伏兵
前日と立場が変わって、今度は帝国軍がガラック王国軍を追う形となった。ガラック王国軍の背を追う帝国軍の行軍速度は速い。出発して一時間たたずに敵の背を視界に収めた。
林に挟まれた隘路に入って行く敵の輜重隊と思われる荷車を見て、グラドビッチ将軍は行軍速度を急がせた。
「思いの外敵も早いな」
老将軍の呟きに側近は答えた。
「敵も追いつかれれば負けると意識しているのでしょう。ですが、その分疲労もたまっているはず。戦闘を行えるほどの余力はないかと」
グラドビッチ将軍は厳しい顔で頷いた。ただ、頭の片隅に妙に引っかかる違和感が残っている。確かにそうかもしれないが、重大な見落としはないか気になっていた。
帝国軍も隘路に入って行く。道も狭く細い縦列隊形で目の前にいるガラック王国軍の背中を追っていく。
ほどなくして、帝国軍の先頭が敵と交戦可能な距離に入った。その報告をグラドビッチ将軍は受けて、
「攻撃せよ!」
グラドビッチ将軍は戦いの号令を下した。帝国軍は喊声を上げ、最後尾にいたガラック王国軍の輜重隊に剣を振り上げる。
輜重隊は食糧等補給を運ぶ部隊であり、戦闘を行うことまでは想定されていない。抵抗できるわけもなく、輜重隊は荷車を棄てて蜘蛛の子を散らすように林の中に逃げ込んで行った。
帝国軍は林に入って行った彼らを無視して、前を進んでいった。ガラック王国軍の本隊を潰すまでが目的である。しかし、敵の姿は一考に見えなかった。
おかしい、敵はどこに行った、と戸惑いながら進んでいくと帝国軍は戦列を敷いたガラック王国軍に出くわした。
敵の姿に返って安心した帝国軍は勇んでガラック王国軍の陣に突撃した。その戦列はいかにも準備不足で、一当たりで簡単に突破できそうな薄さだった。
しかし――
「まだ突破できないのか」
一人の将校が苛立ちを見せた。縦に長い縦列隊形のせいで、前方で行われている戦闘がよく見えない。できることと言えば、いつでも参戦できるように前に進むことだけである。
だが、その将校が最前線に行けば驚愕したことだろう。突破したと思われる防御陣の奥には準備万端の連合軍およそ五百弱が細い道を完全に封鎖していたのである。
視界が遮られている戦場において当然だが、その状況はまだ帝国軍全体に知られていない。帝国軍は予想外の抵抗に戸惑うばかりだった。その時のことだった。ふいに戦場にラッパの音が鳴り響いた。
予定のない合図に帝国軍は戸惑う。そして、その瞬間グラドビッチ将軍は敵の術中に嵌ってしまったことを悟った。
そのラッパの音が意味するところを知るまでさして時間はかからなかった。
「後方の道が遮断されました!オルティアの騎兵です……!」
その報告と同時にグラドビッチ将軍はすぐに叫んだ。
「伏兵だ!小隊ごとに固まり防御態勢を取れ!」
その命令で周囲の兵士たちは冷静さを少しだけ取り戻した。しかし、落ち着く暇もなく、畳みかけるような勢いで第二報が入ってきた。
「側面から敵が出現!林の間からクロスボウの攻撃を受けています!」
ぞっとする急報の連続に帝国兵の背筋が凍り付いた。罠にかかったのは帝国軍の方であったのだ。気が付けば前後を挟まれ、逃げ場はほとんどなくなっていた。
逆を言えば、連合軍にとっては待ちに待った好機だった。
オルティアの騎兵隊を率いるヒルデは叫んだ。
「私に続けぇええええええええええええええっ‼」
ヒルデの気迫に奮い立ったようにオルティアの兵士は吶喊して馬を走らせた。身の毛もよだつような独特の叫び声が帝国軍の士気を大いに削いだ。
立ちすくむ帝国兵。そこにオルティアの騎兵が突撃した。その衝撃たるや帝国兵の最前列は一瞬で崩壊するほどだった。
動揺した隙を逃さず最大火力を叩きこむ騎兵の突撃。それはまさに戦における模範だった。事実帝国軍の後軍は大いに乱された。
「なぜ、ここにオルティアがいる⁈」
「カマラにいたのではなかったのか⁉」
その帝国軍の悲鳴はいたるところで上がった。その事実は三日前のことだ。それは帝国軍を油断させるため、ヒルデが敢えて流させた情報――つまるところ罠だったのである。
あれだけ規律を保っていた帝国軍が混乱していた。特にグラドビッチ将軍から離れれば離れるほどそれが顕著で、攻撃すべきか、守るべきか、それとも逃げるべきかまるで定まらなかった。
