死地にあって
シューマッハ軍の苦しさは増すばかりだった。
「うわああああああああああああああああああっ‼」
ドールト軍の兵士がなりふり構わず、安全な場所を求めてシューマッハ軍の陣営に飛び込んだ。一人通れば後の一人が、十人が、百人が続いて走り抜けていく。シューマッハ軍はドールト軍の逃亡兵によって陣を乱され、その後からギストーヴ帝国軍が傷口を抉るように襲い掛かった。
「くっ……‼」
典型的な味方崩れにあった。その事実に後から気付いてヒルデは腹の底がカッとなった。
だが、悔やんでももう遅い。戦の経験がなかったことは言い訳にならない。後悔を怒りの熱量に代えて、だが、頭はどこまでも冷静にこれからの最善を尽くすべく、働かせなければならない。
「くそっ!ドールト軍の奴ら!逃げるどころか邪魔しやがって‼ぶっ殺してやろうか‼」
「文句は後にしろ、お前らっ‼ギストーヴの奴らを何としてでも抑えるんだ‼でねえと全滅だぞ‼」
「でも、このままじゃやばいよ、エミール!前を倒しても後からどんどんやってくる!」
エミールが槍を振るい、クララが矢を放ち続ける。しかし疲労の蓄積は大きく、その動きは精彩を欠いていた。
「ふんっああああああああああああっ‼」
そんな中、ボリスは大剣を振るい、敵を鎧ごとぶった切る。その力強さは苦境にあって頼もしい存在だった。ボリスはギストーヴ帝国の兵をもう一人切り伏せて、戦場全てに聞かせるような大音声を響かせた。
「なんとしてでも持ちこたえろ!援軍は必ず来る!我らの方が数は多いのだ!」
「「「おおおおおおおおおおおおおおっ‼」」」
敗北の恐怖を振り払うようにシューマッハ軍は雄叫びを上げる。ギストーヴ帝国軍を何とか押しとどめているが、気力だけで持たせているような状況だった。
「クララ!矢の威力が落ちている!奥で休憩しろ!――ボリス!悪いが穴を埋めてくれ‼」
「姫様!あたしはまだいけるよ!」
「いいからこっちに来い!それくらいの余裕はある!」
ヒルデのしっ声にクララの肩がビクッと跳ねて、とぼとぼとヒルデの許に向かって行った。ヒルデは厳しい顔で前を睨んだ。その横顔に流れ矢が掠めていく。ヒルデを守る近衛兵たちが慌てる。
「ヒルデ様!」
「無傷だ。気にするな」
「ですが……!ここは危険です!やはりおさがりいただく――」
もう何度目か分からないやり取りをヒルデは最後まで聞かなかった。
「くどい。戦場から離れるつもりは毛頭ないと言っただろう。何度も言わせるな」
「…………」
近衛兵たちは押し黙る他なかった。近衛兵としては気が気ではなかったが、主が戦うと言った以上、全力で守るしかない。
「姫様……」
しゅんとした顔のクララにヒルデは笑いかけた。
「そんな顔するな。問題なら私の方にある。予想していながらこのざまだ。お前はよくやっている、クララ」
「そんなこと……」
ヒルデは優しくクララの髪を撫でた。
「お前の気持ちは嬉しいが、少し休め。回復したらすぐ戻れ。いいな」
「……うん!」
クララは顔を明るくして頷いた。ヒルデは少しだけ馬を前に進め近衛兵に指示を出す。
「シュミット、前線のエミールの部隊と交代だ!――フリッツ!右のハンスが厳しい状態だ!十人ばかり連れて援護に向かってくれ!」
「「……はい!」」
二人の近衛兵が難しい顔をしながらもヒルデの指示に従い、兵を連れて与えられた持ち場に向かう。主を守りたい近衛兵の気持ちはヒルデにも分かるが、今は一兵でも遊ばせる余裕はなかった。ヒルデは自ら出向きたい気持ちでいっぱいだったが、指揮官がそれをすれば、軍全体の指揮を執れなくなってしまう。じれったい気持ちを抑えながら、ヒルデは全体の指揮に専念していた。
「…………」
戦況は悪いが、しかし、最悪ではない。ドールト軍によってできた陣形の穴を血の吐くような努力によって塞ぎ、防御柵や荷馬車による即席バリケードを使って防衛線は維持できている。だが、それがいつまでも続くかと言うと――
「……厳しいな」
数の力は絶対だ。そして勢いは向こうにある。今は抗しえても、やがては大軍による洪水の濁流ごとき勢いによって一兵も残らず磨り潰されてしまうだろう。
「⁉」
新たな地響きにヒルデは顔を上げた。嫌な予感――いや、現実がすぐそこに迫ろうとしていた。
