満月の契約②
「ばかな」
予想の外にあった答えに半ば反射的にラルフは返した。衝撃的だったというよりも、あまりに突拍子もない絵空事に思わず口が出てしまったのだ。
「国を滅ぼすとは飛躍したものだな。家族の仇が国そのものというのか。なるほど、お前の家族を殺したのは王であり、国家である、とすれば納得がいく。確かに復讐という意味ではこれ以上のものはないだろう。だが、叔父から財産を奪われ、自身は何も持たぬ小娘ただ一人で国を滅ぼす?戯言を。夢想するのはお前の自由だが、叶わぬ夢を周囲にねだるのは質が悪い、と言うほかないな。聞くに堪えない。一早く夢から覚めることをお勧めする」
辛辣な皮肉とともに冷笑。寝言を言うなと切り捨てるラルフに対し、ヒルデは泰然とした態度を崩さない。
「可能だとも。あなたの力があれば」
その発言は思考停止によるものか、それとも何らかの根拠や確信があってのものか。ラルフがさらに反論を試みようと口を開きかけると、ヒルデが手で制して言った。
「私は薄汚いペーターが憎い。忠義に仇で報いたミランダ王が憎い。奴らには死をもって報いる。当然だ。だが、それで私の復讐が終わるのか。答えは否だ。この国だ。この国の在り方が悪なのだ。外圧を恐れるだけで何も動かず、内に優れた人間がいればそれを嫉み、憎む。王は正義を蔑ろにし、悪をのさばらせる。貴族は己の責務を果たさず、民衆に犠牲を強いる。この国はそういう国だ。そういう腐った国なのだ。そんな国が父を、母を、弟を殺したのだ」
ヒルデは真摯にラルフと向き合う。憎悪に身を置きながらも、嘆きや恨みのような陰湿さはない。ヒルデ自身の気高さゆえか、弾劾するような烈しさがその語気に現れていた。その瞳に強い意志を、決意の焔を宿らせて、なおも続けた。
「私の真の復讐の相手はラーザイルだ。そう思っている。だから、腐ったこの国を、憎むべき全てを私は滅ぼす。それが私の復讐だ。それがなんとしてでも為さねばならぬ私の責務だ」
そこでヒルデはほうっと熱の籠った息を吐いて、幾分険しい表情を和らげた。
「――そう。ここまでが私の責務なのだ」
「……ここまで」
思わず声が漏れる。この時、ラルフは彼女の空気に半ば呑まれていた。
「そうだ。私はこの国を滅ぼす。だが、それで終わりでは、第二、第三のラーザイルができるだけだ。それでは意味がない。真にこの国を滅ぼした意味にはならない。――ゆえに、私が新たな国を作り上げる。ラーザイルのような国が、組織が二度と世に現れぬように。悪による理不尽が二度と生じないように」
夜の中でも鋭く輝く瞳がラルフを見つめる。さっきまでとは別種の炎が灯ったような生き生きとした輝きは、狂おしいほどの熱量を秘めていて、ラルフはその熱に侵されるような錯覚を覚えた。
「王が何だ。貴族が何だ。どれほど高貴な血を引いていようとも、奴らの魂は腐りきっている。ならば、私は奴らを滅ぼそう。生まれながらの身分なぞ知ったものか。無能で非道な王や貴族が上に立つような国ではない――真に国を、民を思う才覚ある者たちが認められる国を私が作り上げるのだ。理不尽に殺されることのなければ、誰からも搾取されることもない当たり前を私が作りたいのだ」
ヒルデはすっくと立ち上がる。ただそれだけのことなのに、その立ち姿は凛としていて見惚れるような美しさがあった。何も持たぬ身でありながら、彼女は気高さを失わず、その言動は力強い。
限りなく不可能に近い夢を真剣に熱望するのは、現実を理解しないが故の高慢である――そう捉えるにはあまりに彼女は理性的だった、言葉、表情、一挙手一投足、すべてがヒルデという人間を雄弁に語っている。高い知性と人並外れた胆力、そして人としてあるべき好ましい情熱があることを。
ああ、とラルフは内心納得の声を上げた。
――理性的ではある。だが、同時にどうしようもなく狂ってしまっている。理性と矛盾する大望。その熱量は狂わなくては生み出せないものだ。狂わなくては叶えられないものだ。
ヒルデはラルフの許へとゆっくり歩み寄っていく。
「それが私の真の目的であり、無謀ともいえる野心だ。あなたの言う通り私には力がない。私は国どころか叔父の専横一つ止める力もないただの粋がっている小娘に過ぎないのが現実だ。言うまでもなく、このままでは私は何も成し得ず終わることになるだろう」
ヒルデは立ち止まる。手を伸ばせば届くその位置でラルフの前に立ち、互いの視線が交差する。自然、ラルフはヒルデを見上げる形になった。
