちらを向いて笑っていた。
「じゃあなー! 消しゴム泥棒!」
「じゃあなー! メダカ殺し!」
男は再び前へ向き直った。先ほどの男の子はこちらを向いたまま後ろ歩きし、声を張り上げていた。
――ああ、あったなあ。小学生の頃。別れ際に悪態をつき合うノリみたいなやつ。
「じゃあなー! 三段腹!」
「じゃあなー! うすらハゲ!」
おそらく別れる直前までふざけ合っていた空気が、そのまま続いているのだろう。声に怒気はなく、笑いが滲んでいた。喧嘩やいじめという雰囲気ではない。ただ思いついた悪口を叫び合い、面白がっているだけのようだ。
耳にキンキンと響く甲高い声に男はわずかに眉をひそめつつも、気にせず歩き続けた。
「じゃあなー! 根暗そうなやつ!」
「じゃあなー! 小デブ!」
「じゃあなー! ブサイク!」
「じゃあなー! 背中汗染み男!」
「じゃあなー! ニキビ面!」
「じゃあなー! ケツでか!」
――ん?
男はふと胸の奥に小さな引っかかりを覚え、歩調をわずかに緩めた。
「じゃあなー、えっと、横を通ったとき臭かったやつ!」
「じゃあなー! 変な歩き方!」
「じゃあなー! 首傾げ男!」
「じゃあなー! 貧乏そうなやつ!」
――おれ……?
男は思わず声を漏らした。
目の前を歩く男の子が、ちらちらとこちらを見ていたのだ。どうやら悪口の材料が尽き、男のことを参考にしているらしい。
「じゃあなー! エロ顔!」
「じゃあなー! 変態男!」
――いや、子供は純粋というか遠慮がないというか……。そういうものだとは思うが、冗談じゃないぞ。
男は苦笑しつつ、これ以上巻き込まれまいと足を速めた。
「じゃあなー! ニヤニヤ野郎!」
「じゃあなー! 万引き犯!」
「じゃあなー! 痴漢男!」
「じゃあなー! 盗撮魔!」
――いや、そう見えるということか……?
男は視線を落とし、自分の服装を見た。黒いTシャツに地味なズボン。確かに、ところどころに毛玉が付いており、染みも浮いている。流行とは無縁で洒落っ気など微塵もなく、加えて腹回りは以前より膨らんでいた。
「じゃあなー! 変質者!」
「じゃあなー! 不審者!」
「じゃあなー! 地域のゴミ!」
「じゃあなー! ゴミクズ!」
「じゃあなー! 無職!」
「じゃあなー! 子供部屋おじさん!」
「じゃあなー! 引きこもり野郎!」
「じゃあなー! 親のすねかじり!」
「じゃあなー! 家から出ていけって言われたやつ!」
「じゃあなー! 家族と社会のお荷物!」
――いや、だからといって言いすぎだろ。
後頭部がかっと熱くなり、男は思わず怒鳴りそうになった。が、喉を鳴らした程度でどうにか踏み止まった。
危ない、危ない。こんなところで子供を怒鳴ったら、本当に不審者になる。通報、職質、最悪の場合は逮捕、そして家宅捜索――すべてが終わりだ。
男は大きく息を吐き、歩幅を広げた。そして男の子の横を通り過ぎ、そのまま曲がり角に差し掛かった。
そのときだった。
「じゃあなー、母親殺し」
――えっ。
男は反射的に振り返った。
次の瞬間だった。
凄まじい衝撃が全身を貫いた。視界がぐるんと横転し、一瞬目の前が白く弾けたかと思うと、身体はアスファルトの上に横たわっていた。
耳の奥では、ドッドッドッとバイクのエンジン音が反響していた。
――じゃあなー。
――じゃあなー。
そして、子供たちの甲高い別れの声も。どこか懐かしく、胸の奥をかすかに疼かせる響きだった。
その懐かしさに引き寄せられるように、意識がゆっくりと薄れていく。脳裏に浮かんだのは、家の押し入れ――そのさらに奥。光の届かない湿った暗闇。それから鼻の奥を抉るような腐敗臭。母の萎びた手。
やがて男の意識はその暗闇の中へ静かに沈んでいった。




