閑話休題 ―由衣―
ちょっとだけ由衣の現状を。
目が覚めたとき、天井がちゃんと知っている天井だったことに、少しだけ安心した。
石でも土でもなく、見慣れた自分の部屋の白い板。
――今日は、ここが現実だ。
腕はもう痛くない。
医者にも「問題なし」と言われた。
それなのに、ベッドから起き上がるまでに、少し時間がかかる。
怖い、という感情に名前をつけるなら、たぶんこれは「思い出すのが怖い」だ。
スマホを手に取る。
通知は、さくらからの短いメッセージだけだった。
もうお昼前だ。
――おはよう。
一言だけの短いメッセージだけど、私を心配しているのが溢れたメッセージだった。
画面を見つめて、私は小さく息を吐いた。
さくらは私を守ろうとしてる。
思えば、ダンジョンでお互い探索者として出会った時からずっと彼女は私を守ってくれている。
守られている、と感じることに、まだ慣れていない。
自分のふがいなさに悔しくなるばかりだ。
ずっとそこでぐるぐるしている。
起き上がれないわけじゃない。
立ち上がろうと思えば、たぶん立てる。
でも、身体じゃなくて、気持ちのほうが追いついてこない。
ふとした瞬間にどうしても思い出すのだ、あの時、背後からいきなり腕をつかまれた時の恐怖を。
私は天井から視線を外して、部屋を見回した。
机の上に置きっぱなしのイヤホン。
読みかけの文庫本。
まだ開けていないペットボトル。
ここにある日常は確かなのに、もうこの日常が当たり前だったころは遠い。
それが、少しだけ怖くて、少しだけ救いだった。
ダンジョンじゃなくても私には生きていける場所がある。
それがなければ、今頃私はダメになっていたはずだ。
この部屋と言う日常があるおかげで、会社に行くこともできている。
スマホをもう一度握りしめる。
さくらに、何か返事をしようとして、でも言葉が浮かばない。
(大丈夫、って言えたら楽なのに)
でも、それは嘘になる。
嘘をついてまで、心配を減らしてもらうのは違う気がした。
それにさくらは、そんな嘘は一発で見抜く。
私はしばらく考えてから、短く打った。
――おはよう。起きたよ。今日は、ごはんちゃんと作る。
送信して、画面を伏せる。
それだけで、少しだけ胸の奥が軽くなった。
ベッドの端に腰を下ろす。
足の裏が床に触れて、ひやりとした感触が伝わってくる。
大丈夫。
ここは現実で、私は生きている。
ああ、お腹すいたな……。ダンジョンに入らなくなって、少し空腹になるスピードは落ち着いたように思うけど、それでも以前に比べたら空腹になるのは早い。
今日は何か作ろう。でも冷蔵庫には大して食材ないから買いに行かないと。
そう思っただけで、胸の奥がわずかにざわついた。
外に出る。
近所のスーパーに歩いていくだけだ。
ただそれだけのことなのに、ダンジョンに入る前みたいに、頭の中で段取りを組み始めてしまう。
(近所のスーパーに行くだけ。人通りも多いし、昼間だし)
誰に言うでもなく、自分に言い聞かせる。
着替えはゆっくり選んだ。
袖の長いパーカー。
首元が詰まっているほうが、今日は落ち着く気がした。
玄関で靴を履く前に、一度だけ立ち止まる。
ドアノブに手をかけて、深呼吸。
近所のスーパーまでは歩いて3分。決して遠い場所じゃない。
大丈夫。
ここはダンジョンじゃない。
このドアの向こうはいつもの見慣れた風景だ。
ドアを開けると、昼の空気が流れ込んできた。
少し冷たくて、でもちゃんと現実の匂いがする。
歩き出すと、足は思ったよりちゃんと前に出た。
心臓の音も、暴れ出したりはしない。
スーパーまでの短い道。
子どもの声。
自転車のベル。
信号待ちで立ち止まる人たち。
(……みんな、普通だ)
それは私にとって、救いの風景だった。
店に入って、野菜売り場で立ち止まる。
何を作ろうか、なんて考えられる自分に、ほんのわずか驚く。
卵と、豆腐と、安売りの鶏むね肉。
前なら「探索前の食事」として選ばなかったものばかりだ。
(回復重視じゃなくていい。今食べたいものを選ぶ)
レジを済ませて、袋を下げて外に出る。
さっきより、世界が少しだけ近く感じた。
完璧じゃない。
強くもない。
でも――ちゃんと、前には進めている。
家に帰ったら、ごはんを作ろう。
それだけでいい一日だ。
私は、そう思いながら、ゆっくり歩いて帰路についた。