「突撃ぃいいいいいいいいいいいいいいっ‼」
「「「「おおおおおおおおおおおっ‼」」」」
グラドビッチ将軍の第二陣が新手となってシューマッハ軍に襲い掛かろうと平野を走る。
シューマッハ軍からすればそれは絶望的な光景だった。これ以上の攻撃をどう支えろというのか。
兵士たちが浮足立ちかけた瞬間ヒルデは叫んだ。
「構えよおおおおおおおおおおおおおおおおっ‼」
はっと我に返った顔で兵士たちはその叫びに応じて雄叫びを上げる。
「「「「うおおおおおおおおおおおおおおっ‼」」」」
ヒルデの咄嗟の檄によって、何とか全面敗走は免れたものの悪い状態は変わっていない。帝国軍第二陣の攻撃はすさまじく、暴風雨の如き激しさでシューマッハ軍を襲った。吹き飛ばされそうな防御陣を何とか支えようとするも、支える間もなく圧倒的な質量による攻撃に崩れかけていた。崩壊はもう目前だった。
そんな時、最悪の知らせが入った。伝令が顔面を蒼白にして声を発した。
「報告します!ゼーゲブレヒト公が重傷を負い戦線離脱‼戦線を支えきれず撤退する模様……!」
「……っ‼」
胸の内に幾万の罵声が溢れそうになったが、それ以上に進退窮まった現実がヒルデの言葉を奪わせた。クララが心配そうにヒルデを見上げた。だが、ヒルデにはうまく応えることができない。呼吸が止まりそうな錯覚を覚えた。
「ヒルデ様っ‼」
返り血を全身に浴びたボリスの顔は真っ青になっていた。
「これ以上は支えきれません!撤退を‼血路は我らが開きます!」
呆然自失しかけたヒルデがその言葉に己を取り戻して、反発した。
「バカを言うな!ギストーヴ帝国軍と剣を交えているこの状況でどうやって逃げろと言うのだ!」
「無論、殿を置きます!可能な限り時間稼ぎをしますので、ヒルデ様はその隙に」
「なっ……⁉お前たちを盾にしてその間に逃げろと、そう言うのか、お前は⁉」
ここが正念場とボリスは負けじと言い返した。
「そうです!ヒルデ様のお命を守るためならば数百の兵の命なぞ安いものです‼ご安心を、殿は私が勤めますゆえ‼」
「なんだと⁉」
ヒルデは目を怒らせた。しかし、ボリスは怯まなかった。
「あなたはシューマッハ家の希望です‼あなたに死なれては、亡きローベルト様に申し開きができません‼」
「それが――」
どうした、とヒルデが言うより先にボリスはあらんかぎりの声で叫ぶ。
「民もあなたの帰還を望んでいます!」
「っ……!」
民のことを持ち出され、責任感の強いヒルデは言葉を詰まらせた。ふと周囲を見ると、シューマッハの兵士たちがヒルデに注目していた。まさに剣を取り、戦っている兵士もヒルデの言葉を待っているかのようだった。
「撤退は恥ではありません。このような地で命を喪うことこそあってはならいないことです。……お分かりですか。あなたを喪えば民は導を失うのです」
「……」
「どうかご決断を。時間はさほど残されてはいません……!」
――ああ。
ボリスの決死の顔を、兵士の必死の踏ん張りを前にヒルデは却って落ち着きを取り戻す。
そして、反省した。一瞬であったとしても我を忘れ、将としての醜態を晒したことに。
改めて知る。これは負け戦だ。始めからこうなると分かっていた類の負け戦だった。この期に及んで慌てだすなんてどうかしている。こうなればやることは一つ。撤退しかない。当たり前のことだ。
十秒。ヒルデは深い息とともに結論を出す。
「撤退しよう」
ボリスが壮絶な笑みで応えた。
「……賢明な判断です。後は私にお任せください」
背を向けるボリスに「待て」と、ヒルデは制止する。
「何か?」
「撤退はこの場にいる皆でだ。そこにはお前も含まれているぞ」
「まだ、そのような甘いことを……!」
吐き捨てるようにそう言うと意を決したボリスがヒルデに歩み寄る。対するヒルデはこの混沌の極致にあって驚くほど落ち着きを払っていた。
「お前の言いたいことは分かっている、ボリス。何かを切り捨てなければ、生き延びることができない。そう言うことだろう」
「そうです。そこまでお分かりであるならば――」
「だが、単に逃げればいいという訳ではない。ゼーゲブレヒト公が敗走した今、退路が確保されているとは言い難い状態だ。恐らくウバルド城の守備兵がじき、こちらに向かってくるはずだ。現状挟み撃ちにされつつある。我が軍は完全に孤立したのだ」
