反撃の一手
本命とされるその作戦が動き始めたのは敗戦直後の夜。ヒルデがエリックの陣幕に訪れた時のことだった。
「今、セレーナの守りは薄い。そう私は考えます」
ヒルデの発言にエリックは破顔した。
「説明の手間が省けました。お互い思うところは同じようですね」
まるでそれが当然と言わんばかりの二人のやり取り。だが、実際のところそう簡単な話ではない。敗戦直後に敵地の奥深くにある拠点を奪うという発想は常識から離れたものである。真意を問うべくカレンは恐る恐る口を挟んだ。
「それは……セレーナを攻略するということでしょうか?」
「無論」
短くヒルデは頷いた。
「帝国軍は我々の油断を誘うため兵のほとんどを率いて一度都市セレーナを出た。つまり、セレーナはほぼ空き家同然、多くて数百といったところか。今急襲すれば容易に奪える」
「大尉。少し補足すると、この考えは戦略的価値を意識したものだ。セレーナの場所がよくてね。大きな街道を抑えた位置にあるセレーナを取れば、敵の補給路を遮断しやすい。それに、今の帝国軍の背後を脅かす場所でもある。敵の優位を覆す楔になりうるわけだ」
「ですが、それは可能であればでしょう……!少しでも攻略に手間取れば、その部隊は敵に背後を襲われて壊滅します……!行軍中に見つかる可能性も低くありません。部隊を分けて敵奥地の拠点を狙う作戦は戦史上でも何度も失敗した策だと聞いています。危険が大きすぎます。当然、准将ならご存知かと思いますが……」
「その通りだ。普通にやればね」
「……というと?」
「君たちの協力が必要だ。ボルド、頼めるかな?」
腕を組んで話を聞いていたボルドが片頬を吊り上げ、「ほう」と応じる。
「セレーナまで歩兵では三日だが、騎兵では一日。その速度をもって、セレーナを奪取する。敵に気付かれる前に、対応を取られる前にね」
「……!」
「分かった」
ボルドが短く答えた。
「現地では臨機応変な対応が求められる。進むにしても退くにしてもね。今回相手はギストーヴ帝国軍。重装備の彼らの行軍速度は速くない。とするとだ。何かあったとしてもこちらが騎兵ならば速度をもって対応できる。試す価値は十分にある。そうは思わないか?」
「それは……いえ、わかりました。確かにそれならば、可能かもしれません……」
難しい顔するカレンにエリックは微笑んだ。
「すまない。やりこめようというつもりはないんだ。実際、大尉の懸念は分かる。騎兵を用いたとしてもなお、失敗した時のリスクは大きいしね。君の意見の方が本来的に正しいよ」
「……どういうことです?私が正しいのであればなぜ?」
「そうだな。じゃあ、こう考えてみよう。このまま撤退戦を行った時の問題は何だと思う?」
「……?そうですね。ディオルシル川で攻撃を抑えて、戦力を再結集して反撃を狙う、ということでしょうか?」
「いいね。不利な状況下ではリスクを抑え、忍耐をもって待ち、時期が来れば反撃する。模範だよ。――だが、実際はどうだろう。まとまりに欠く我々に再結集後の反撃なんてことができるだろうか?」
「……⁉それは」
カレンは目を丸くして、答えに窮した。これまでの経緯がその可能性が低いことを示唆している。
ヒルデが呟くように言った。
「無理だな。手痛い敗戦を受けて、もはや反撃する気も起きるまい。リンド地方の貴族たちは自領の防衛に回り、残った我が軍も城に籠るのが関の山だ。何も言わず無断で帰ることすらありうる。日和見の地方貴族が帝国軍に媚び、裏切る可能性を考えると、まともに抑えられるかどうかも怪しいものだ」
「ええ。それに、これから帝国軍が先の勝利に満足して大人しくしているかどうかは誰にも分かりません。なにせ今のところ帝国軍に大きな被害はないわけですから。攻める余力はまだ十分に残っていると言えるでしょう」
「そうだな。私が帝国軍の将ならもう一撃加えておきたいところだ」
そして、エリックはカレンの方に向き直る。
「一般的に、戦うにしろ退くにしろ決断を下す指導者がない状態では組織的な対応がかなり難しい。敗戦した後では特にね。方針不徹底のまま、後手に回り続け、局地的に半端に戦って被害が拡大。そうなることを恐れているという訳だ、私は」
「なるほど……」
カレンは感心する一方で少し複雑な気持ちになった。言われてみれば、当たり前のことである。が、説明されるまでただ奇襲作戦の失敗のリスクしか考えられなかった。
一軍人として用兵学を学んできた自負があるカレンだったが、未だエリックの足元にも及ばない思いだった。智謀でエリックを追い越そうという訳ではないが、せめてすぐに内容を汲み取れるほどには役に立ちたいと思うのである。
ふいにヒルデが拍手を送る。ヒルデにしては珍しく心からの称賛を籠めて言った。
「仕掛けるリスクと何もしないリスクを天秤にかけることも重要、か。さすがです。私は仕掛けることしか考えていなかった。勉強になります」
エリックが照れたように髪を掻く。
「そう言われると少し気恥ずかしいですね。まあ、それはともかくその奇襲部隊の指揮官ですが――シューマッハ公、お頼みできますか?」
その場にいる全員が意外そうな顔でエリックの方を見た。いくら表面上は対等な協力関係にあるとはいえ、主力はガラック王国軍だ。セレーナ奪取の軍もオルティアの騎兵隊が中心となる中、実戦経験少ないヒルデに任せられるものとは普通ではない。
「それは……いいのですか?」
ヒルデが確認するように問う。
「ええ。むしろあなたたちがいなければ成し遂げられぬものです。ぜひお願いしたい」
「私たちでなければ、ですか……?」
「はい。今回の急襲部隊の主力はオルティアの彼らです。ですが、その悪名は仮にセレーナを奪った後、住民たちの不安等悪い方向に作用する恐れがありました。占領後の治安維持や情報収集にも苦戦するでしょう。その点、あなたであれば問題ない。シューマッハ家という名前は広く世間に知られています。先の問題は大きく緩和されるでしょう」
「……そうか。いや、理解しました。私でよければお引き受けしましょう」
そう言いながらヒルデは内心唸った。武一辺倒ではない配慮はまさに智将としての冴えであった。
「ボルドもいいかい?」
「俺は構わない。それがお前の命令ならば従おう」
それから、ボルドはヒルデに向かって「よろしく頼む」と小さく頭を下げた。
「ありがとう――それと、シューマッハ公。先ほどはシューマッハの名声を強調しましたが、無論あなたの指揮能力、判断力の高さを前提として別動隊の将をお願いしたつもりです。取ってつけたような言い方で恐縮ですが」
「いえ、素直に誉め言葉として受け取っておきます。他ならぬ茶畑の軍師からの賛辞として」
すると、エリックが何とも言えない顔をした。
「どうかしましたか?」
「……いや、その、できれば『茶畑の軍師』と呼ぶのはやめていただければありがたいです。どうにも苦手でして」
と、エリックは歯切れ悪く頼むのであった。