第1話:世界一安い追放宣告
冷たい石畳の硬さが、じわじわと体温を奪っていく。
その容赦のない、生々しい不快感で、私はようやく意識の底から這い上がった。
(……あれ? 私、徹夜で推しの限定本を買うために、あの巨大展示場の外周列に並んでたはずじゃ……)
重い瞼を押し上げる。視界に飛び込んできたのは、見慣れたイベント会場の無機質な天井でも、使い古したスマホの画面でもなかった。
煤で黒ずんだ、重苦しい石造りの天井。
そして、視界の端にサラリと垂れ落ちてきたのは――目の覚めるような、鮮やかな「青色」の髪だった。
「な、に、これ……」
自分の声なのに、妙に高くて、鈴を転がすように可愛い。
慌てて床に伏せたまま自分の手を見ると、白く、驚くほど小さな手がそこにあった。ただ、お姫様のような綺麗な手とは程遠い。あちこちが酷い霜焼けで真っ赤にひび割れ、薄汚れている。
その瞬間、頭の奥がズキリと痛み、濁流のような「この身体の記憶」が脳細胞に染み込んできた。
(……嘘。これ、ネット小説で飽きるほど読んだ、異世界転生ってやつ……!?)
そこでふと、冷や汗が背中を伝う。
待って。転生したってことは、私は元の世界で「死んだ」ということだ。
でも、どうして? 徹夜の待機列で寒さに凍えて心不全でも起こしたのか、それとも極限の睡眠不足で脳の血管でも切れたのか、あるいは歩きスマホのトラックにでも跳ねられたのか――どれだけ記憶の引き出しをひっくり返しても、自分がどうやって命を落としたのか、その最後の瞬間だけが霧がかかったように全く思い出せない。
釈然としない強烈な違和感を抱えながらも、目の前の現実は待ってくれなかった。
記憶の中の私は、ある日突然「神託の聖女」として教会に祭り上げられた、ただの孤児の少女だった。水色の髪と、人形のように整った愛らしい容姿が「それっぽい」という理由だけで、ビジュアル要員として神殿に担ぎ上げられたのだ。
しかし、期待されたような「死者を蘇らせる奇跡」も「天変地異を鎮める大魔法」も、一向に発動する気配がない。
結果、今や「稀代の詐欺師」「偽聖女」として、この大聖堂の地下に閉じ込められていたらしい。
「おい、起きろ。いつまで寝ている、偽物め」
冷酷な声とともに、身体を乱暴に蹴り飛ばされた。床の石畳をゴロゴロと転がり、脇腹に鈍い衝撃が走る。
うっ、と息が詰まる。痛い。涙が出るほど痛い。これは絶対に夢なんかじゃない。
見上げると、かつて私を「聖なる御子」と崇めていたはずの若い司祭が立っていた。その目は、今や路地裏の生ゴミでも見るような軽蔑に満ちている。
彼が私の足元に放り投げたのは、すり切れた麻の袋が一つだった。
「本日をもって、お前をこの聖都から追放する。二度と聖域の土を踏むな」
カサリ、と虚しい音が響く。
中を覗くと、泥のついた銅貨数十枚と、申し訳程度の銀貨が3枚。
それが、巨大な宗教組織が私に支払った、最後の手切れ金――現代日本の価値に換算すれば、ちょっとした外食を数回すれば消し飛ぶような、あまりにも安すぎる額だった。
ガギィン、と重厚な鉄の扉が容赦なく閉ざされ、冷たい地下室に私一人だけが取り残される。
チート能力をくれる神様もいなければ、ステータス画面を開いてくれる便利なシステムもない。神の気まぐれで造られたような、完璧な造形の青髪の少女。しかし、その内実に宿った能力は、かすり傷をなぞるのが精一杯の「初期微動レベルの治癒術」――そんな極端なアンバランスさを抱えた私は、呆然と冷え切った自分の手を凝視する。
(……一応、なんかある、よね? 聖女なんだし)
おそるおそる、一番ひどい霜焼けで割れた右手の指先に意識を集中させてみた。
じわり、と脳の奥が熱くなる。指先が微かに発光し、ほんの数ミリ、裂けた皮膚が縮むようにして塞がっていった。
「――っ、あ、頭が……」
激しい立ちくらみに襲われ、その場に膝をつく。
治ったのは、かすり傷に毛が生えた程度の面積だ。それなのに、まる一日徹夜で原稿を描き上げた後のような、凄まじい疲労感が全身を襲う。
(……うん、知ってた。これ、魔法っていうか、自分の寿命を削って他人に分け与えるだけの、一番効率の悪い『等価交換』だわ……)
