予想できた最悪の事態②
「誤報だろう。奴らは逃げたはずではないか」
「そうだ。それに北上したと聞いてから二日だぞ?そんなバカな話があるか」
そう笑い棄てた諸将だったが、それが本当らしいということを知ると顔を見る見るうちに顔色が悪くなり、実際自分の目でギストーヴ帝国軍の軍旗を見て卒倒しかけた。
「バカな……⁉我々は幻でも見ているというのか⁈」
口にしつつも誰もが夢、幻ではないことを頭では理解していた。だが、受け入れがたい現実が理解を拒もうとしていた。
グラドビッチ将軍率いるギストーヴ帝国軍は長期逗留していた都市セレーナから一度北上したが、連合軍の警戒が解けるだろう地点でその足を止めた。瞬間、索敵の外に出た帝国軍は一日機を窺うようにその場に逗留し、連合軍の動きに変化がないことを知ると一気に高速進軍を開始した。
グラドビッチ将軍の行軍は迅速を極めた。兵士に行軍の邪魔となる補給のほとんどを棄てさせ、兵士に一日分の食料だけを携行して走らせた。通常三日はかかる距離を一日半で踏破する凄まじさで、さらに驚くべきことに脱落者はほとんどと言っていいほど出なかった。
そしてその結果として、連合軍に索敵の時間を与えず、完全に虚を突くことに成功したのだった。
戦う準備万端の帝国軍に対し、連合軍は浮足立った。
泡を食って諸将は急ぎウバルド城の包囲を解除し、兵士に援軍に現れたギストーヴ帝国軍の迎撃に向かうように命じた。しかし、連合軍の混乱は広がるばかりで、ヒルデが用意した僅かな防御柵に取りつくように兵を配置させるのが関の山。とてもではないが軍全体として統制のとれた状態にはならなかった。
意識の外にある攻撃、つまるところほとんど完璧な奇襲を受けた連合軍に戦える準備ができるはずもなければ、間に合うはずもない。無論帝国軍は大人しく待つわけがない。
「攻撃せよ」
厳としたグラドビッチ将軍の号令一つでギストーヴ帝国軍は動き始めた。
帝国軍が誇る鉄鎧で身を固めた重装歩兵。その重厚な突撃が連合軍に襲い掛かる。
帝国の豊富な資源あっての重装備は他国には容易にまねできない特徴の一つであり、帝国軍の重装歩兵隊の突撃は凄まじい突破力で有名だった。弓矢の攻撃は軽く弾き飛ばし、生半可な抵抗を物ともしない。あらゆる障害を跳ね飛ばして、敵陣を突破する様は『不動の鉄壁』と評されていた。
最初の被害者は運悪く――それとも必然だったか、ギストーヴ帝国に近い場所に陣を構えていたドールト公の軍だった。標的を定めたギストーヴ帝国軍が凄まじい勢いでドールト軍に襲い掛かる。
そこで驚くべきことが起こった。ドールト公の陣は帝国軍とぶつかるより早く簡単に崩壊し、蒸発するように形を失っていったのである。
ドールト公の傭兵たちは、グラドビッチ将軍の帝国軍の到来と同時に敗北を瞬時に悟った。自らの命を第一に考える傭兵たちの頭から戦うという選択肢は完全に消え失せ、逃走の一択となった。その結果、一戦もせず軍が分解するというある意味では芸術的な珍事が起こった。
軍を率いる誰もが目を疑う中、ドールト公とその周囲は混乱の中にあって迷いはなかった。
「ここは駄目だ!早くガラック王国軍に救援を請わねば!」
ドールト公はそう言うと、自軍の収拾など最初から選択にも入れず、潔いほどの逃げっぷりを発揮し、ガラック王国軍の下に僅かな側近と兵士を連れて馬を走らせた。
こうしてドールト軍六千の集団はそれこそ幻のようにいなくなってしまった。その様を眺めていたヒルデは思わず呻いた。
「なんという脆さだ……」
ドールト公の兵士の質の悪さは知られていたが、その弱さは想像をはるかに下回っていた。時間稼ぎすらできず、勢いだけを敵に与えることになってしまった。さらに悪いことに――
「陣が破られた。ガラック王国軍との連携が取れなくなったか……」
ドールト軍はガラック王国軍とシューマッハ軍の間に位置する中央にいた。その軍が崩壊した今、ガラック王国軍からの援護は期待できず、シューマッハ軍は半ば孤立する事態となってしまった。
「回り込まれる恐れすら出てきました……どうします?」
ボリスがやや緊張した声で問う。想定していたとしても、実際に敗北の気配を前にして落ち着いていられる人はそういない。ヒルデも内心では動揺していたが、それを振り払うように剣を抜き、激を飛ばす。
