不可解
セレーナ落城後の帝国軍の動きはいたってシンプルだった。帝国本国の補給、連絡路を断たれぬ地点――カマラまで北上し、そこで態勢を整える。それだけであった。
セレーナを奪われたことは確かに痛手ではあったが、兵力の損耗としては大きくない。都市カマラまで戻れば、万全の態勢で迎え撃てる。
仮に長期戦となったとして、本国と距離が近い帝国軍の方が有利だ。連合軍の主力であるガラック王国軍やラーザイル連邦軍は長期滞在の準備をしていない。ドールト公が連合軍すべての食料を賄い続けることは不可能であり、冬になれば大半がそれぞれの国に戻っていくだろう。帝国軍とて厳しい冬の間、戦うことはできないが、敗北した連合軍が春になって再結集する可能性は高くなかった。
ただ未来の展望はそうであったとしても、現状が厳しい状況であるのは変わりがない。 粛々とセレーナ以北への撤退に向かう中、帝国軍にとって悪い知らせ――続々と城が奪われている報告が届いた。
「クセス、ダックストが奪われました」
クセス、ダックストはセレーナ付近の小都市だ。もとより大した防備もなく守備兵の配置もほとんどなかったことから維持できないことは明らかだった。その上、対応する時間もなければ手の打ちようもない。できることと言えば駐留する部隊に早めに撤退するように指示を送るくらいである。
クセスやダックストを経由して北上できなくなるのは仕方のないことである。不本意ではあるが、残された道を使えば撤退することは可能であった。
「オルティアの騎兵か……流石に早い」
夜中の軍議の席で将校の一人が唸る。セレーナがオルティアの騎兵によって落とされたことは帝国軍の方にも伝わっていた。
「だが、そこで限界のはずだ。カマラには十分な守備を施している」
「確かにカマラならば騎兵だけでは攻略できない。が、念のため奇襲の警戒も怠らぬよう呼びかけた方がいいでしょうな」
将校の提言にグラドビッチ将軍が重々しく頷き、「他にないか」と確認した。
固い面持ちで側近の一人が言った。
「……モルギフ、サランも降伏したと報を受けております。こちらはいかがいたしましょうか?」
モルギフはディオルシル川付近のリンド地方東域、サランはリンド地方南西の外れの城でともに早くから帝国側に付いた地域であった。
「一度敗北を喫し、各地に散った連合軍がセレーナ落城を機に反撃に出たというところか。状況次第では他地方領主も連合軍に寝返る可能性もありえるな」
「セレーナ以北以外のことは捨て置け。大勢に影響はない。が――」
グラドビッチ将軍は眉間に皺を寄せた。どこか迷うような様子に側近たちは戸惑う。いつも厳とした姿を崩さない老将には珍しい仕草だった。
「敵の反撃が早いな」
どの地域も撤退した以上、いずれ奪われるだろうと想定していた。確かにセレーナを奪取され、帝国軍は撤退している。が、帝国軍自体はほとんど無傷である。その帝国軍相手にここまで積極的な攻勢は今までの統率に難のある連合軍らしからぬ機敏さだった。
「ガラック王国軍は?」とグラドビッチ将軍は問う。
「相変わらず距離をおいて追ってきています。今はこのあたりです」
と側近が地図の一点を指した。反転してガラック王国軍の下へ急行したとても不意をつかれることのない距離を王国軍は保ち、守りやすい地形を抑えて行軍している。
「嫌な位置だ。……ただ、今回は少し近いな」
「急行すれば一戦することは可能ではありますね。兵力差を考えると試す価値はあるかもしれませんが……」
側近の伺いにグラドビッチ将軍は首を横に振った。
「敵も備えているだろう。戦闘で下手に時間を浪費すれば、散った連合軍が集結する可能性が高くなる。我が軍の進退が難しくなることを思えば今は放置するしかない」
グラドビッチ将軍の判断にその場にいる面々も同意して頷いた。
ただそのように言った一方でグラドビッチ将軍はガラック王国軍側の意図を計りかねていた。この追尾が牽制であること自体は明白だが、なぜ帝国軍の視界に入るような距離にまで近づいてくるのか。
今、帝国軍を追っているガラック王国軍は帝国軍の半数しかない。もし真正面からぶつかりあえば、王国軍が負けることは明らかだ。安全性を意識するならもう少し遠巻きに見守るのが自然である。
――ただの気にし過ぎか。
戦場ではありとあらゆる可能性がいたるところに転がっている。特に敵将の思惑というものはその最たるものでで、互いの手札が分からない以上推測には限界があった。そういう時は、自軍にとって分かりやすい合理的な手段を選ぶのである。そしてこの場合と言えば、一つだった。
「方針に変更はない。このままミセスを経由してカマラに向かうとする」
そのようにグラドビッチ将軍は決断を下した。
帝国軍は北上を続け、当初の予定通り、道中のミセスの町に入る。食料など一時補給を進める一方で、グラドビッチ将軍は兵士に情報収集を命じ、また自身もミセスの領主を呼び寄せて説明を求めた。
帝国兵に囲まれ真っ青なミセスの領主貴族は声を震わせながら自身の知るすべてを語った。
