河川防御②
遡ることギストーヴ帝国軍との戦いが始まる数刻前。
「リッカーズ准将」
スピネッリ大司教が去った後、ラッセル中将の発した声は酷く冷えたものだった。
「なんでしょう」とエリックは応じた。ラッセル中将の声色からいい話でないことは察せられた。何の嫌味を言われるのだと覚悟していたが、告げられた言葉は予想をはるかに超えたものだった。
「君の策に従ってここまで来た。だが、今こうしてみると思うのだ。本当にこれでよかったのかと」
「……」
信じられない言葉にエリックは唖然とした。目の前に戦いが迫っているというのに、今更何を言うのだ。
「君の知略は多くの者が認めるところだ。だから、私は君の策には常に敬意を払って受け入れてきた。そして、確かにここまでは貴官の予想通りだ。だが、この結果はどうだ。負けて最善だった――そんな話はあり得ない。そうだろう、准将」
ガラック王国軍の将軍としての立場を忘れたのか。まるでエリックの口車に乗せられた結果だと言わんばかりの言い方に温厚なエリックも流石にむっとした。
だが、生来あまり口のうまくないエリックは、特に指摘せず返すことにした。
「……そうかもしれません。少なくとも、帝国軍の動きを見失った時点で、動くべきでした」
ヒルデからの注意喚起はあった。ガラック王国軍の偵察も危険を察知していた。しかし、黙殺したのはラッセル中将だ。
曰く、確証のない情報は連合軍を混乱させる、とのことだった。それを言えば、何をもって確実な証拠と言えるのか。刻一刻と変わる戦場で確証なんてものを待つ暇はないのだ。
エリックはすぐ軍全体で備えるべきと進言した。しかしその進言はすぐに却下された。仕方なくエリックは保険の策をいくつも立てたというのである。
保身に走り始めた上官はエリックの言葉に答えず、なおも続けた。
「今が危険な綱渡りの状態であることは間違いない。作戦を立てたのは君だ。この失敗が何を意味するか分かっているだろうな」
「我が国の威信は失墜します。弁えております、中将閣下」
そちらこそ分かっているのか。もともとガラック王国軍が主導的な立場で連合軍をまとめていれば、ここまで不利な状況にならなかったことを。
すると、ラッセル中将はゆるゆると首を振り、諭すように言う。
「だけではない。分かっていないようだから言うが、君の策によって失敗すれば兵は死ぬことになる。すなわち民が命を喪うのだ。遠い異国の地で。その意味を君はよく理解しなければならない」
ラッセル中将が情けなさそうに大きなため息を付いた。
エリックの非をあげつらうためとしか思えない当たり前の道徳にエリックは深呼吸とともに俯いた。エリックがラッセル中将への上官に対する最低限の敬意を棄て去った瞬間だった。
いくつか不快としか言えない他責の台詞が吐かれた後、最後にラッセル中将はまたしてもあり得ぬことを言った。
「この防衛戦の指揮は君が執れ、准将。私はドールト公と同行し、各地の防衛にあたるとする」
一瞬理解できず、エリックの反応が遅れた。
「……?ああ、ええっと、私がですか?しかし、各地の防衛とはなんですか?」
「准将……。いいか?この敗戦でリンド地方の貴族は揺れている。帝国軍になびこうとする地方領主たちに背後を狙われないよう牽制しつつ、重要拠点の防御を固める必要があるだろう。聖地アレッシアだけは絶対に守らねばならないのだ」
聞こえはいいが、要するに最前線の防衛を人に任せ、自分は他の軍と撤退するということであった。確かに造反防止の牽制は重要だ。しかし、それは将軍自ら行う必要はない。優先度としては川の防衛が何よりも勝る今、撤退に勤しむ他の連合軍に任せて問題ない話だ。
エリックは至極真面目な顔で冗談みたいなことを言うラッセル中将の神経を疑った。怯えを微塵も感じさせない堂々とした態度で、責任を押し付けて自分は逃げる。そして、本人には正しい行いだと本心から思っている。
「……そうですか」、その生返事は智将と呼ばれる男が怒りすらも忘れて理解を諦めた声だった。
「君の策を私は信じる。その期待を裏切らないようにな」
そう言い残して、ラッセル中将は二千の兵と共に撤退する連合軍と同行した。エリックに多くの兵を残したのは恩情なのか、それとも常識が残っていたのか。しかし、やはり将軍としての行動は不可解と言うほかない。
ただ思えば出会った当初から何かにつけ消極的だった。己の手に余る事態にその性分がより顕著に表れ、結果極端ともいうべき自己保身に走るようになったのだろう。
「しかし、却ってよかったのかもしれないな」
そうエリックは思い直すことにした。期せずして、指揮権はほとんど統一された形になったと言えた。よい過程とは言えないが、敗戦の雪辱を晴らすべくいきなり暴走したり、あるいは各軍の方針がまとまらないまま負け続けるようなことにならないだけましだと思えてきた。
