皇帝アレクサンドル・ギストーヴ
リンド地方で思わぬ敗北を受けたギストーヴ帝国の将兵たちは帝国領内の都市ソグリフに撤退していた。
当初、その兵力は二万であったが、今や一万五千。連合軍と交わした講和の実態としてはほぼ痛み分けのようなものだったが、約三割弱の損害はどう取り繕っても大敗以外の何物でもない。
どのような理由があれ負けた事実は変わりようもなく、責任の所在は当然率いた将にある。例えそれがいかな名将であっても例外ではない。グラドビッチ将軍の姿もこれで見納めか、と帝国内では噂が立っていた。
見納めというのは、何も左遷という話ではない。責任を取って死刑とされるのでは、ということである。厳しいようにも思えるかもしれないが、帝国の歴史において珍しいことではなかった。栄えある帝国に敗北があってはならないのである。
将軍を尊敬する側近の一人が進言した。今からでも皇帝陛下に事情を話されてはどうか。賢明な陛下であれば、必ずご理解いただけるはずです。
しかし、老将軍は頑として拒んだ。もとより戦に出る以上死は覚悟できている。今更命惜しさに許しを請うとは言語道断だ。私に詰まらぬ恥を掻けというのか。
しっ声こそ放ちはしなかったが、側近の言を将軍は拒絶した。なおも反論したげな様子を側近は見せたが、しかし将軍の強硬な態度は変わることはなく結局引き下がるほかなかった。
連合軍との講和が結ばれた後、グラドビッチ将軍に迷いはなく、従容としたものだった。見苦しさを一切見せず、帝国軍をソグリフまで淡々とした姿で撤退させた。安全圏まで撤退した敗軍の将に残された仕事はもはやただ一つ。その責を負うことだけだった。
グラドビッチ将軍は歴戦の将らしく重厚さを保ちながら、最後の務めを果たしに単身向かって行った。
ソグリフ一の屋敷に入り、大広間に通された彼は恭しく跪いた。
彼が跪く相手はただ一人である。ギストーヴ帝国において至尊の地位にある皇帝その人がグラドビッチ将軍の言を待っていた。
「陛下からお預かりした兵を失い、かつ帝国の威信を傷つけ、陛下の御心を悲しませたこと誠に申し訳ありません。臣の命では到底償うことあたいませぬが、敗北した責として死を賜りたく存じます」
すでに死の覚悟を決めた者に言い訳は不要だった。ただそれだけ言うとグラドビッチ将軍は剣を抜き、己の首に切っ先を向ける。後は喉を突き差す、それだけだった。
しかし――
「ならん」
端的に。その一言だけで英邁さを感じさせる声が男の口から発せられた。
ギストーヴ帝国の第六代皇帝アレクサンドル・ギストーヴ。齢三十の歴代でも若き皇帝がグラドビッチ将軍の決意を否定する。
強い言葉ではない。しかし、その言葉には絶対の響きがあった。
グラドビッチ将軍の手がぴたりと止まる。若き日から多くの敵を屠ってきた歴戦の将軍といえども、忠誠を誓った皇帝の言に逆らうことは不可能だった。
「私がなぜ自らここに足を運んだと思っている。お前たちの命を救うためだ」
それ以外の異論はありえようもない。絶対者の理屈が明快な言葉となって発せられる。
「セルゲイ。お前が死ねば、その労を無に帰すことになる。死んではならん。これは命令だ」
「……ははっ!」
グラドビッチ将軍が剣を収めたのを見て、皇帝アレクサンドルは短く鼻を鳴らした。
目鼻立ちに冴えがあり、細身ではあるが引き締まった体、はつらつとした風姿は英雄然としている。
そして、実際見た目を裏切らず、北方の雄に相応しい名君であると帝国内外で認められつつあった。皇帝の座に即位して七年。その間に軍事や内政その両方において改革を推し進め、国力を大きくした実績はただの無能にはできないことである。
「リンド地方獲得は我が帝国の悲願だ。志し、軍旅を起こしたことは数知れず。しかし、成功したことは片手に収まるほどしかない。今更一度や二度の失敗はどうということもない。次の成功に活かせば十分釣りがくる。違うか?」
「敗将である臣の口からはとてもではありませんが、申し上げられません」
グラドビッチ将軍の言に皇帝アレクサンドルは口の端を吊り上げた。
「確かに。これは俺の失言だ。許せ、セルゲイ」
「とんでもございません」
「聖遺物のことを気にしているなら、無用の心配だ。あれらは元よりこのような時のためにとっておいたもの。使うべき時に使われた手札の一つだ。失った内にも入らん」
さて、と皇帝は好奇な目で、
「今は休め、と言いたいところだが一つ問いたい」
と切り出す。グラドビッチ将軍は顔を上げた。
「ウバルド城での勝報を聞いたとき、私は帝国が勝利したと思った。だが、現実は違った。――セルゲイ。お前に苦杯をなめさせた者の名はなんだ?」
少しの間を置いてグラドビッチ将軍は重々しく口を開いた。
「ガラック王国軍、エリック・リッカーズ。それと――」
確証はどこにもないがゆえに口に出すことを躊躇った。しかし、それも一瞬のこと。放置するにはあまりに危険な将才だった。
「ラーザイル連邦、ヒルデ・シューマッハでございます」
「そうか」と呟いた皇帝の声音は称賛とそれと同じくらい好戦的な感情が漏れ出ていた。
「覚えておこう。帝国に仇なすその英雄たちの名を」
野心に輝く瞳がまだ見ぬ敵の姿を想像する。高まる戦意が新たな強敵を歓迎して、不敵な笑みを作る。侵略を重ね、やがて相対する彼らを組み伏せた時、帝国の――皇帝アレクサンドルの覇業は成し得るのだろう。その先の未来に皇帝は思いを馳せた。
善悪の区別なく、ただ貪欲に野心家は自身の夢を追う。流血の量など眼中にも入らない。それが悲願であるからこそ、どんな犠牲があったとしても手を伸ばさずにはいられない。その良し悪しを後世がどう判断したとしても、知らぬ話である。己が生きている間に成し遂げたい彼ら、彼女たちにとって死後の評価はさほど意味を持たないのだから。
かくして世界の歴史は今日も動いていく。今を生きるすべての人間が動かす世界の行き先がどうなるのか誰にも想像はつかない。しかし、大きな火種が一つ生まれたのは間違いないようだった。
これにて第二章は終わりです。
いかがだったでしょうか。世界観を広がればいいなと思いながら書きました。一足飛びのような内容にならないよう気をつけたつもりですが、説明が飛んでいたり、あるいはかえって細かくなりすぎて、描写が拙くなってしまったかなと心配になったり。
第三章も頑張りたいと思います。
先日もお伝えましたが、継続して書く予定ですのでよろしくお願いします。
ただ実は今他の作品を書いている途中で、本当に間が空いてしまいます。
ここまで読んで下さった方は少し申し訳ないですが、気長にお待ちください。
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