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漠然とした不安

 連合軍の快進撃は止まることなく、北上が続いた。

「このまま行けば問題なく全て取り戻せそうですね」

「そうですな」

 特に大きな被害もなくうまく領土を取り返せているとほくほく顔のドールト公に対し、スピネッリ大司教は不満足そうだった。ことが上手く進んでいるのは悪いことではないが、彼の求めている勝利の形は神のご威光によってギストーヴ帝国軍を完膚なきまでに打ち破ることにあった。ギストーヴ帝国と直接戦うことなく戦争が終わるようでは肩透かしもいいところである。

「いやあ、ギストーヴ帝国に侵略された時はどうなるものかと思いましたが、所詮は異教徒。神アルネスタの威光に恐れをなしたのか、手も足も出ないようですね。ああ、神よ!あなたの慈悲深きご加護に感謝申し上げます」

 その神への賛美は信心から出た言葉というよりも、考えなしの楽観から発しているようであった。スピネッリ大司教は軽い不快感を抑え、言い聞かせるように窘めた。

「ドールト公。まだ戦いは終わっていません。都市セレーナにギストーヴ帝国軍がいます。彼らを打ち破らねば、真の安寧が戻ったとは言えないでしょう」

「確かに……!これは失礼しました!大司教のおっしゃる通りです。油断せぬように気を付けるとしましょう!」

「今すぐギストーヴ帝国軍がいる都市セレーナに攻めたいのは山々ですが、いきなりは難しいでしょう。もどかしいですが、目の前の城を一つ一つ攻め落とすことが一番の近道です。どうかドールト公も励まれてください。その善行を神はご覧になられているでしょう」

「おっしゃる通りです!ならば、次は私が先陣を務めるとしましょう!神よ!ご照覧あれ!」

 ドールト公は興奮したように意気込んだ。前に出ることに躊躇していたドールト公だったが、勝ち戦の気配に今ならば武功を立てられるのでは、という欲が生じてきたようだった。

 しかし、ドールト公の言うことはいつも調子がいいものの、何ら実を伴っていない。スピネッリ大司教は眉を顰めて話半分で受け止めたのだった。


 連合軍は北進を続け、ヒルデたちは北部リンド地方の半ばを分断するように流れるディオルシル川の前に辿り着いた。

 川を渡す石橋の上を連合軍が長大な列を作って歩いて行く。無論、石橋一つで四万もの軍勢を一気に渡すことは不可能であり、結果、石橋の前には渋滞が出来ていた。

 石橋以外に渡る方法と言えば、舟を使うか、浅瀬から行くかが考えられる。しかし、前者は軍勢を運ぶだけの舟を用意できないこと、後者は付近に浅瀬はなく、下手に別れて移動するくらいなら橋を渡る順番を待つ方が楽だという理由で選択肢から自然と消滅したのだった。

「暇です。姫様」

 開口一番、唇を尖らせて言ったクララ。そして間髪入れず彼女の頭をエミールが叩いた。もはや御約束事ともいえる寸劇にヒルデは苦笑した後、ディオルシル川の方に視線を戻した。

 川から心地よい風が吹き、ヒルデの炎髪を揺らす。ただ真面目な話、クララの気持ちも分からないでもなかった。

 シューマッハ軍は連合軍のほとんど最後尾に回されたこともあって、あと数時間何をするでもなく橋を眺めるしかできないことが確定している。クララでなくとも文句を言いたくなるだろう。

 ただ、問題は今の待ち時間が暇だという話だけではない。

「慣れぬ遠方の異国の地。現状いるはずの敵が居すくまったまま、戦いらしい戦いもなく北上するだけ。気の持ちようが難しくなる、か」

 軍全体の話としてヒルデは漠然とした危機感を感じていた。

 軍が集結した瞬間にあった緊張感が保ちきれず、どこか浮ついている。敵地にあって決してよい兆候とは言えない。浮ついた気持ちはやがて気の緩みに繋がり、ゆくゆくは軍全体の士気が低下、そして致命的な油断を招くこととなるのである。

 そこまで考えて、ヒルデは反省するように小さく頭を振る。

「いかんな。どうも考えが後ろ向きになり過ぎているようだ」

 確かに士気の弛みは問題の一つだが、全体で見れば、それほど大きな問題でもなければ、何も今すぐどうこうという話でもない。敵が目の前に現れれば、否応がなしに緊張感を取り戻すというものだ。

「ボリス」

「は!」

 ヒルデの呼びかけに短くボリスが応じた。

「悪い。そう構えずともよい。単に雑談をしようと思って声をかけたに過ぎない」

「それにしては、険しい顔をされていましたが……」

 ボリスに指摘されヒルデは目を瞬かせ、自省するように苦笑した。

「そんな顔をしていたか。他意はないんだ。ただ、どうにもこれまでと勝手が違うせいで、気が立って仕方がなくてな」

 意外そうにボリスは眉を上げる。

「いえ、気が立っているというほどの印象ではありませんでしたが……。しかし、それはもっともなことです。戦場で気を張らせるのは当然。むしろヒルデ様は落ち着き過ぎているほどです」

「そうか?そう見えるならば、いいのだがな」

 そこでヒルデは大きな息を吐いて、

「つくづく思う。戦とは実に難しいものだ」

「それはそうです。簡単な戦などありはしません」

「ふふ。そうだな。戦争というのは当たり前だが、敵がいて初めて成立する。その敵が黙って負けを認めることはないからな。互いに全力をかける以上、勝敗は分からぬもの。必勝、というものがあれば、そもそも戦争は起こりえない」

