商人との取引
会談はささやかな茶会の形式で行われた。当初、ヒルデの来訪を知らされたレガスは都市セレーナの奪還を祝う祝宴を設けようとしていた。しかし、まだ戦の最中であることを理由にヒルデが断ったのである。
「この度はセレーナをお救いくださいましてありがとうございます。しかし、わざわざ御足労いただきすみません。我らセレーナを帝国軍からお救いくださったシューマッハ公自らこちらに来られると聞いたときは驚きましたよ。こちらからご挨拶に伺うべきところ大変申し訳ありません」
「なに、今回用があるのは私の方だ。であれば、私から出向くのが筋。貴殿が気にすることは何一つない。むしろ急なことで申し訳ないくらいだ」
「いえいえ、とんでもございません。かの高名なシューマッハ公に来ていただけるとは光栄です。――気に入られるかどうか分かりませんが、よければこちらの菓子をご賞味ください」
レガスの用意させた様々な砂糖菓子を見てヒルデたちは目を見張らせた。給仕された菓子類の中に色鮮やかな砂糖菓子が目を引いたためである。
ラーザイルにはまず見られないような物珍しい菓子に同席したクララが目を輝かせて、はしゃいだ声を上げる。
「すごいすごい!めちゃくちゃきれい!これ本当に食べ物⁉見たことないよ!」
眉を顰めたボリスが「少しは静かにしろ」と小声で窘めるが、クララの興奮は収まらない。砂糖菓子を一つまみし、色々と角度を付けて興味津々に眺める。
「金平糖というものです。砂糖に水を加え、煮詰めたものです。色を付ければこのように。甘くておいしいですよ」
そう言ってレガスは金平糖を一粒取り、口の中に放り込む。
「舌に広がる優しい甘さ。疲れた時につい食べたくなるおいしさですね。――実はここだけの話、ドールト公も御用達の品でございます。いかがでしょう?味には少し自信があるのです」
ドールト公という名を聞いて、ヒルデの顔に少しだけ苦みが走った。先の敗戦で見せた醜態のせいで印象は最悪と言っていい。ドールト軍があれほどあっけなく崩壊しなければ軍の被害はもう少し抑えられていたはずだった。
ただ、目の前にある食べ物とは別問題である。気を取り直したヒルデは勧められるままに橙色をした金平糖を一つ頬張ってみた。
まさか毒見もせずいきなり食べると思わなかったボリスは慌てて腰を浮かした。それをヒルデが手で制す。
「落ち着け。毒は入っておるまい」
舌で感じる堅い触感の金平糖を何となく噛み砕く。すると口の中に甘さが広がり、そこに予想もしていなかった刺激にヒルデは驚き、
「これは……オレンジ?」
「ご名答です。製造過程の中で果物の果汁を加えることで様々な風味が楽しめます」
「ほう……」
興味深そうにヒルデは再び金平糖を手に取った。
「普段、私はさほど食には関心がないのだが、面白いものだな。高級な砂糖をこのように使うとは。財のあるリンド地方ならではの物だろうな。富あればこその文化、なのかもしれん」
それから金平糖を自分の顔の前までつまみ上げて、ヒルデは熱心に眺める。
「見た目もよく、味も素晴らしい。嗜好品としての楽しみもあるだろうが、折衝事の前に出すのもよさそうだ。どんな相手もこれを食べれば態度を軟化させるだろう。その様が目に浮かぶようだ」
思わずレガスは目を瞬かせ、くすりと笑った。
「多くの方々にお褒めいただきましたが、そのような感想は初めてです。お気に召したようであれば何より。いかがです?お持ち帰りになりますか?」
その提案に少しだけ考えてヒルデは首を振った。
「気遣いは嬉しいが、大丈夫だ。我々は旅行に来たわけではないからな」
すると、クララが驚いた顔で抗議した。
「えー。折角だしもらおうよ!みんなに配ったらいいじゃん!ペトラも喜ぶよ!」
「む……。そうか、確かにな。では、いただくとしよう。対価は後で支払う」
レガスは笑いながら、
「いえいえ。お代は結構です。お帰りの際にお渡しさせていただきます」
「しかし――」
「こちらはセレーナをお救いいただいたお礼とご挨拶と思ってください。これからもどうかごひいきに」
そこまで言われるとヒルデも頷くほかない。
内心やられたなと舌を巻く。小さなことではあるが、交渉事の前にいきなり貸しを作ってしまった形となってしまった。自分の発言したことがそのまま返ってきた思いだった。
――やはり後で払っておくことにしよう。
根が真面目なヒルデはそのように思い返して、仕切り直すように言った。
「しかし、貴殿がまだセレーナにいたのは僥倖だった。戦の混乱を避けて他の都市に避難しているのではと思ったのだがな」
苦笑交じりにレガスは答えた。
「確かにそうするのが普通かもしれませんね。ですが、ここセレーナは我が商会の本拠地です。命惜しさに長である私が逃げ出すわけには参りません」