「無論、迎撃の準備だ!なんとしてでもこの勢いを食い止めねば連合軍全体が崩壊する!」
「「「「「「おおおおおおおおおおおっ‼」」」」」」
ヒルデの兵士たちは力強く応じた。ヒルデは頼もしさに胸が熱くなった。だが、意思だけで勝てるほど状況は甘くない。すでに形勢は数の有利を失いつつある。
ヒルデは前もってあるだけの防御柵を陣の前に置いて、簡単な防壁を作らせていた。その効果がどれほど発揮することか。
そうこうしている内にギストーヴ帝国軍の凶刃が目前に迫っていた。
ドールト軍の崩壊後グラドビッチ将軍率いる帝国軍の次の標的はシューマッハ軍とガラック王国軍に切り替わった。ガラック王国軍は攻城戦に参加せず偵察に力を入れ、ギストーヴ帝国軍の襲来に備えていただけのことはあって陣形を整えることには成功していた。
「まさかここまであっけないとは。しかし、ある意味でこれは自領の守りを数合わせの傭兵や他国に依存してきた結果なのかもね。こうはなりたくないものだ」
軍の配置的にガラック王国軍の先陣を担当することになったエリックがドールト軍の消滅の速さに笑いながら頭を掻いた。
カレンは眉を顰めたが何も言わなかった。あいにくだが、エリックとは違って軽口に付き合うほど精神的に余裕のある状況ではない。
「笑ってもいられません。シューマッハ公と分断されました」
「そうだね。我が軍は数に余裕があるが、三千ばかりのシューマッハ軍は厳しいだろう。援軍を出したいところだが、ここからだと距離的に少し難しいかな。ここはラーザイル軍同士の連携に期待するしかないね」
「……」
味方の心配をしている場合でもない。想定より早い敵の高速進軍によってガラック王国軍とて準備不足であり、言うほどの余裕があるわけではないのだ。
「リッカーズ准将!ドールト公の兵士たちが敵軍と入り乱れてこちらに来ています!」
兵士の報告にエリックは嫌そうなため息を付いた。
「仕方ない。前線のクロスボウ隊に命じてくれ。とりあえず警告とともに牽制射撃だ。このまま進路を外れるなら良し。それでなければ、二射目は構わない。撃て」
温厚なエリックから出たとは思えない冷徹な命令に兵士が動揺した。
「……!しかし、それでは味方も撃つ恐れが……」
「ある意味では敵だよ。下手に何もせず勢いのまま受け入れようとすれば、我々の陣が逃亡兵に乱され、ギストーヴ帝国軍のつけ入る隙となる。それにドールト公の傭兵たちには悪いが、命令のない敵前逃亡は普通死罪だ。我々の兵の命と天秤にかけるまでもない。――大丈夫だ。責任は私が取る」
エリックの命令は直ちに実行された。驚いたドールト公の兵士たちは驚いて、「味方だ!味方だ!」と連呼した。しかし、ガラック王国軍はエリックの命令を遵守し、迫りくる敵味方の軍勢を追い払い続けた。
「待て待て待てぇええええええええっ‼我々は味方だ!――うおっ⁈危なっ⁈リッカーズ殿っ!リッカーズ殿ぉおおおおおおおおっ‼助け、助けてくれええええええええっ!」
その声の主がドールト公のものだと気付いたエリックは心の底から感心したように言った。
「……すごいな。責任の欠片もないようなすがすがしさで、臆面もなくひたすら助けを求めている。私もあれくらいふっきれれば、降格できるかもしれないな」
「こんな時に変な冗談はやめてください。――しかし、いかがしましょうか?さすがに助けないわけにはいかないと思いますが」
エリックは微笑で応じた。
「ああ、その通りだ。陣形を崩す訳にもいかないからクロスボウ兵の応戦は継続するとして、少し難しいが部隊を展開するような形で派遣して個別に収拾しよう。折角だ。運よく周囲にいるドールト公の兵士たちも可能な限り誘導しようか」
エリックの指揮の下、防衛戦としての体裁を保っているガラック王国軍だったが、ラーザイル連邦の主力を率いるゼーゲブレヒト公は苦戦を強いられていた。
「ぐっ、これまでずっとひき籠っていた癖に煩わしいっ‼」
ギストーヴ帝国軍の援軍に驚いたゼーゲブレヒト公が攻撃の手を止め、兵の引き上げを命じると、呼応するようにウバルド城の守備兵が引き上げる兵の背を狙うように打って出たのだ。