――なのだが。
「全く気が重いね。准将の領分を超えている」
エリックは紛れもない負け戦を勝ち戦に化けさせなければならない
これ以上ガラック王国が負け、ドールト公爵領が侵略されると、次に領地を接するのはガラック王国となる。大国同士が領土を接して仲直りなんて例はない。互いの喉元に剣を突き付け合う嫌な緊張の日々を味わうことになる。
国家同士のことなんぞ知ったことかと言いたいところだが、なまじ責任のある立場となった手前そうも言っていられない。そうならないための踏ん張りどころであった。
「敗戦直後の兵力劣勢。士気低下。ちょっと頑張らないと厳しいかな……」
エリックの呟きが聞こえた訳ではないだろうが、小競り合いを続けていたギストーヴ帝国軍に動きがあった。
待機した一部隊、およそ二千ばかりの兵が隊離れ、上流の方に向かって行ったのである。
「リッカーズ准将……!」
カレンの呼びかけにエリックは淡々と応じる。
「見えているよ、大尉。少し遠いが上流の浅瀬からこちらに渡り、挟み込もうというのだろう。当然と言えば当然だが、それにしても迅速だ。全く休む暇もない」
軽口を叩きつつエリックは指示を出した。
「こちらも定石通り迎撃部隊を送るとして、ここはもう少し変化を付けようか。予定より早いけど、例の一手目をここで出すとしよう」
「……え⁉今やりますか?」
驚くカレンにエリックは笑顔で頷いた。
「もちろん。このタイミングだからこそ意味があるんだ、大尉。相手の予定を少しだけ狂わせるためにね。狂わせた分相手も迷うし、あわよくば主導権を取れる可能性もある。こちらの景気付にもなるしね。ここで行動を起こす価値は十分にあるさ」
そして、ガラック王国軍の防衛ラインをおもむろに引き上げさせた。まだ余力がある中でのガラック王国軍の撤退だった。
「……」
グラドビッチ将軍の顔が険しくなる。
戦っていた帝国軍も目が点になる。帝国軍に押されたわけでもないのに、なぜ引き上げたのか。
しかし、その戸惑いは長続きしなかった。いずれにせよ相手が引いたことには変わりなく、その分前に進めるということである。うまくいけばこの勢いで橋を奪取できるかもしれない。
帝国軍はすぐにガラック王国軍の追撃に移った。ガラック王国軍が放棄したバリケードの前に辿り着く。
「破壊して道を開けろ!」
怒号が上がるまでもなく帝国兵は道を塞ぐ荷車に斧を振り下ろし、あるいは押しのけようと力を籠める。しかし、荷車は思った以上に頑丈で、しかも橋に固定したいくつもの金具によってびくとも動かなかった。
こうして手間取っている間にもガラック王国軍を逃がしてしまう。仕方なく帝国軍は荷車を乗り越えて、ガラック王国軍を追撃する。
帝国軍は勢いのまま橋の半ばまで到達した。後半分を行けば、数でガラック王国軍を圧倒できる。そうすれば勝利は確定だ。
ただ、やはりと言うべきかそう簡単にはいかなかった。帝国軍の足はガラック王国軍が用意していた第二陣の防衛ラインに阻まれることになる。最初の小競り合いと同じく、矢の激しさに帝国軍の前進は鈍りに鈍った。
「こんなところかな」
少ししてからエリックは呟きと共に赤い旗を掲げさせた。
赤い旗が目に入った一部の帝国軍はなんだと身構えた。
そしてその答えは、すぐに空から降ってくる。
大量の瓶が投擲され空から降ってくる。呆気にとられた帝国軍だったが、咄嗟に盾を使って身を護った。
防がれた瓶が衝撃でぱりんと割れ、割れた瓶から粘性の液体が飛び散った。不審に思った帝国軍は匂いを嗅いで、すぐにその正体に気づいた。
――油だったのだ。
帝国軍は目を剥いた。次に前を見れば、ガラック王国軍が火矢を構えていた。
「やめ――!」
顔面蒼白になった帝国軍の制止が届くことはなく、ガラック王国軍が矢を放った。火が油に燃え移る。持っていた盾が燃え、慌てた帝国兵は盾を川に投げ捨てた。
鎧の中の衣服に燃え移った兵士はもっと悲惨だった。悶え苦しむように暴れまわり、川を目掛けて身投げした。火が沈下したと喜ぶ間もなく、重い鎧で身体が沈んでいく。あっという間に泡を立てて、溺れ死んでしまった。
ガラック王国軍の攻撃はまだ終わらない。混乱する帝国軍を前にガラック王国軍が次の矢を撃つ準備をしている。
石橋の上に残っている帝国兵は顔色がさっと青ざめた。帝国軍の鉄鎧がどれほど優れていようと、盾がない状態で攻撃を受け続けるには限界があった。
進むべきか引くべきか迷う帝国兵。しかし、もうその頃にはすでに彼らにはその選択肢は失われていた。
突如である。帝国兵の背後からいきなりごうっと炎が燃え上がった。