「豪胆なことだ。だが、帝国軍から不当な扱いは受けなかったか?」
「ご心配いただきありがとうございます。ですが、お気になさらず。シューマッハ公の前で敵を褒めるのも問題かもしれませんが、グラドビッチ将軍は規律に厳格なお方です。おかげで町への被害はほとんどありませんでした」
「民の被害が少なかったようで何よりだ。しかし、高くついただろう。帝国軍は貪欲と聞く」
カップを持ち上げるレガスの動きが止まる。しかし、それも一瞬のことで何事もなかったかのように紅茶を啜ると笑顔で言った。
「多少は。ですが、命の対価ともなれば安いものです」
その態度を見るに少なくない財が差し押さえられたということだろう。どの軍隊も慈善活動家ではない。己の兵士を食わせるためには金が必要だった。
「ふむ」とヒルデは一拍置いて、切り出した。
「ならばその負け分、取り返す気はないだろうか?」
レガスの動きが再び止まる。突然の提案に用心深い顔で「……といいますと?」と尋ね返す。その反応に手ごたえを感じたヒルデは微笑で応じた。
「ところで、レガス殿。実はあなたへの手紙を預かっている。少しだけ目を通していただきたい」
疑い深い目でレガスは手紙を受け取る。封を開け、レガスの眉がぴくりと動き、ヒルデに鋭い視線を飛ばす。
「……なるほど」とため息とともにレガスは呟いた。
「そういうことでしたか。であれば、諸々合点がいく。そうか、そうですか……」
その独り言の後には商人らしい愛想を棄てた男の素顔が現れた。
レガスがふいにヒルデの護衛に目を向け、「ちなみにお連れの方は?」と問う。
「手紙のことであれば隠す必要はない。『狼』のことはここにいる皆知っている」
レガスが机の上に手紙を落とす。手紙にはレガス宛に短く『機会あれば話を聞いてくれ』という一文と狼のエンブレムが記されていた。
「『明けの明星に』?」
「『狼は吠える』」
「『吠えた狼は』?」
「『ラルフ・ランドルフ』」
レガスは大きな息を付き、僅かに張り詰めた空気が緩む。先のやり取りは『黎明の狼』の間で交わされる仲間の確認方法の一つであった。
「まさか、ラルフ殿と縁のあるお方だったとは思いませんでした。しかし、納得です。最近大人しいと思っていたら、まさかシューマッハ公の下に身を寄せていたとは」
軽い驚きを籠めてレガスは言う。僅かに警戒が解けたのか、その声音からは親しみが感じられた。
「ほう。その様子だと何も知らされていなかったようだ。ということはその後のことも?」
「ええ、特には。しばらく取引はないだろうということだけご連絡いただきましたがそれだけです」
他になにか、と問いたげな目にヒルデは面白くなって答えた。
「その奴だがなんと今、私の騎士となって働いている」
「……今、何と?」
「騎士だよ。ラルフは私に忠誠を誓ったのだ」
「忠誠⁈」
動揺のあまり一瞬レガスの声が裏返る。クララが金平糖を頬張りながら言う。
「そうだよ?惚れたんだってさ」
「惚れ……⁉確かにシューマッハ公はお美しい方ですがしかし、それだけで……いや、ありうるのか……?」
動揺の激しい様子にクララが噴き出し、ヒルデも愉快そうに肩を揺らす。
「惚れた云々はクララの冗談だ。だが、私の右腕であるのは間違いない」
「なんと……。あのラルフ殿が、騎士ですか。あの貴族嫌いだったあの男が……っと、本筋から逸れましたね。取り乱してしまいすみません。本当に何から何まで驚かされることばかりです」
そう言ってレガスは額の汗を拭う仕草を見せ笑顔を作る。
「しかしまあ、これで私のところに来られたのも納得がいきました。――いいでしょう。彼には借りがあります。お望みのものがあればご用立ていたしましょう。可能な範囲ではありますが、大抵のものは用意できる自負があります」
「借りか。ふふ。ラルフには少し悪いが、そう言っていただければありがたい。やはり持つべきものは優秀な部下だな」
説得の手間が省けたヒルデは早速本題に入った。
「頼みと言うのは簡単だ。レガス殿の連絡網、これを利用させていただきたいのだ」
「……?連絡網、ですか?」
予想していなかった方向からの頼みにレガスは戸惑った。続けてヒルデはさらに奇抜なことを言ってレガスをさらに困惑させた。
「リンド地方の各地に散らばる風見鶏どもや帝国軍。そのものどもが欲する情報を広めてほしい。嘘をつく必要はない。事実だけを、彼らの望む真実を切り取ってくれてやるのだ」
ヒルデが挑発的に笑う。
「情報をもって盤面を作り変える。帝国軍を罠にはめるそのためにな」
ヒルデの言葉に周囲は水を打ったように静まり返った。
「これはまた……突飛なお話ですね」
少しして、レガスは言った。