派手な大怪我を治そうものなら、治しきる前にこちらが過労死する。間違いない。
オタクとして培ってきたあらゆるフィクションの知識が、脳内で「この能力は使えない」と警報を鳴らしていた。
頼れるのは、前世で貪るように読んだサバイバル知識や、歴史の雑学だけ。
外見がどれだけ完璧でも、今の私には、拠点を耕す体力も、この世界で生きていくための「牙」もないのだ。
まずは、この聖都から這い出さなければ。
私はふらつく足取りで麻袋を拾い上げ、重い足取りでスラム街へと続く薄暗い地上への階段を上り始めた。この冷たい硬貨だけを、唯一の命綱にして。
冷たい地下通路は延々と上へと続いていた。
一歩進むごとに、粗悪な靴底を通して、足の裏に冷気が直撃する。前世の日本の、あの「どこに行っても空調が効いていて快適」な環境がいかに贅沢だったかを思い知らされる。今の私は、ただの非力な十代の女の子だ。それも、長い間まともな食事を与えられていなかった形跡がある。数段上るだけで、太ももが鉛のように重くなり、肺がひゅーひゅーと悲鳴を上げた。
「これ、本当にスラムに辿り着く前に餓死するか、行き倒れるルートじゃないの……?」
独りごちる声すら弱々しい。しかし、ここで足を止めたら、明日には冷たくなった「精緻な美少女の死体」として、教会のネズミの餌になるだけだ。どうして死んだかも分からない前世の未練を抱えたまま、この世界でも犬死にするなんて真っ平ご免だ。オタクの執念を舐めるな。私はあの灼熱のドーム会場や極寒の広場で、推しのために何時間も耐え抜いた女だ。この程度の肉体的な苦痛、精神力でねじ伏せてみせる。
ようやく薄暗い出口の光が見え、私は最後の手すりにすがりつくようにして地上へと這い出た。
「――っう」
外に出た瞬間、強烈な光と、それ以上に凄まじい「臭気」が私の五感を文字通り殴りつけてきた。
それは、生の人間が密集して生きている、泥と排泄物と生活排水の混ざり合った、中世特有のドブの臭いだ。鼻を突き刺すようなアンモニア臭に、私は思わずその場にうずくまりそうになった。
視界に広がっていたのは、白石で築かれた壮麗な教会の建物の影に、まるでへばりつくようにして蠢く、無数の粗末な木造小屋。
そこが、この聖都の最底辺――スラム街だった。
行き交う人々は皆、擦り切れた灰色の服をまとい、肌は一様に土汚れで黒ずんでいる。もちろん、誰もが他者を警戒し、飢えた獣のような目で周囲を値探っていた。
そんな場所に、私はこの「神の気まぐれ」としか思えない、目立つことこの上ない鮮やかな青髪を引っ提げて放り出されたのだ。
「……とりあえず、どこかに隠れないと」
慌てて衣服のボロいフードを深く被り、頭のてっぺんから爪先まで青い「最高峰のビジュアル」を必死に隠す。
けれど、長い幽閉生活のせいで身体の線が細すぎて、ただでさえ目立つ。おまけに、すれ違う男たちの視線が、ギラギラと嫌な形に歪むのがわかった。小綺麗で非力な迷子なんて、この無法地帯では格好の「獲物」でしかない。オタクの野生の勘が、背中に冷や汗を流させながら「ここにいたら数時間で詰む」と警報を鳴らしていた。
(落ち着け、私。パニックになったら負けだ。こういう時は、まず現状の資産を数えるんだ……)
前世で色んなゲームや小説を消費してきた経験を総動員して、頭を冷やす。
手元にあるのは、あの司祭から投げつけられた、泥付きの銅貨数十枚と銀貨3枚の冷たい硬貨。
これで買える食料や安全なんて、せいぜい数日分だ。宿を借りるなんて絶対に無理。それに、この金を狙って誰かが襲ってきたら、私には抵抗する術がない。あの3ミリしか治らないポンコツヒールじゃ、目潰しにもなりゃしない。
どこへ行けばいい?
どうすれば、今日を生き延びられる?
右も左もわからない。地図もない。
ただ、ここで立ち止まっていること自体が自殺行為だということだけは分かった。
私は麻袋の口をぎゅっと握りしめ、とにかく男たちの視線から逃れるように、ひときわ異臭の強い、スラムのさらに奥の細い路地へと、泥に足を滑らせながら逃げ込むように歩き出した。
冷たい硬貨の重みだけが、今の私に現実を繋ぎ止める、唯一の頼みの綱だった。