驚いて帝国兵が振り返れば、先ほど超えた荷車のバリケードから激しい炎が噴き出ていた。荷台から灰になった藁が飛び散り、大量の薪が真っ赤になって転がり落ちる。ガラック王国軍の仕込みであった。予め燃えやすい材料を荷台に乗せ、炎の壁を作ることで攻めてきた帝国兵の退路を断つつもりだったのだ。
前後左右の逃げ場を失い動揺しきっている帝国兵にもはや勝ち目はなかった。万一の活路を求め、川に飛び込む兵士や、破れかぶれにガラック王国軍が突撃を強行する兵士が現れた。
前者は結局ほとんどの者が溺れ、後者は一人残らず撃退された。
最後までどう行動していいかも分からず右往左往する兵士の多くは武器を棄て、ガラック王国軍に投降した。荷車の炎が消えた頃にはすべてが終わった後だった。
「……っ!」
対岸から見守っていたグラドビッチ将軍の側近が僅かに息をのみ、将軍の顔色を窺う。しかし、ガラック王国軍の勝利の歓声が響く中、グラドビッチ将軍は顔色一つ変えず、黙然と戦況を見守るだけだった。
攻撃続行。それがグラドビッチ将軍の判断だった。
帝国軍の衰えぬ攻勢にエリックが感心したように呟く。
「腰が据わっているなあ」
派手ではあったが、軍全体で見れば兵の損耗として大きくはない。それが事実だ。だが、その事実を冷静に受け止められる胆力、そして兵士の動揺を瞬時に収め、引き締める統率力には舌を巻くほかない。
この瞬間、エリックは用意していた三つばかりの小技を諦めることにした。
「ブリック大尉」
「なんでしょう?」
感嘆にもつかぬ息を吐いてエリックは微笑む。
「少しくらい動揺するだろうと思ったけど、流石にかの名将を相手に楽観し過ぎたようだ。仕方ないが、しばらくは無難に我慢比べとするとしようか」
それからエリックは船橋の一部に火を付けさせた。着火燃料を多く積んだ舟は簡単に燃え上がり、その間にガラック王国軍側の船を壊し、あるいは引き上げさせた。意図は簡単だ。渡れぬようにするため以外の他にない。下手な綾を排除し、石橋一つの防御に専念するのである。
燃え上がる船を前にカレンは呟く。
「もったいないですね。折角準備したのに」
カレンの言う準備というのは、先の石橋での戦いに類する策であった。敢えて船橋の守りを緩め、帝国軍の一部を渡りきらせた後、上流から火舟をぶつけて炎上させ、破壊。孤立した帝国軍を包囲殲滅する、というものである。
先の石橋での戦いよりも規模としては大きい。うまくいけば、攻守交替するほどの戦果が得られる可能性があった。
「そうかい?気持ちよく燃えてくれている。見ていて心が洗われるね」
「……どういう心境でそれ言ってます?」
カレンの冷たい視線を受けたエリックが誤魔化すように咳払いした。
「まあ、確かに手間を取らせた人には少し申し訳ないかな。真面目な話、仕方ないところだよ。相手も乗ってくる様子はないし、これ以上は維持する分負担になる」
「守る場所が二つに分かれますからね」
「ああ。それに下手な小細工は却って危険だ。生半可な気持ちで罠に誘おうと手を出せば、いきなりがぶりと噛みちぎってくる――今の帝国軍の統率力にはそんな恐さを感じるね」
策の多くは不発に終わったが、小競り合いの勝利で士気が回復しただけよしとすべきだ、とエリックは自重するように自分を戒める。
――それにだ。
「まだすべてが終わった訳じゃない。それまでは待ちに徹するとしよう」
エリックは意味ありげに呟いた。
ガラック王国軍が守りを固めたのを見て、帝国軍の攻撃も控えめになった。ガラック王国軍の気配を読んだ冷静な判断だった。
すると帝国軍は防御陣地を構築し始めた。ガラック王国軍の抵抗に短期間で攻め潰す困難を悟ったのか、様子見と今後における拠点防衛を兼ねた対応のように思われた。ガラック王国軍もそれに倣うように防御陣地の構築に移った。
互いに睨みあいながら長期戦の準備に入ること二日後。
帝国軍の天幕はある報告を受けて、いつになく騒然としていた。
天幕の周囲の兵士が何事かと目を向ける。グラドビッチ将軍の周囲はいつも張り詰めており、こうした騒ぎはちょっとした事件だった。
しかし、現状はその程度では済まないより大きな事件が起きていた。
グラドビッチ将軍が僅かに目を見開いて問う。
「……なに?」
声は低く抑えられてはいたが、グラドビッチ将軍をしても全くの予想外にあったようだった。
その証拠にグラドビッチ将軍は「それは本当か?」と珍しく問い直したほどである。
同席していた側近たちも首を振り、ありえない、誤報だと口々に言いあう。
だが、兵士の報告は変わらなかった。兵士本人も顔面を蒼白にして信じられない報告を繰り返す。
「間違いありません。都市セレーナが敵に奪われました……!」