「正直、私の連絡網一つで帝国軍をどうこうできるとは思えないのですが……」
そうは言いつつもどこか期待する自分がいることにレガスは驚いた。商人として情報の価値は知っているつもりである。しかし、それによって帝国軍を罠にはめるということはどういうことか。
正直なところ、半信半疑というのがレガスの本音だった。一方、彼女の描く勝利の絵図を知りたいという欲求が心の奥底で声を上がり、奇妙に惹きつけられる感覚に襲われた。
「もっともな心配だな。詳しく説明しよう」
十分ほどの説明の後、レガスはこれ以上ない驚愕に言葉を失っていた。説明に使われた地図に視線を走らせ、感に打たれたように息を吐く。
「そのような方法があるとは……想像もつきませんでした」
偽らざる本音を言葉にして、レガスは空を仰いだ。
「私は軍人、あなたは商人だ。同じ道具でも使い方は人それぞれということだろう。あなたが私の立場なら容易に思いつくはずだ」
「……いえ、それはないかと」とレガスはやや固い苦笑で返す。
「ただ、確かに素晴らしい作戦です。試す価値は大いにありますね」
「ああ。しかし、そうは言ってもうまくいく確率は思ったより高くないかもしれない。敵の思惑次第でどう転ぶかわからないというのももちろんあるが、私たちがいかにうまく情報操作しようとしても、思いもよらぬ他の事件によって書き換えられる可能性があるからな」
そう言って、ヒルデは紅茶を啜る。
「だが、布石としては大いに意味がある。ある種の小細工だ」
そのような謙遜の言葉とは裏腹に、ヒルデの微笑みは確信を感じさせるものであった。
「小細工にしては大掛かりですがね。――いやはや、このような戦い方があるとは思いませんでした」
深々とレガスは息を吐いた。
「ということは、ご助力いただけるということかな?」
「はい。ただ、条件が一つ」
「言ってみろ」とヒルデが促すと、レガスは商人らしい柔和の笑顔を見せた。
「オルティアの騎兵を雇わせていただけないでしょうか?」
「ほう?」とヒルデは頬を吊り上げた。さりげない口調に反してかなり奇抜な条件だった。
「面白いことを言うものだ。恐ろしくはないのか?」
「彼らを率いたシューマッハ公がそう言うのもおかしな話ですね」
と、レガスは苦笑する。
「正直言えば、恐ろしいです。彼らを使うことで悪評も広がるかもしれません」
「ではなぜ?」
「端的に言えば私の身を護るためですよ」
レガスはあっさりと言う。
「今回、シューマッハ公のご要望にお応えすれば、私は帝国側から目を付けられるのは間違いありません。すると、それに便乗した他商会から恐らく何かの妨害工作を受けるでしょう。商品の移送中に荷馬車が襲われたり、店に火をつけられたり、なにが起こるか分かりません」
続けてレガスは言う。
「ですが、そこにオルティアの騎兵があればどうでしょう。報復を恐れて彼らも大人しくなるというものです」
「なるほど。逆に言えばオルティアを使って、競合相手を襲うこともできるという訳だ」
ヒルデが意地悪く言うとレガスは笑って答えた。
「はは。これは手厳しいですね。ですが、私はあくまで商人。荒事は好みません。自衛のみですよ」
レガスの態度はどこまでも自然だったが、略奪者の代名詞である『草原の悪魔』を使おうという発想そのものが異質であるのは間違いない。彼もまた尋常ではない人間の一人であった。
ヒルデは少しだけ考えるそぶりを見せて言った。
「いい、といいたいところだがあいにく彼らはガラック王国軍の所属だ。私の一存ではどうこうできない」
「存じております。ですので、交渉のための口利きをいただければ十分でございます」
「……条件はそれだけか?」
拍子抜けした顔でヒルデが問うと、レガスは「ええ」と頷いた。
「欲のないことだ。対価にしてはあまりに安すぎると思うが」
ヒルデの疑問にレガスは目を細めた。
「シューマッハ公とは長い付き合いになりそうですので、少し正直にお話ししましょうか」
と前置きを入れて、
「商人のやり方にも色々ありますが、私は目の前の金より、金の生る木が欲しい性分なのです。最初の出費は大きいかもしれませんが、育て方次第で、莫大な益を生み出すことができますからね。ただ、本当にその木が金を生み出すかどうかは後にならないと分かりません。難しいところではありますが、だからこそ面白いのです」
レガスは笑顔で話を結んだ。
「これを投資と言います。単に物と物の取引によって利益を生み出す商売とは少し違う観点の行いです。シューマッハ公も先ほどおっしゃったとおり、同じ道具でも使い方は人それぞれです。価値あるものを必要以上に安く買い叩くのは私の性に合いません。どうかお気になさらずよろしくお願いいたします」