第17話:販路拡大、あるいは施しの代替品
「――これが、その噂の薬か」
スラムの片隅、錆びた鉄板で囲まれた粗末な炭鉱労働者の集会所で、一人の筋骨たくましい男が琥珀色の小瓶を睨みつけていた。
男の名前はトマス。落盤事故や過酷な労働環境で常に死傷者を出し続けている「スラム炭鉱互助会」の若き代表だ。その手の平はツルハシを握り続けたせいで岩のように硬く、顔や腕には炭粉が染み込んだ黒い傷跡が無数に刻まれている。
彼の背後には、同じように薄汚れた衣服をまとった労働者たちが、不信と期待の入り混じった目でこちらを凝視していた。
「ああ。地元のギャングに背中を深く刺された俺が、一日でここまで動けるようになった。その証拠として、俺のこの身体以上のものはないだろ」
私の隣に立つガルクが、丸太のような腕を組んで不敵に笑う。
短く刈り込まれた灰色の髪を揺らし、隻眼の鋭い光を放つその巨体は、立っているだけで凄まじい説得力があった。スラムの住人なら誰もが知る「片目の狂犬」が、完全に五体満足で動いている。それが何よりの臨床データの証明だった。
私は厚手のフード付きコートの奥から、静かにトマスを見つめ、あらかじめ用意していたセリフを口にした。
「大聖堂の神官たちに『光の治療』を頼めば、最低でも銀貨5枚は要求されるわ。しかも、スラムの労働者というだけで門前払いされることも珍しくない。……でも、私のこの薬なら、銀貨1枚でいい」
銀貨1枚。
もやしビジネスの時の「銅貨数十枚」に比べれば高価だが、人の命を救う対価、そして教会の法外な治療費に比べれば、破格の安さだ。
「銀貨、1枚……。確かに教会の奴らに比べれば安い。だが、俺たちにとってはそれだって大金だ。本当にそれだけの価値があるんだろうな?」
トマスが小瓶を手に取り、疑わしそうに光に透かす。
「価値なら、今すぐに試してあげるわ」
私は集会所の奥のゴザに寝かされている、一人の老労働者に歩み寄った。
老人は数日前の落盤事故で足の骨を砕かれ、そこから酷い高熱を出してうわ言を漏らしている。傷口は赤黒く腫れ上がり、腐敗の臭いが漂い始めていた。このまま適切な治療がなければ、あと数日で確実に命を落とす状態だ。
私は懐からもう一本の小瓶を取り出し、その蓋を開けた。
「少し痛むけれど、我慢してね」
琥珀色の液体を、老人の割れた唇の隙間から数滴流し込む。
それと同時に、私は老人の腫れ上がった足の傷口へと右手をかざした。
(白夜茸の成分が、老人の心臓を叩き起こす。……そこに、私の『ポンコツ治癒術』を上乗せする!)
脳の奥にチリリと走る痛みを無視し、魔力を解放する。
すると、老人の呼吸が劇的に深くなり、それと同時に、足の傷口からドロドロとした膿が一気に噴き出してきた。細胞が爆発的な速度で活性化し、体内の異物を強引に体外へと押し出し始めたのだ。
「あ、あう……っ!」
老人が大きく一喝すると、その目はハッキリと見開かれた。
死人のようだった顔に一気に血色が戻り、骨の歪みこそ完全には治らないものの、全身を苛んでいた高熱が、目に見える速さで引いていく。
「じいさん……!? おい、意識が戻ったのか!」
トマスが駆け寄り、老人の手を握る。老労働者は、まだ混乱しながらも「あぁ……身体が、軽い……痛みが消えた……」と、はっきりとした声で答えた。
集会所が、一瞬にして静まり返る。
神への信仰も、大聖堂への莫大な寄付金も必要ない。ただのフードの小娘が差し出した琥珀色の液体が、教会の奇跡と何ら変わらない「救い」をもたらしたのだ。
「……信じられねえ。本当に、神官のヒールと同じ、いや、それ以上だ……!」
トマスはガタガタと震える手で、懐から古びた銀貨を5枚、机の上に並べた。
「これだけしかないが、ある分の小瓶をすべて譲ってくれ! 俺たちの仲間は、毎日まともな治療も受けられずに死んでいくんだ。これがあれば、何人の命が救われるか……!」
「毎度あり、だな」
ガルクがニヤリと笑い、銀貨を素べく回収して私へと手渡した。
確かな重みを持つ、5枚の銀貨。これで今日の売り上げは、バザルへの卸し分と合わせて、一気にまとまった資産へと跳ね上がった。
もやしの時のように、ただ市場で目立つだけの商売じゃない。
スラムの最も深い需要を握り、教会の独占利権を裏から完全に浸食していく。
「トマス、また数日後に新しい分を持ってくるわ。……それと、この薬のことは教会には絶対に秘密よ。もし大聖堂にバレたら、あなたたちへの供給も完全にストップするから」
「あぁ、分かっている。大聖堂の奴らに、俺たちの命の綱を渡すわけがねえ」
確固たる信頼関係が、この泥の底で結ばれた。
集会所を後にし、スラムの薄暗い雨の中を歩きながら、私は手の中の銀貨をそっと握り締めた。
規模が大きくなれば、当然それだけ目立つリスクも跳ね上がる。
この時、私の預かり知らないところで、教会の利権を脅かす「琥珀色の液体」の噂が、大聖堂の奥へとすでに届きつつあった。