そこをヒルデ率いる連合軍が突き破っていく。オルティアの騎兵たちが得意とする機動力と勢いに帝国軍は為すすべなく蹂躙された。
「ボリス」
「御意」
短い頷きと共に馬を前に出したボリスは帝国兵を大剣の一振りで吹き飛ばす。無理矢理切り開かれた道をヒルデたちは通り抜け、同行するクララは愉快そうに口笛を吹いた。
「本当に実現しやがった……」
そう無意識に感嘆の声を漏らしたのは帝国軍の前方で進路を塞ぐ部隊を任されたエミールであった。なぜ彼がここにいるのかと言われれば、ヒルデの指示に他ならない。後詰としてセレーナに到着するやいなや、休む間もなく移動を命じられたのである。
セレーナの守りはいいのか?そう戸惑うエミールにヒルデの指示は続いた。
カマラへの道を封鎖する準備を整えてほしい。数日とせず、帝国軍が現れる。準備にあたっては可能な限り帝国兵にばれぬよう内密に頼む。
ヒルデの命令に従いつつも半信半疑で準備をエミールだったが、ヒルデの予言通り帝国軍が現れたことにまず驚き、ついでその帝国軍が思い通りに罠に嵌められ混乱している状況に言葉を失った。
「どうする?やっちまうか、エミール?敵の様子を見るに今がいい機会だと思うが」
黎明の狼からの付き合いである同輩の好戦的な提案にエミールは我を取り戻し、ついで「はあ⁈」と目を剥いた。
「俺たちの役割は足止めだ!ヒルデ様も言ってたろ⁉無理して攻めるなって!」
「そうだけど、そんなに怒ることはねえだろ?俺、変なこと言ったか?」
男が周囲に同意を求めると、
「俺も今がチャンスだと思う」
「やってやろうぜ。逃す手はねえって」
と他の仲間たちも口々に賛意を表した。しかし、エミールは逆上して叫ぶ。
「俺たちは五百だぞ?相手は二万!分かるか⁈出られるわけねえだろうが!」
「でもよお。頭だったら行くと思うぜ?」
「ラルフと俺を一緒にするな!」
そう言ってからエミールは頭を抱えた。
「なんで俺が部隊を率いているんですか、ヒルデ様……。裏方の俺には向いてないですって……」
その様に同輩たちは同情した視線を向けて、苦笑しながら提案を引っ込めた。黎明の狼のメンバーの中での御約束事ではあるが、彼らは苦悩するエミールを見ると、なぜか馬鹿らしくなってどうでもよくなるのである。
結果として、エミールの慎重さは正解だった。有利な状況で我を忘れそうになるが、エミールの数は五百。対する帝国軍は二万である。この瞬間有利でも、帝国軍が少しでも反撃に意識が向けば五百なんて数は簡単に吹き飛んでしまう。本来の目的は足止めである以上、無理なリスクは取るべきではない。
一方、帝国軍の右側面の林から矢を放ち脅かしているのはガラック王国軍の先遣隊千五百だった。帝国軍が追っていたガラック王国軍の実態である。旗を多く掲げ、できるだけ派手に行軍して実数より多く見せてはいたが、実情はクロスボウ兵を中心にした軽装備主体の兵であった。
もともと身軽であった彼らは、エミールの手配で準備されていたこともあって、林に入るや否やすぐに配置につくことができた。
そして今。彼らは林を盾に障害物の隙間や高所から帝国兵を狙い撃ちし、少なくない損害を与えることに成功している。
逃げ場のないほとんど完璧と言っていいほどの半包囲の中に帝国軍は囚われていた。通常なら、それが出来上がった瞬間、敵軍は戦意を失い崩壊する。それほどの圧倒的不利な状況。
しかし、グラドビッチ将軍率いる帝国軍はそう簡単にはいかない。
「盾を掲げて矢を防げ!列を乱すな!戦え!」
グラドビッチ将軍の叱咤が戦場に響く。
「敵も強行軍で疲労しているはずだ!攻撃はいつか止まる!それまで耐えよ!逃亡する者は切る!」
グラドビッチ将軍の激励と脅迫に我に返った一部の帝国軍は密集隊形となって守りを固め始めた。帝国軍の練度とグラドビッチ将軍の統率力もあってのことだが、完全に不意をつかれた対応としては驚異的な偉業であった。
対するヒルデにとっては嬉しくない抵抗だ。
ヒルデの指揮する奇襲部隊の数は約五千。帝国軍の四分の一に過ぎない。長期戦となって、勢いがなくなれば、帝国軍の反撃が始まる。そうなれば数に勝る帝国軍によって叩き潰されるだろう。
