人が怖い
最近、唇の皮が主食になってきた。気がつけば下唇を噛んでいる。前歯で千切って飲み込む。それは人前でも行なってしまい、指摘されることもあった。こんな風に、
「──佐々木、唇を噛むのはやめておけ。で、だが、佐々木は友達がほしいとかは思わないのか?」
「え、あ、はい。すみません、癖で。友達は──ないですね。」
「それはどうして?」
「怖いんです。」
「何が?」
「情報を握られるのが。」
中間テストが終わり、いい気分だった私は帰りに担任に呼び止められ、話し合いをしていた。なんでも人間関係についての相談らしい。一体誰が頼んだのだろう。
本名と顔写真だけで十分。そして晒しは身近な人間ほどやりやすい。昨日まで笑っていた人が明日は敵になり、容赦なく刃を向けられる。人は怒れば正義の顔をして誰かを殺せる。そんな爆弾と一緒にいろだなんて無茶を言わないでほしい。
「なので、友達はいりません。」
「そうか、まあ思春期だからな。しかし、友達は作った方がいいと思うぞ。その方が楽しくなるし。今度、何か企画してやろうか?」
「はあ。いえ、大丈夫です。」
こっちはちゃんと理由を言ったのに。こうも雑に流されるのであれば、私は何のために話したのだろうか。足の上下を腕でグッと堪える。下唇はいつの間にか柔らかくなっていた。
その後も同じような内容の話をして終了した。担任が教室を出た瞬間に外界と遮断するためにノイキャン付きのヘッドホンをつける。教室のカーテンを開けると、窓の外はほんのりと揺らめく赤に染まっていた。いつも早く帰るようにしていたので久々に見る景色だった。少し目が潤んだ。これは、これは、感動の涙なんかじゃない。いつも帰る時に乗る電車じゃない、いつもと違う時間の電車。きっと満員電車だ。遅れるという状態も、満員電車も。だから、だから早く帰りたかったのに。
バタンと大きな音を立てて靴を置き、上履きを入れる。その時担任が何か言っていたような気がしたが、もう分からない。走りづらいし、運動不足だからほんの少し走っただけで息切れした。空気を吸っても肺に届いていない感じがする。マスクとヘッドホンがずり落ちそうになる。まだ冬なのに汗がたくさん出て、涙も出た。胸に煙が充満する。
駅に着いたけど、疲れてしまい、膝に手をつく。複数の視線が刺さる。一瞬だけ見てすぐに逸らされたり、おかしい奴を見る目だ。きっとスマホで撮っているんだ。でも私は、まだ、おかしくない。落ち着ける。平然を装える。深呼吸をして、深呼吸をして、体は未だ熱いが、息をちょっとだけ整えられた。本当は少しでも人が少ない先頭車両に行きたかったが、電光掲示板に「まもなく電車がまいります。」の文字が出ていた。私はヘッドホンの音量を一段上げてバッグを前にした。
電車は案の定混んでおり、中は誰一人として笑顔の者はおらず、殆どの眉間に皺が寄っていた。ここは大きな駅だったのでたくさん人が降りたが、その分乗る人も多かった。
知らない人にこれでもかと体を押され、目の前では他人のことは考えない図々しい奴だと思われている。どうして既に真ん中ら辺にいる私があなたを押さなきゃいけないんですか。弁明の余地なく、上半身を押し潰され、一方的に与えられ続ける二方向の圧が私を締めつける。
踏ん張ろうともせず踏むのは当然。抑えようともしない咳を浴びせられ、ただでさえ少ない肉のクッションに容赦なく肘を入れられる。彼ら彼女らは人間なのだろうか。耐えようとした上でのその大きさなのか。なぜその肘は横向きになっている。人間だったら、人間なのに、私にはその気持ちが分からない。
約二十五分の苦痛を耐え、やっと最寄駅に着いた。相手不明の謝罪をしながら電車を降りると人熱からのギャップで気持ちがよかった。髪を纏めると更に首が冷やされる。──だからって、もう一度これを味わうために満員電車に乗りたいかと聞かれれば話は別。今日だけでも大分人が嫌いになってしまった。全員消えてほしいと思った。そう考えた途端先程までの感情がなくなり、自らの首を絞めるじめっとした黒い液が心臓を重く包む。そのせいか、エスカレーターで呟いてしまった。
「誰か、後ろから突き飛ばして。」
自分でも驚いてしまい咄嗟に口を手で塞いだが、幸か不幸か誰も私のことなんか気にしていなかった。
道はすっかり暗く、車のライトが交差する時間になっていた。カップルが横切る足が見え、後ろから自転車にベルを鳴らされる。振り返る時に目に入ったファミレスでは家族が楽しそうに食事をしていた。その笑顔が全て私に向けたものに見える。とんでもない被害妄想だなと心の中で苦笑しつつ、喉を震わせるほどの溜め息をつく。────。
「馬鹿言うな。」
私は好きなアーティストの曲を選択し、音量をまた上げた。流石に声を張るのは駄目だけど、この暗さなら多少はバレない。
「ただいま。」
一応声には出すが、やまびこすらも返ってこない。私、一人暮らしじゃないはずなんだけどな。当然の如く誰も出てこず自身の部屋に直行する。まだそんなに遅い時間じゃないけど、どうせご飯も食べないし。ブレザーだけを脱ぎ捨てそのままベッドに入った。高反発素材のはずなのにズッと体が沈み込む。今日も疲れた。毎日疲れる。ヘッドホンをつけたまま私は眠る。
アラームより早く目が覚める。雲で埋め尽くされた涼しそうな朝だ。シャワーだけを軽く浴び、同じものを着る。「行ってきます。」と声にするがやはり誰もいない。家族の顔は思い出せるが、声はもう曖昧だ。
昨日のことがやんわりと皮膚に触れている。少しだけヘッドホンの音量を上げて目を覚まそうとした。今日はいつもの時間だ、それだけで安心できる。いつの間にか改札を抜けていた。 テスト終わりはいつも席替えをする。今日も定例通り最後の授業で席替えをする。担任がエクセルを使って席を決めるのだが、クラスは毎度毎度阿鼻叫喚の嵐だった。遅くならなければそれでいい。私は窓際の後ろから二番目の列。本来なら喜ぶ人が多いだろうが、私にとってはあまり嬉しくなかった。
しかしそんな状況も何度かあった。いつもと違うのは、担任が謎の企画をしたことだ。
「えーと、私は、佐々木。確か、朝倉さん?だよね。」
「あ、うん。知っててくれたんだ。」
「まあ、そりゃあ数ヶ月同じクラスだし。」
朝倉さんは私が話せるとは思っていなかったように見える。私だって話せと言われれば作業として扱える。
「そっか、そうだよね。えっと、佐々木さんっていつもヘッドホンしてるよね。曲とか聴いてるの?」
「うん、まあ。」
「好きなアーティストとかっている?」
「……いない。」
「ふうん。そう。──佐々木さん、あんまり群れるのは好きじゃない感じ?」
「え?いや、別に。」
「あれ、そうなんだ。」
「はい、そこまでー」という担任の声で会話が切れた。
さっきの言葉が頭に残る。人は嫌いだし苦手だけど、違う。何が違うのかは分からない。考えれば考えるほど深くなり、何が違うのか分からなくなる。
朝倉さんに気づかれないように見てみると、人と楽しそうに話していた。相手のことを信用しているのか、際どめの話までしている。それがいつ利用されるかも分からないのに、よくそんな話ができるな。理解できない。どんな思考をしているのか、隣の席が幸いした。




