第15話:狂犬の目覚め、あるいは対等の契約
地下室に充満するカビと安物の止血剤の臭いの中に、鉄錆に似た血の香りが混じり合っていた。
バザルから買い取った銀貨3枚を懐にしまい、生産拠点である崩壊した共同井戸へと戻る前に、私はどうしても確認しておきたいことがあった。それは、自分が作り出した「琥珀色の液体」が、どれほどの持続性と副作用をあの男にもたらすかという、極めて現実的なデータ収集のためだ。
じっと闇に身を潜めて待つこと、およそ一刻。
粗末な木製のベッドから、獣のうめき声のような低い掠れ声が漏れた。
「……が、あ……」
短く刈り込まれた灰色の髪が不快そうに揺れ、男の身体が大きく波打つ。
男の名前はガルク。バザルが「片目の狂犬」と呼んだ、一匹狼の凄腕傭兵だ。衣服の隙間から覗く胸板は、日々の過酷な鍛錬と実戦を物語るように鋼のように厚く、丸太のような腕には無数の古い刀傷が刻まれている。そして、ゆっくりと開かれた顔の左目には、縦に一本の深い傷跡があり、その瞳は白濁して光を失っていた。しかし、残された右目の、すべてを射抜くような鋭い光が、一瞬にして地下室の空気を凍りつかせた。
男は驚異的な身体能力で、跳ね起きると同時に枕元に転がっていたはずの得物――刃こぼれした大剣の柄へと手を伸ばした。だが、そこに自分の武器がないことに気づくと、即座に身を構え、周囲を激しく威嚇するように睨みつける。
「ここは……どこだ。俺は、あの裏切り者の群れに背中を刺されて……」
「静かにしな、ガルク。お前は死にかけて、この俺の地下室に担ぎ込まれたんだよ。その大剣なら、暴れられると困るから奥に引っ込めてある」
パイプの煙を燻らせながら、バザルが淡々と告げる。
ガルクは自身の脇腹に手を当てた。そこには赤黒い血がこびりついているものの、あれほど深かった裂傷は、すでに表面が強固に固まり、内側から凄まじい勢いで細胞が再生を始めている。
「……傷が、塞がってやがる。バザル、お前の安物の薬でこんな芸当ができるわけがねえ。まさか、大聖堂のクソ神官どもをここに呼んだのか? 俺を教会に売り飛ばして、懸賞金でも稼ぐつもりだったか!」
「滅相もない。俺にそんな大層な真似ができるかよ。お前の命を繋ぎ止めたのは、俺じゃねえ。……そこにいる、得体の知れないお嬢ちゃんだ」
バザルが、部屋の隅の暗がりに佇む私を指差した。
ガルクの獰猛な右目の視線が、一瞬にして私へとロックオンされる。その風圧だけで、戦闘力ゼロの私の心臓が爆発しそうになるほどの強烈なプレッシャーだ。だが、私は新調したフード付きコートの奥で、決して視線を逸らさずに、静かに立ち上がった。
「あなたが生きているのは、私の作った薬のおかげよ。白夜茸の毒性を反転させて、あなたの心臓を無理やり動かしたの」
私の声を聞き、ガルクは鼻で笑うようにしてベッドから床へと足を踏み下ろした。その巨体は、立っているだけで私を完全に圧殺できるほどの威容を誇っている。
「ガキが、舐めた大嘘を吐くな。白夜茸は人を殺す毒だ。それに、教会でもねえ平民の小娘が、瀕死の重傷を治す薬なんて持っているはずがねえ。……おい、お前、本当は何者だ? そのフードの奥の顔を見せな」
男が一歩、また一歩と、地響きを立てるような足取りで私へと近づいてくる。
圧倒的な武の脅威。スラムのゴロツキとは次元が違う、本物の「人殺しのプロ」の気配だ。一瞬でも怯めば、そのまま喉を握り潰されるかもしれない。
(ここで引いたら、私はただの『便利な薬物精製機』として、こいつや裏社会の奴らに監禁されて使い潰される。……対等な関係を築くなら、今、ここで、こいつの常識をへし折るしかない!)
私は深く息を吸い込み、右手をゆっくりと持ち上げた。
そして、人差し指の先を、目の前に迫るガルクの胸板へと向けた。
「嘘だと思うなら、試してみる? あなたの身体には、まだ私の作った薬の成分が残っている。……私がこの指先ひとつで、その成分を再び『猛毒』へ、あるいはそれ以上の『死の劇薬』へと再反転させることもできるけれど?」
その言葉と同時に、私は自身の魔力を指先に集中させ、微かに発光させた。
植物の時間を進めるための「生命の活性化(ポンコツ治癒術)」。人間相手に使えば、私は強烈な立ち眩みで倒れる。そして、実際に薬の成分を体内で毒に反転させるような高度な芸当など、今の私には到底できない。完全な、命がけのハッタリだ。
しかし、ガルクの動きが、ピタリと止まった。
男の野生の勘が、私の指先に宿る「本物の異能の気配」を察知したのだ。教会の奇跡とは明らかに異なる、不気味で、泥臭く、しかし抗えない絶対的な力の残滓。それが、自分の命を救った琥珀色の液体の正体であると、男の肉体が理解したようだった。
男の額から、一筋の冷や汗が流れる。
しばらくの沈黙の後、ガルクはゆっくりと構えを解き、ふっと低く笑った。
「……ハハ、上等じゃねえか。ただの迷い子のガキかと思えば、とんでもねえ毒婦を味方に付けちまったらしいな」
「味方にするかどうかは、これからの条件次第よ。ガルク、あなたは味方に裏切られて死にかけた。そして今の私は、ある巨大な組織から目を付けられていて、いつ物理的な暴力で圧殺されるか分からない状態にある」
私は指先の光を消し、フードの奥から冷徹な提案を投げかけた。
「私はあなたに、どんな傷でも繋ぎ止める薬と、これからのスラムを生き抜くための十分な報酬を提供する。その代わりに、あなたは私の『盾』になりなさい。私の身の安全を脅かす敵を、その大剣で排除する……そういう契約よ」
ガルクは残された右目でじっと私を見つめ、それから自分の大きな手の平を握り締めた。
裏切られ、すべてを失った傭兵と、拠点を奪われ、どん底から這い上がろうとする元聖女。
「教会の施しにはヘドが出るが……お前のその泥臭い毒薬なら、悪かねえ。……いいだろう、お嬢ちゃん。その契約、乗ってやる。俺の剣は安い大金じゃ動かねえが、命の恩人の頼みと、面白い泥仕合なら、喜んで付き合ってやるさ」
こうして、最弱のサバイバルの場に、最強の「盾」が加わった。琥珀色の毒薬が紡いだ奇妙な縁が、スラムの勢力図を、そして大聖堂の利権を、根底から揺るがすための第一歩となる。