ヒルデは猛攻撃を加えるべく、自身も戦場に身を投じて剣を振るった。その気迫が新たな勢いとなって、帝国軍の陣を深く抉る。
ふとヒルデの視線の先に、白髪の老将軍を捉えた。その視線に気づいた老将軍――グラドビッチ将軍は目を大きく見開いた。
「――ヒルデ・シューマッハ……!」
直後、グラドビッチ将軍は根拠のない奇妙な確信に打ち震えた。
この奇襲は茶畑の軍師によって仕組まれた周到な罠だと思っていた。しかし、違う。強い意志に燃える赤い瞳がそのように断定していた。あの女――ヒルデ・シューマッハこそがこの戦場を作り上げた張本人だと。
二将の視線が交差したのは一瞬だった。すぐに二人の間に数多の兵士が入り乱れて見えなくなった。
「……!」
気を取り直したグラドビッチ将軍は声を励まして破れそうになっている陣に指示を出す。感傷に浸れるほどの余裕は毛ほどもないのである。
耐える帝国軍。猛火のように攻める奇襲部隊。しかし、時間も過ぎて戦いも佳境。連合軍の攻める勢いが徐々に失われようとしたその時だった。
両軍入り乱れる戦場で二度目のラッパが鳴った。
「やれやれ追いついた。もう少しで遅刻するところだった」
すでに戦闘に入っているヒルデたちを見て、エリックは安堵の息を吐いた。ガラック王国軍の本隊の登場である。
ヒルデは喉を破らんばかりに大声で味方に知らせた。
「ガラック王国軍の本隊が到着したぞおおおおおおおおおおっ‼」
連合軍は手にした武器を高々と揚げ、歓声で応じる。
一方、帝国軍にとってその加勢は決定的だった。
やや態勢を取り戻しつつあったが、新手の数と勢いには抗しきれない。騎兵に荒らされた後軍は耐えきれず崩壊し、前方や連合軍のいない東側の林の方へ帝国兵は走り始める。無論、林に逃げた者に当てなどなく、その場を逃れようと道なき道を敗走することとなった。
ただ林に逃げた帝国兵には残酷な運命が待っていた。走った先にあったのは底見えぬ深い谷だったのである。
落ちれば死ぬ。目の前の絶望に立ち尽くす帝国兵だったが、留まることは許されなかった。他の逃亡兵に押されて、奈落に突き落とされる。谷底に転落した帝国兵がどれほど生き残ったかは誰も知らない。
続々と続く戦況悪化の報告に側近たちは顔色が悪くなっていく。固唾を呑んで彼らはグラドビッチ将軍の決断を待った。さほど長い時間ではなかったが、側近たちには永遠のように感じられた。
「潮時だな」
その一言に側近たちがはっと見上げる。自軍の敗北を見切ったグラドビッチ将軍に迷いはなかった。
「撤退する。退路を開くぞ」
「どちらにですか⁈」
側近の絶叫にグラドビッチ将軍は剣を抜き、続けて言った。
「薄いのは前方だと見た。正面突破で突き破る!」
「し、しかし、前にも敵が――」
「すでに退路はない以上関係ない!私自ら出る!死に物狂いでついてこい!」
その気迫に側近たちは身震いをして力強く応じた。満身創痍の帝国兵は死兵となって前を走り、エミールの守る陣営に突撃した。
大勢の帝国兵が怒涛の勢いで押し寄せる。その凄まじい決死の形相と勢いにエミールは優勢にもかかわらず恐怖で震えた。
「撤退だ!逃げろっ!林に逃げろおおおおおおっ!」
半ば生存本能に突き動かされたようにエミールは大声で叫んだ。躊躇いなく陣を放棄して、林の中に逃げ込む。もとより陣の防衛に対してそれほどこだわりがあるわけでもない。
帝国軍は逃げるエミールたちに目もくれず、北へと走りぬけていった。
しばらくして、帝国軍がいなくなったのを確認してエミールたちは恐怖から解放されたように互いの肩を抱き合った。
「「「「「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ‼」」」」」
連合軍は高らかに勝ち鬨を上げた。連合軍の圧勝であった。
ただ、それで終わりではない。追撃戦が残っていた。
戦果を拡大すべく、ヒルデはオルティアの騎兵を率いて帝国軍に追い打ちをかけた。
逃げる帝国軍は自分が狩られないことを祈るしかない。しかし、その祈りを素直に聞く敵はいない。オルティアの騎兵はその速度で容易く帝国軍に追いつき、次々に屠っていった。
結果として、帝国軍は兵力の三割を喪うほどの大敗を喫したのだった。