表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
65/78

一時撤退

 反撃のための共闘体制を組んだヒルデとエリックだったが、現状は逃げの一手である。

 ギストーヴ帝国軍に敗れた連合軍は夜闇に紛れて撤退を開始した。各軍の被害の大きさが目立つ中、傷の浅いガラック王国軍は誰かに決められたわけでもなく成り行きのままに殿を務める流れとなった。

 敵前からの撤退はやはり困難である。状況としては敵に無防備な背中を晒すのだ。敵からすれば、追えばその背中を切ればいいだけである。これほど楽な戦いはない。

 当然、その危険性は敵味方ともに知っていることである。それだけに、一戦交え敗北してしまった今、死への恐怖心に駆られた兵士の統率は容易ではなかった。最後まで戦っていたガラック王国軍や一部の軍は問題ないが、弱卒の集まりであるドールト軍やはるか遠くの地から遠征に来た貴族軍たちに統率力はなく、生存本能に任せた逃走となっている在り様だった。

 そういった軍は非常に脆い。敵に対してもそうだが、思わぬ人災を招く可能性もあるのである。

 今回で言えば、以前ディオルシル川を渡る際に使った石橋がその危険を起こしうる場所であった。

 逃げようとした兵士たちが我先にとさして大きくもない橋に殺到。助かりたい一心で後続の兵士が前を押すも、押された側も前が閊えている以上どうにもならない。

 結果、躓き倒れた者は群衆に踏みつぶされ、橋から踏み出したものは鎧の重さで溺れ、前と後ろに挟まれた人間は耐えきれず圧死。パニック状態が起こす悲しい人災であった。

 なお、悪いことに混乱は余計な時間の無駄を生み、気が付けばギストーヴ帝国軍に追いつかれてしまう、なんてことも起こりうる恐れがある。そうなればガラック王国軍にも被害が出かねない。

 しかし、エリックは事前に回避策を用意していた。

 それは船橋だった。ディオルシル川の川幅いっぱいに小舟を並べ、その上に板を敷かせ、その上を通って渡れるよう準備をしていたのである。

 そのことをエリックが伝えると、ヒルデは驚いた顔をした。

「敵の動きというのは分からないものだが、味方の動きも盲点だった。まさかそんなものが用意されているとは。いつから準備を?」

「船を集め始めたのはウバルド城攻略が手間取り始めたあたりからですね。いくつか用途を考えていたのですが、撤退用として準備を始めたのはギストーヴ帝国軍の動きが見えなくなったここ数日のことです。私は泳げないのでね。念のため泳がずに済む方法として用意しました」

「なるほど……」

 負けぬための防御陣地構築を優先したヒルデに対し、エリックは負けた後の逃走路の確保を優先したということである。その善悪は一概に言い切れないだろうが、しかし現時点で一番効果を発揮した対策であったのは間違いない。

 撤退を決めたガラック王国軍の手配は周到だった。エリックは残る味方陣営に夜中の撤退をすぐに連絡し、そして地理に長じた現地の案内人を一緒に送った。

「申し訳ないが、以前伝えさせてもらった通り急いで向かってほしい。ことは一分一秒を争う――そういう状態だ。君たちの行動一つが数千の命を救うものだと思ってくれ」

 エリックはそう案内人に発破をかけた。

 ガラック王国軍に言われるまでもなく夜の撤退を始めていた諸将はしかし、敵から逃れたい一心で具体的な行き先を計画していなかったためその案内に安堵した。案内人の後について行けば、大丈夫だろう。先を急ぐ焦りもあって、諸将は一も二もなく従った。

 結果としては、半ば混乱状態にあった撤退の鎮静化に成功した。また、エリックはそれぞれの案内人と事前の撤退路を確認していたこともあって、各部隊の合流に伴う混乱や渋滞も起きず、想定より早く目的のディオルシル川に辿り着くことに成功した。

 一方、その撤退行動はすぐにギストーヴ帝国軍の知るところとなった。そもそも夜どんなに足音を忍ばせていたとしても万を超す集団の動きを隠すことは難しい。その上、偵察兵を放っていたギストーヴ帝国軍はその情報を早々に掴み、時を置かずしてグラドビッチ将軍の下に届けられた。

 しかし、報告を受けたグラドビッチ将軍は「そうか」の一言で終わらせ、追撃の意向を示さなかった。

「追撃はなさらないのですか?」

 その問いを側近は投げかけなかった。

 いかに好機とはいえ、ギストーヴ帝国軍の将兵は疲れ切っていた。また、連合軍に痛手を与えたとはいえ、ガラック王国軍には余力があり、備えがある。夜襲は互いに混乱を起こしやすいこともあるが、無理に帝国軍が追撃をすれば、無秩序な乱戦が始まり引き際を失って被害を増やす可能性があった。

 翌朝、連合軍の影はウバルド城から消えてなくなっていた。

 食事と休息を十分に取ったとなれば、留まる理由はない。ギストーヴ帝国軍は追撃を開始した。

 時を同じくして、川を渡る前で小休憩を挟んでいた連合軍は撤退行を再開した。ゆっくりしていれば、ギストーヴ帝国軍の追撃が来るのは明白である。ディオルシル川を早く渡らねば、あの鉄壁のような重装歩兵の突撃によって背中から川に突き落とされる恐れがあった。生きるか死ぬかの瀬戸際となれば、皆必死だった。

 先を争うように連合軍の兵士は二つの橋を渡った。対岸に到着した後、背後から敵の姿が見えないことを確認して兵士たちは胸をなでおろした。当面の安全は確保された思いだった。

