次の一手
セレーナ陥落の知らせはディオルシル川で戦うエリックの下にも伝わった。
「そうか。成功したか」
兵士の報告に対するエリックの反応は最初あっさりしたものだった。戦時における勝利直後の気の緩みは命取りである。将であればなおのことだ。そう思っての自制だった。
が、やはり柄ではない。そう思い直したエリックはすぐに表情を笑顔に変えて兵士に労いの言葉をかけた。
「よくやってくれた。まさに起死回生の勝利だ」
その言葉をきっかけにその場にいた全員が喝采を上げた。
「これで状況は変わりますね」
「ああ。大きな一手だ。少なくとも敵は後背のセレーナの存在を無視できなくなる。こちらが有利になったわけだ」
――さあ、敵はどう動くだろうか。この場からの撤退はまず間違いないだろう。自然な流れで言えば、挟み撃ちされない地点への撤退――セレーナより以北の拠点まで戻って対峙することになるが……。
周囲が明るく湧き上がり、エリックが今後の方針に思いを巡らせていたその時、馬蹄の轟く音が聞こえた。
それはおよそ五十騎のオルティアの騎兵部隊だった。ガラック王国軍の下に到着し、代表者と思われる青年がエリックたちの前に姿を見せた。
「どうした?随分と大所帯じゃないか」
ただの伝令にしては多いその数に意外そうな顔でエリックが問うと、青年も肩を竦めて応じた。
「俺も多すぎるとは言ったんですが……。まあ、こちらを見てください」
そう言ってオルティアの青年がエリックに封書を手渡した。
受取ったエリックは書面の内容に目を通した。一読した後感嘆の息を吐く。
「……なるほど。こいつは重要な話だ」
「どうかされましたか?」
カレンの問いにエリックは「いやあ」と頭を掻いた。
「嬉しい誤算と言うかなんというか。当たり前のことだけど、優秀な味方の存在はとてもありがたいね」
続けてエリックは嬉しそうに指示を出した。
「シューマッハ公に伝えてくれ。承知した。こちらも仕上げの準備に取り掛かるとね。ああ、そうだ。君たちの活躍に期待するとも付け加えてほしいな」
勝敗の結果が再び分からなくなるという奇跡が起こった。
通常であれば、帝国軍の急襲により撃破された時点で連合軍の敗北は決まっていた。だが、その直後にセレーナの奪還という奇襲が成功することで、盤面は大きく変わった。
敵地で後背を脅かされることになった帝国軍は苦境に立たされた。長期対陣を行うには補給が心もとなくなる。その上、川向こうのガラック王国軍が容易に撃破できないとなると選択肢は限られていた。
グラドビッチ将軍は撤退を即決し、軍を北上させた。対陣していたガラック王国軍もその後を追う。しかし、兵数が少ないガラック王国軍に急追する術はない。下手に近づけば、反転した帝国軍に撃破される恐れがあった。帝国軍の半数しかいない王国軍に地形の助けなくして耐えることは不可能であった。
背後からつかず離れずでついてくる王国軍の存在は煩わしいが、帝国軍は無視した。正面から戦う意思がないことは明白である以上、下手に付き合えば時間の浪費にしかならない。
そうなると今後、戦いの主導権を握る鍵となるのが――
「――自由に動くことができ、かつ機動力のある私たちという訳だ」
接収したセレーナの都市庁舎の会議室。ヒルデの説明に部隊長たちは頷いた。勝利直後ということもあって皆表情は明るい。
今後の方針について集められた場ではあったが、議論というほどのこともなく、簡単な確認で決定された。
「――それでは、当初の予定通りセレーナ周辺の都市攻略に向かうとしよう。クセス、ダックストを落とし、可能であれば敵の背後を断つ」
そのようにヒルデがまとめて、部隊長たちはそれぞれ力強い返事で応えた。それらの都市を落とせばその分だけ都市セレーナに対する脅威は減るのだ。守備に向かない騎兵としては、その機動力を活かした攻撃に使いたいところである。さして防御力のない二都市であれば、攻城兵器の持たない騎兵でも攻め落とすことも容易だろうと考えた方針だった。
ボリスが確認するように問うた。
「出発はいつになさいますか?エミールに任せた後続の軍が来るまであと一日ありますが……」
「ここしばらくろくに眠れず動きっぱなしだ。今日一日兵たちに休息を取らせよう」
「承知しました」
「ボルド殿もいいか?」
「ああ」
ヒルデの念押しにボルドが短く応えた。それに対しヒルデは満足そうな頷きを返した。
ボリスは不審に思った。現状をよく踏まえた妥当な判断には違いないのだが、たかが休息一つにこうも嬉しそうなのは意外だった。勝利直後の余裕と捉えることもできたが、ボリスは感じた疑問を素直に問うことにした。
「……あの、ヒルデ様?どうかなさいましたか?」
ヒルデはにやりと笑って応じた。
「なに。少し思いついたことがあってな。うまくいけばいい布石になりそうなのだ」
「布石、ですか?どのような策か聞いても……?」
不敵な笑みと共にヒルデは腹案を明かした。
黙って聞いていたボルドは面白そうに片頬で笑い、「ここではお前が将だ。任せる」という言葉で決定となった。
軍議を終えたヒルデは早速行動を開始した。護衛にボリスとクララを連れ、都市セレーナの市街地の中に入って行く。
いつもならば賑わっているだろう市街地には人の気配が全くなく、建物の扉や窓は固く閉ざされていた。せいぜい町を巡回する兵士の影が時折見えるくらいだ。
その様子にクララが視線をきょろきょろとさせながら言った。
「だーれもいないね」
「無理もない。オルティアがそれだけ恐れられているということだ。いかに彼らの規律が取れていようと、そのまま信じるには危険すぎる」
「……ふーん」
オルティアの脅威を直接知らないラーザイル連邦の人間からすればそのように想像することしかできない。が、住民の反応を見ると『草原の悪魔』の名は伊達ではないことを実感させられた。
「下手な混乱があるよりよっぽどいいと思うべきなのだろうな。住民の気持ちも理解はできるが、明日まで我慢してもらうしかない。――さて、到着だ」
一等地に聳える大きな商館。その門前にいた細身の男がヒルデの姿を認めるや深々と腰を折る。
「お待ちしておりました。シューマッハ公。さあ、どうぞこちらに」
三十代前半と思しき男の名はフリアン・レガス。彼は無一文の行商人から若くして宿泊業や飲食業で最大手の経営者に成り上がったリンド地方有数の大商人であり、今回ヒルデが臨んだ交渉相手であった。