その情報がほとんど正確で、ことによっては帝国軍より詳しくすらあったために話を聞いたグラドビッチ将軍たちは驚いた。
「オルティアの騎兵は三千。後詰にセレーナに入った歩兵が二千余り。先の敗戦で散った連合軍も、各地からこちらに向かって集結中……」
唸りながら話をまとめた将校の発言を皮切りに、帝国軍の面々は頷き感想を言い合った。
「数が知れたのは大きいな」
「ウバルド城で見た騎兵とほぼ同数……敵は騎兵全てを投入したということですか」
「大胆だな。確かにセレーナはほぼ空だが、下手をすれば後詰も含めて全滅だ」
「まさに。だが、その博打こそが敵の最善となっている。守りの兵もいるとなるとセレーナを奪い返すのも難しいな」
一人の将校が領主貴族に尋ねた。
「それでオルティアの奴らは今どこにいる?」
「オルティア人は今、カマラを攻略中とのことです。ただ、攻め手がなく難航していると聞きました」
将校たちは安堵の息を吐いた。これでカマラまで攻略されたとなると帝国軍の撤退はさらに厳しくなっているところだった。
しかし、ただ一人その空気に染まらない男がいた。
「……やけに詳しいが、貴殿はそれをどこで知った?」
グラドビッチ将軍の凍てつくような鋭い眼光に射すくめられて、領主貴族はぶるりと身震いした。
「我が町の商人ギルドからです」
帝国軍にとって予想外の答えに将校たちは目を瞬かせ、「商人ギルド?」と聞き返す。
「商人風情が軍の動きをなぜそこまで詳細に知っている?」
それはただの純粋な疑問だったが、領主貴族は自分が疑われているのかと思い、必死な思いで声を上ずらせながら答えた。
「商売を行う彼らにとって軍の動向は死活問題です。彼らは利益を得るため、失わないためにあらゆる手段を講じて各地域、都市にいる仲間と連絡を取り合っています。私はただ彼らから聞いたことをそのままお伝えしているだけで、何も嘘は申し上げておりません!」
なるほど、とグラドビッチ将軍は内心納得した。連合軍の機敏な反応の背景には、商人ギルドの迅速な情報の伝達があったのだ。セレーナを失ったことや帝国軍の撤退が連合軍の行動をより積極的にしているのだろう。
グラドビッチ将軍は黙考に移る。その沈黙が耐えきれず、領主貴族は緊張のあまり大量の汗をかいた。すでに精神的限界も近い領主貴族を将校の一人が宥め、労ったのちに帰らせた。
しばらくして、巷で情報収集してきた兵士たちが帰ってきた。兵士たちはグラドビッチ将軍たちに同じような情報を伝えた。
「ふむ。予想以上にセレーナのことが誇張されて広まっているようだな」
「オルティアの襲撃がそれだけ衝撃的だったようです。どうやらその軍を率いた敵将がまた人気に拍車をかけているようです」
「将?」
「シューマッハ公です。最前線で戦うその姿から、一部には聖女クラウディアの再来ではと呼ぶ者もいるようです」
「……」
グラドビッチ将軍は顎をさすった。父子ともども厄介なものだ思う反面、親子二代にわたってこうも苦しめられる状況に奇妙な感慨深さを感じた。
その時、偵察に放っていた兵が戻ってきた。
「報告です。ガラック王国軍ですが、我が軍の追尾から外れ、セレーナの方面に続く東の道に向かったとのことです」
「おお」と帝国軍諸将は声を上げた。
「セレーナの守りをまずは固めるといったところか」
「その可能性が高そうですね。このまま追ってくるのかと思いましたが……」
「よかったではないか。このまま追尾されていた方が面倒だった」
「カマラへの道は狭く、我が軍の行軍中に背後を狙われる可能性がありましたからね。無論、数に勝る我が軍の有利に変わりはありませんが、警戒が必要な分、行軍には時間を要したことでしょう」
諸将は頷いた。軍議で翌朝ミセスを発つと決定し、解散となった。
そして、その翌朝、帝国軍を驚かす報告が入った。
「報告します!ガラック王国軍が突如進路を変え、カマラへの道を先行しているとのことです!」
「なんだと⁈セレーナに向かったのではなかったのか⁉」
グラドビッチ将軍は唇を歪めた。
「我らの退路を断つ気か」
「……!」
諸将の背中に戦慄が走った。カマラへの道を封鎖されれば、帝国軍はリンド地方で進路を失い、進退の行き場を迷っている間に集結する連合軍に包囲されてしまう。
「夜の内に軍を進めたのだろう。カマラへの道は狭い。大軍が展開するには不利な地形だ。先回りして道を封鎖するのが敵の狙いか……。敵の位置はわかるか?」
「目と鼻の先にいます。ここからでは目視で見えませんが、およそこのあたりです」
兵士の指す位置を見て取ったグラドビッチ将軍は「やはりな」と呟いた。
「一度道を外れた分、距離は稼げなかったということだな。これならば今から追えば、半日とかからず、敵の背を捉えることができる」
「加えて夜の行軍で敵軍は疲労もたまっているはず。閉鎖の準備をされる前に背後から襲えば、勝利は固い。時間との勝負、ということですか」
グラドビッチ将軍は頷いた。時間を与えればその分だけ敵に準備の時間を与え、本当に身動きが取れなくなってしまう。
「兵を起こせ!出発の準備だ!ガラック王国軍の背を食い破るのだ!」