「ゆえに力が欲しかった。私の復讐と夢を叶える力が。私の意志を理解し、共感し、共に戦う仲間が欲しいかったのだ」
ヒルデは一呼吸を置いて、語気鋭く迫った。
「あなたはどう思う?ラルフ――ラルフ・ランドルフ。私の夢を、理想をばかげたものだと笑い棄てるならばそれで結構。だが、そうではなく、私の理想に意義と価値を見出したのならば――」
爛々と瞳を輝かせ、ヒルデは一層高らかに言い放つ。
「私の復讐と大それた夢のため、どうかあなたのすべてを私に預けてくれ」
ヒルデは握手を求めるように手を差し出した。それをラルフは凝視する。
貴族が平民――それも盗賊の頭に対等の握手を求める。ただ目先の損得ではなく、己の理想のために。歴史上、類似する例があっただろうか。前代未聞だ。それほど異常な状況だった。
「…………なるほど」
そう言ったラルフの小さな声には感に堪えぬ響きがあった。
「あの手紙からどんな話が飛び出すかと思えば、何から何まで驚かせてくれる。生まれながらの身分なぞ知ったものか、か。貴族の発言とは思えんが、嘘を言っているわけではなさそうだ。おまけに全てを預けろとはまた無茶を言う」
いやはや、とラルフは頭を振る。そしてラルフは指を組み、ヒルデのまっすぐ見据えて言った。
「なんと大きく、凄まじい夢だ。俺はあくどい貴族に不満や憤りはあっても、それそのものを滅ぼすまでの発想には至らなかった。だが、認めよう。どんなに無謀なものであったとしても、その志と野心に意義があることを。その理想に全力で挑む価値があることを」
ラルフは足を組みなおし、肘をついた。余韻に浸るようにラルフは一瞬目を閉じ、ふふ、と笑みを漏らす。
「何より面白そうだ」
万感の思いが籠った声でラルフは呟いてから、ふいに顔を上げて尋ねる。
「一つ尋ねたい。一歩間違えれば、お前はもちろん俺は――いや、俺の仲間もみな破滅する。もっと言えば、事の成否にかかわらずその戦いの過程で多くの民も巻き込まれて死ぬだろう。その責務をお前はどう思う」
口にした後すぐにラルフは「いや」と首を振り皮肉っぽく口の端を歪める。
「つまらないことを聞いた。戦いを挑む以上犠牲は出るものだ。今更その意味が分からないお前ではあるまい。それにその責務をお前だけに押し付けるも酷と言うものだ。生きている限り何があっても前を行く他はない。死んだ後は、各々の罪に応じて地獄でゆっくり責め苦を受ければいいだけのこと」
「その通りだ。それ以外にはなりえない」
簡潔にして明瞭。小気味よく首肯して断じるヒルデに「そうか」とラルフは愉快そうに肩を揺らした。
「今は俺とお前の話だ。ゆえに質問を変えよう。初めにした話だ」
「初めの話?」
「そうだ。俺が報酬の話をしたときお前は言ったな。『失望はさせない』と。ならば今一度聞こう。お前の依頼――この大それた夢に全てを預けろという依頼の報酬はなんだ?」
ヒルデは差し出した右手を広げ、自信に満ち溢れた顔で堂々と答えた。
「私の持つ全てだ」
ラルフは目を瞬かせた。ヒルデは豊かな声で続けて言う。
「私が全てを成し遂げた後、あるいは夢半ばに終わった後、私の全てをラルフ――あなたにくれてやる。うまくいけば、国の全てが。失敗すれば惨憺たる死があなたのものだ。すべてはこれからの成り行き次第。王冠か処刑台か。両極端な話だが、そもそもが博打みたいなものだ。あなたが言っていた大好きな博打だ」
勝気な瞳が心底楽しそうにラルフの反応を伺う。
暗い夜の中ふと訪れた静寂。それはふいに笑みをこぼしたラルフによって破られた。最初、おかしそうに小さく笑うラルフだったが、やがて肩を揺らし、その後声を上げて大笑した。おかしくてたまらぬ、といった様子で笑い続けていたラルフはやがて笑いを抑えると、太い息を吐いた。
「大層な話をした後、失望させないと断言して、結局は出世払いや空手形の類とは恐れ入った。交渉事としては下の下もいいところ。それをこうも自信たっぷりに言ってのけるとはな。ふふっ。なんて強欲で傲慢。まったく、お前は大した詭弁家だよ、本当に」
貶すような言葉を愉快そのものの様子でそう言った後、ラルフは目尻に溜まった涙を拭う。ヒルデも肩を揺らして応じた。
何もかもが無茶苦茶だ。あるのは夢と意志だけだ。それ以外は何もない。
だが、すでに答えは出ている。出てしまっていた。