「ラッセル殿!」

 ガラック王国軍の下にスピネッリ大司教が訪れた。大司教の汚れ一つない純白の法衣はこの戦場にあって、ひどく浮いた存在だった。

 ちょうどエリックと今後の方針について話していたラッセル中将は落ち着きを払って応じた。

「スピネッリ大司教。わざわざこちらに来られるとは。どうかされましたか?」

 意味のない質問と知りつつ、ラッセル中将はそう尋ねた。案の定、スピネッリ大司教は眉を逆立てた。

「どうかではありません、ラッセル殿。この敗戦をどうお考えですか。一万五千もの兵を率いておきながらいいように帝国軍にやられとは何たる様!戦場でのあなたの様子を見ておりましたよ。援軍に出るでもなく、動かぬままだったではないですか!」

「……」

 周囲の兵士の目がある中でスピネッリ大司教は抑えきれない怒りを籠めて面罵した。ラッセル中将はその非難を無言で受け止めた。

 スピネッリ大司教も祈っていただけではないか、と反論したいのが本音だが、それが通じるのは宗教色の薄いガラック王国軍内部だけの話である。

 実際のところ、あの場でのラッセル中将はエリックの後詰であり軽々しく動く訳にはいかなかったのである。戦況不利なラーザイル軍を助けたくとも、向かう先は城を挟んだ向かい側であったため、遠回りが必要だった。目の前に敵がいて、間に合うかどうかも分からない援軍を出すことなんてとてもじゃないが現実的ではない。

 ゆえに、少しでも戦術的視点のある人間ならば、ラッセル中将の動きに間違いがないのはわかることであった。ただ、スピネッリ大司教にそういった戦術眼はない。負けたという結果があって、彼にとってその時目についた不可解な行動すべてが悪であったからだ。

「あなたもです、リッカーズ殿。失望というほかありません。智将ともてはやされながらこの体たらく!結果、策一つ立てぬまま、負けではないですか。智将の名が聞いて呆れます。恥ずかしいとは思わないのですか?」

 ――別に自分が智将だと言った覚えはないんだけどな。勝手に期待して勝手に失望するなんて、こっちこそいい迷惑だ。

 その心の声をしまいつつ、エリックも上官にならって無言を決め込んだ。

 こうした手合いに基本、理屈は通じない。極論、今の感情をぶつけたいだけであり、聞きたい筋書きしか受け付けない状態になっているのである。

 まあ、無理からぬことか、と一方でエリックは同情する。どれだけ他人の責任にしようとリーグラント神聖皇国に帰れば面目丸潰れなのは彼も同じなのである。怒りたくもなるだろうと他人事のようにそう納得した。

 スピネッリ大司教に隠れるようについて来ているドールト公の顔色もかなり悪い。一瞬で敗走したドールト公は紛れもなく今回の戦犯の一人である。その時の責任を感じてか、それともこれからの不安を思ってか、たった一日で非常にやつれたように見えた。

 スピネッリ大司教の粘性の強い怒りの言葉は続いた。神が怒っているというより、神の名を借りた個人がただ八つ当たりしているようにエリックは感じた。

 うんざりしつつエリックがラッセル中将に目で問うと、ラッセル中将は小さく首を振った。何も言うなということである。

 怒りの言葉も出尽くしつつあるのを見計らって、ラッセル中将が言った。

「帝国軍の追撃もすぐに来ることでしょう。ここは我らで食い止めますので、大司教におかれましては安全なところおさがりいただきたく存じます」

「当然です。それくらいしてもらわなければ困ります――リッカーズ殿。言い訳の一つもされないのは殊勝な心掛けですが、黙っているだけなら誰でもできます。あなたに悔いるお心があるのならば、起死回生の策の一つや二つ、作っていただきたいものですな」

 隣で聞いていたカレンが憤然とした顔でスピネッリ大司教を睨んだ。エリックはそっと彼女の背中を手で軽く叩いて落ち着かせた。

 一通りあたり散らした後、スピネッリ大司教は神に報告するという理由でアレッシアに戻ると言ってガラック王国軍の天幕から出て行った。

 そのまま帰るのかと思いきやスピネッリ大司教はヒルデの下に訪れた。警戒するヒルデにスピネッリ大司教はガラック王国軍と打って変わって、ヒルデを褒めたたえた。

「シューマッハ公。先の戦い、遠くから見ておりましたが、実に見事でした。あの絶望的な状況の中、異教徒に屈せずそれどころか真っ向から突撃するその心意気!胸が震えました。かつてオルティアの蛮族に立ち向かった聖女クラウディアの勇姿を見た思いです」

 思わぬ激賞に一瞬面喰ったヒルデだったが、スピネッリ大司教の話に合わせることにした。

「ありがとうございます。私が今無事なのも神の奇跡――いえ、それこそ聖女クラウディア様のご加護があったのだと思います。まだ私は死ぬわけにはいかない、戦うべきだ、そう神はお望みになったのかもしれません」

 模範的な信徒を前にしたかのようにスピネッリ大司教は満足そうな顔で頷いた。

「他の方々もあなたを見習ってほしいものです。この後も厳しい戦いが続くでしょう。ですが、神は常に傍で見守っておられます。正しい信仰心を持つ者に必ず救いの手を差し伸べるでしょう」

 励ましの言葉を残してスピネッリ大司教が去った後、ヒルデは真顔で呟いた。

「思った以上に純粋な方のようだな」

 たまたま傍で一部始終を聞いていたエミールはぷっと噴き出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