問題があったのはゼーゲブレヒト公の対応だった。ゼーゲブレヒト公の指示はただの引き上げで、守備兵の反転攻勢を完全に失念していた。その意識の薄さがウバルド城からの攻撃をもろに受けることになってしまったのである。
連日の城攻めで疲弊しているのは帝国軍だけではない。ゼーゲブレヒト公の軍も不利な地形からの攻撃で帝国軍以上に傷ついていた。万全ではない上に、ゼーゲブレヒト公の軍は思わぬ反撃に不意を突かれ完全に出遅れてしまっていた。被害が増えていく自軍にゼーゲブレヒト公はぎりりと歯噛みした。
「ええい!小癪な‼敵が守りを棄てるならば好機ではないか!反撃だ!奴らを後悔させてやるぞ‼」
そう吠えるとゼーゲブレヒト公が大振りの大剣を抜いてウバルド城の兵士との戦いに身を投じた。力任せに振りぬかれた横殴りの一刀がギストーヴ帝国兵の首を捉え、鮮血と共に勢いよく吹き飛んでいく。続いて叩きつけるような袈裟斬りが二人目の兵士の身体を右肩から体の半ばほどを豪快に引き裂いた。
しかし、ギストーヴ帝国の兵は勢いを失わなかった。名のある豪の武将がいると見たウバルド城の守備兵は射手をずらりと高所に揃えて、ゼーゲブレヒト公を狙い撃ちにした。
ゼーゲブレヒト公はむきになって、供回りの兵を連れて突貫した。それは一時的にウバルド城の守備兵との戦いを均衡に持ち込むことに成功したが、一方で怒りのあまり戦いの全容を見失った様相を呈していた。
ゼーゲブレヒト公の兵九千余りがウバルド城に釘付けになり、グラドビッチ将軍の攻撃にまったく対応できなくなってしまった。ドールト軍が崩壊した今残る軍は、スピネッリ大司教傘下の兵二千と周辺貴族たちの五千が残っていたが、予想外の形勢に躊躇い、取るべき動きを決めかねてしまった。
全体の指揮を執る総司令官がいれば、寡兵でギストーヴ帝国の攻撃を支えているシューマッハ軍に援軍を送るなり、あるいは有利なガラック王国軍を援護し、反転攻勢に向かわせたかもしれない。だが、命令を送るべき司令官のいない七千の軍勢は無意味な傍観者となり果ててしまった。
だが、それも無理からぬことであった。スピネッリ大司教を除く、周辺貴族の軍勢五千は小集団の集まりに過ぎない。仮に貴族の一人が五百の兵を率いて援軍に向かったとして、誰もついてこなければ大軍に為すすべなく押しつぶされる。その初動が勝利に結びつくとしても、誰が好き好んで自らを捨て石になるだろうか。
「神よ……!どうか我が軍に神のご加護を……!」
スピネッリ大司教は敬虔な信徒の一人として祈りを捧げた。傍の神官たちも大司教に倣って祈りを捧げた。
もともとスピネッリ大司教の軍は安全な後方から連合軍を督戦する部隊であった。スピネッリ大司教の祈りは確かに彼の役割を忠実に果たすものであったかもしれないが、麾下の兵二千が動けば戦況は大きく有利に変わっていたかもしれない。祈るだけであったがゆえにそれぞれの戦場で戦うガラック王国軍とシューマッハ軍はより苦しくなっていったのは皮肉というべきかもしれない。
連合軍としては悪夢の、帝国軍としては理想の戦況を作り上げたグラドビッチ将軍は馬上から戦場を眺めながらふと呟いた。
「よく戦っているものがいるな」
側近が目を瞬かせた。グラドビッチ将軍の称賛は滅多にあるものではなく、この有利な状況下でそんな言葉が出てくるとは思わなかったのだ。
健闘している軍は二つあった。一つはガラック王国軍。事前にグラドビッチ将軍が警戒していた茶畑の軍師ことエリックが指揮する軍だった。ギストーヴ帝国の猛攻をいなすように応戦している。地形的にギストーヴ帝国から低い不利な位置にありながら、形勢は現状ほぼ互角。反撃に出ることこそ難しそうだが、まだ余力があるように感じられた。
もう一方はシューマッハ軍だった。たった三千ばかりの兵で懸命に防衛陣を支えている。馬上で指揮を執る紅蓮の髪の少女がその中心にいたのを見てグラドビッチ将軍は尋ねた。
「あれは……指揮官は誰だ?」
側近が答えた。
「ヒルデ・シューマッハ。ローベルト・シューマッハのご息女で、最近シューマッハ家当主の座を継いだようです」
「そうか。あれがあの男の……」
一瞬感じた懐かしさを一呼吸の内にしまい込み、何事もなかったかのようにグラドビッチ将軍は命令を出した。
「あそこが穴だ。第二陣を投入しろ」