ラルフは笑みを湛えて、一言求められていた応えを口にした。
「その依頼を受けよう」
ヒルデがぱっと表情を明るくする。その瞬間だけヒルデの年相応の幼さを垣間見て、ラルフは思わず苦笑を漏らす。
「よほど嬉しかったと見える」
ヒルデは咳払いとともに少しだけ顔を赤面させた。
「嬉しくないと言えば嘘になる。私も人の子だ。嬉しい時は嬉しい顔の一つは見せる」
「そうか。俺としても応じた甲斐があったというものだ」
ラルフはおもむろに椅子から立ち上がった。そのまま窓辺の方に向かうと、窓の外の月を眺めやる。
「目に見える金品財宝は価値に限界がある。無論ないよりはあった方がいいが、どうあっても俺の心を完全に満たしはしない。だが、そういう意味ではどんなに困難でもお前の理想の方が心躍る。この世に生を受けた以上、金のためではなく、志のために生きたいものだ」
誰に訊かせるともなくラルフは呟いた後、振りむいて、ヒルデと向き合う。ひねくれ者が見せるような皮肉の色を顔に浮かべて、ラルフは切り出した。
「依頼の通り、俺の全てをお前に預けよう。が、その前にやっておかなくてはならないことがある」
「……?」
戸惑うヒルデを前に、ラルフはさっと片膝をつき一礼をした。
「ヒルデ・シューマッハ。その野心に敬意を、その勇気に称賛を。何よりも苦境にあってなお損なわないあなたの気高さに忠誠を捧げる」
ラルフは顔を上げた。心胆から発した嘘偽りのないまっすぐな言葉でラルフは宣誓する。
「約束しよう。あなたの心が変わらぬ限り、俺は――ラルフ・ランドルフはあなたに仕えよう。あなたの理想のため、俺はあなたに全てを預ける。願わくばあなたの望みが叶わんことを。俺もそうなるよう全力を尽くす」
予想外のことだったのか、ヒルデは咄嗟に言葉が出なかった。同時にヒルデは打ち震えるような感覚を覚えた。
貴族嫌いで名を馳せた黎明の狼の棟梁ラルフ・ランドルフが頭を下げて臣従の誓を立てている。対等ではなく、忠誠。賢く誇り高く勇気に満ちたこの男が、ヒルデを認めて誓ったのだ。
活力に満ちた男の目がヒルデの返事を待っている。
決して扱いやすいとは言えない男であるのは間違いない。この男は確かに言った。『あなたの心が変わらぬ限り』と。それは、ヒルデが道を外せば容赦なく切り捨てるという意味に他ならない。一筋縄ではいかない男だが、であるがゆえにヒルデは内心浮き立つ気持ちを抑えられない。
鼓動の昂ぶりを覚えながら、ヒルデは口元をほころばせて言った。
「心変わらぬ限りとは。言ってくれるではないか」
ラルフがかしこまった口調を改め、にやりと笑って返す。
「当然だ。人は容易に変わる。確かに俺はお前を認めはしたが、身に余る栄達や辛酸たる苦境がお前の魂を変えないとは限らない。見苦しさを極めたその時は俺手ずから始末をつける」
「なるほど。臣従を誓う身としては無礼極まる言葉だ。しかしそうでなくてはあなたを頼んだ意味がない」
ヒルデは威儀を正した。なおもまっすぐに見つめるラルフに誠意もって返した。
「その心からの言葉嬉しく思う、ラルフ・ランドルフ。今日より確かにあなたは私の第一の臣下だ」
ラルフは「承知した」と短く返す。すると、「だが、それ以上に」とヒルデが続けた。
ヒルデは屈んでラルフの手を取る。何事か、と訝し気な目をするラルフを立ち上がらせヒルデは言った。
「あなたは友であり、理想と志を共にする仲間であり、そして国を滅ぼさんとする大切な共犯者だ。このような出会いは今までも、そしてこれからもないだろう。だから私もあなたに、この夜に誓おう。どんな時であってもあなたの期待を裏切らないことを。私の理想のため、そして私の理想を認めたあなたのために」
ラルフは破顔した。つくづく、好ましい女だ。心からの賛辞を胸にしまい、ラルフは冗談めかして言った。
「まるで夫婦の誓のようだ」
「それにしては中身があまりに物騒だがな」
そう言って互いに屈託なく笑いあった。この時ヒルデ・シューマッハは十五歳。ラルフ・ランドルフは二十二歳。ともに世界の不条理に挑むにはあまりに若すぎる二人ではあったが、不思議と互いに暗い前途は見えなかった。
自分たちがやらねば誰がそれを為す――そう内心うそぶく声は一つではない。少なくとも二人にとっては、今日という出会いが波乱に満ちた理想への大きな第一歩であることは間違いなかった。
そして、確かにこのとき歴史が動き始めたのだった。