「……ですが、それでも生き延びる可能性はあります。それ以外の手が他にありますか⁉」
「ある!」
ボリスがはっと顔をあげた。シューマッハの兵たちもその希望の言葉に反応を示した。
「ガラック王国軍だ。この一帯でまだ健在なのはあそこだけだろう。私たちはそこに合流する」
「⁉ですが、ガラック王国軍との間にはギストーヴ兵が⁉」
「敵陣突破だ。それしかない」
「……!」
そう言って、ヒルデは突撃隊形を取るべくして指示を出し始めた。
ボリスは絶句した。それは本当に助かる方法と言えるのか。傷ついた三千弱の兵だけで、視界に充満するギストーヴ兵をかき分けることが、分厚い壁のような陣に穴をあけ突破することが本当に可能なのか。
無謀だ。仮に挟み撃ちにあったとしても、ヒルデを守って後ろに逃げる方がよっぽど確実だ。
やはり止めるべきだと、ボリスが決意してヒルデの背を追いかけようとしたその時、
「いいじゃないですか。俺は賛成ですよ!クラウゼ様!」
「エミール……」
血と汗と土で汚れた額を乱暴に拭いながらエミールは笑いかけた。
「この際、前に行くも、後ろに行くのもそう変わりませんよ。それに殿なんてクラウゼ様を置いて行くようなことしたかないです」
「うん!大丈夫だって!姫様はあたしが守るからさ!最悪、やばそうになったら、姫様連れて逃げるよ!逃げ足だけは自信があるんだよね!」
クララが胸を叩いて言った。
「……やむを得ない。ヒルデ様は私が命に代えてでもお守りすればいいのだ」
「分かってないじゃん!死んじゃだめだよ、もう!」
「そう悲観したもんじゃないと思いますよ。確かに危険でしかないですが、可能性はあるように思えますね」
「……その根拠は?」
エミールがにやりと笑った。
「ただの勘です。――ただまあ、さっきのヒルデ様は昔のラルフと同じような感じだったんでね。大丈夫かなと」
「……」
「何にせよ、決まったことです。変なことを考えず、前だけ行きましょう。この突撃はクラウゼ様がいかに突破するにかかっていますからね。頼りにしていますよ」
守りながら何とか兵を密集させ、突撃陣形らしいものを作り上げる。
ふとヒルデが「ボリス」と名を呼んだ。そして、続けて言った。
「ありがとう。おかげで目が覚めた。生きて帰れたらお前が第一功だ」
「……!」
ヒルデはそれだけ言うと、すぐにシューマッハ軍兵士に呼びかける。
「もはや退路はなく、我らは孤軍となった!助かる方法は敵陣突破して、ガラック王国軍と合流!それあるのみだ!いいか!今から死ぬ気で走れ!何があっても止まるな!なんとしてでも生き残って見せるのだ!」
ヒルデは剣を前に突き出して腹の底から号令をかけた。
「突撃せよ‼」
「「「おおおおおおおおおおおおおおっ‼」」」
シューマッハ軍の動きに、グラドビッチ将軍は「……ほう」と感心したように髭を撫でた。
「ここで前に出るか……面白い……」
半包囲に追いつめたギストーヴ帝国軍だったが、シューマッハ軍の思いがけぬ反撃に包囲網の一角が突き崩された。なりふり構わぬシューマッハ軍の前進は圧倒的に有利なギストーヴ帝国軍も怯みを見せ、攻撃の手が止まり、押され始めていた。
「これは……!あの程度の寡兵で我が軍が押し負けている、だと⁈」
「このままでは陣が破られます!早く援軍を送らねば!」
「慌てるな」
グラドビッチ将軍の歴戦の重みある一言で側近たちがはっと振り返る。グラドビッチ将軍は全く動ずることなく、冷静な口調で言った。
「敵は死兵だ。死に物狂いの相手にまともにぶつかってはならん」
「……?!それでは突破されるに任せるのですか?」
反射的に出てしまった部下の問いにグラドビッチ将軍は顔を険しくした。部下は失言だったかと体を強張らせた。
「そうではない。正面は部隊ごとに密集隊形を取り防御に専念。奴らの攻撃をいなしつつ、通り抜けた後、側面を狙うのだ。シューマッハ軍の勢いはそう長くは持たない。最後の抵抗だ。いずれは潰える」
「は!」
「…………」
慌てて伝令に向かう部下から視線をシューマッハ軍の方に戻して、グラドビッチ将軍は呟く。
「今の戦場だけを思えば、犠牲を抑えるこの手が最適だ。――だが、あとで悔やむかもしれんな。あの時是が非でも殺しにかかっておくべきだったと」