 ヒルデの独白のような言葉が続いた。

「今回の戦いだってそうだ。聖戦、といっても勝利が約束されている訳ではない。だからこそ我々は勝利を手に入れるため、人事を尽くすのだ。だが……」

 ヒルデの顔が僅かに曇った。

「今までは私の指示一つ動けていたところが、今回は部隊の一つでしかない。自分の力だけでは動けぬあたり、何とも歯痒くてならん」

「……」

「悪いな。詮無きことを言った。お前を困らせるつもりはなかったのだ」

 一瞬、迷うそぶりを見せたボリスだったが、意を決して口を開いた。

「ヒルデ様。出過ぎたことを言いますが、この連合軍の勝敗の全責任がヒルデ様にあるわけではありません。無論、一軍の将として全力を尽くさねばならないでしょう。ですが、必要以上に責任を感じ、抱え込むことはないかと愚考します」

 ヒルデは目を丸くして、明るく破顔する。

「なんだ、心配してくれるのか、お前は」

 言葉にされ、改めて気恥ずかしくなったボリスが難しい顔で頷いた。

「ありがとう。だが、それでも負ければ民が命を落とす。私の気苦労一つでその命が少しでも救われるならば安いものだ。そう思わないか?」

「……そうかもしれません」

 ヒルデが去った後、ボリスはため息を付く。

「……ヒルデ様はお優し過ぎる」

 責任感の強さは上に立つ者の資質として美徳だ。だが、ヒルデはその気持ちが強すぎるあまり、自身に厳しく、追い込んでしまうきらいがあった。

 民を想うヒルデの優しさには誇らしく、また頼もしくもある。が、自己犠牲の精神を発揮し、潰れてしまうようなことだけはないようにしてほしい。そう切にボリスは思うのであった。

 しばらくして、ようやくヒルデたちに橋を渡る番が回ってきた。

「ようやく来たあ。待ちくたびれて死ぬかと思ったよ――わあ、すっごい!ここから見える景色めちゃくちゃきれいだよ、姫様!」

「はしゃぐな!前見ろ!前を!」

 クララが澄み渡る青空をくっきりと映した川面を指さし、エミールが窘める。

 ヒルデは笑って答え、同じく流れる川に視線を送る。

 リンド地方の一番の名所と知られていたその景色は確かに掛け値なく美しいと言えた。聞くところによると、建設に尽力した初代ドールト公ファビオは絶景を眺めに晩年よくここを訪れていたようだ。確かにその気持ちも分かるような気がした。

 が、将としてのヒルデにはその景色が別の物として映るのである。

「何をお考えですか?」

 ボリスの問いにヒルデは微笑を浮かべた。

「この川の戦術的意義について少しな。川幅は百メートルほど。流れは緩やかだが、川底は深く、徒歩で渡るには厳しい。ドールト軍にもう少し力があれば、この川を防御ラインとして防衛戦を行えただろうと思ってな」

「え?姫様、この景色を見て、そんなこと思うの?」

「美しいとは思うよ。が、戦に来ている以上、必要なことだからな」

「真面目……!大変だね、姫様も。でも、もう少し肩の力抜いたら?エミールみたいに目がこんななっちゃうよ?」

 眦を指で吊り上げさせて、クララは変顔を披露する。エミールは舌打ちをした。

「俺みたいは余計だ。というか、お前は肩の力抜けすぎなんだよ。――たっく、まあそれはそうとすみません。今更かもしれませんが、川が防御ラインって教えてもらっていいですか?正直俺にはいまいちピンときていなくて……」

 エミールが頭を掻いて教えを乞う。ボリスが説明を買って出た。

「そうだな。まず橋がなく、こちらから攻める場合で考えてみるのがいいかもしれないな。その時、川を渡るためにはどうする?」

「……まあ浅瀬を探して渡るとか、泳ぐとか?」

 するとヒルデは意地悪い笑みを浮かべた。

「ふふ、エミール。お前はこの川幅を泳げるか?鎧を着たまま」

「……無理ですね。鎧がなくても俺にはできません。他は、そうですね。舟を使うとか、とかですか?」

ボリスは頷いた。

「そうだ。浅瀬を使う手段はともかく他は地面がない状態での移動で自由が利かない。それに、川岸には地面があって、我々の着陸を待ち構えている敵がいる。エミール。お前はその状況はどう見る」

「……めちゃくちゃ嫌ですね。待ち伏せしたところをタコなぐりじゃないですか」

「その通り。そして、川を渡る際も、遮るものを持たない我々は無防備だ。敵の弓兵にとってすれば、まさに狙いたい放題という訳だ」

「……やば」

「そう。矢の雨の中、渡河を行うことは想像以上に難しい。今回も同じことが言える。唯一ある橋も大軍が展開できるほど広くはない。防御に専念すれば少数の兵でも対応可能、ということだ」

「はあー、そういうことですか……。でも、ドールト軍が弱いからそれもできず、ここまで攻め込まれた、と。そんなところですかね」

「それは――」

 明言を少し躊躇ったボリスに代わってヒルデが答えた。

「その通りだ。悲しいことにな。つい先日ガラック王国軍に攻め込まれた我らと同じような状況、ということだ」

「なるほど。ようやく分かったような気がします。ありがとうございます。お前はどうだ、クララ――ってそりゃあ聞いちゃいねえか」

「え?何か言った?」

「なんでもねえよ」

 諦めたようにエミールは乱暴に頭を掻いた。

「理解が早いな。ではもう一つ私からいいか?」

「え?なんですか?俺、今のでいっぱいいっぱいなんですが……」

 身構えるエミールにヒルデは苦笑した。

「なに、大した話ではない。少しばかり補足だ。――この川が防御陣地として有効なのは説明の通りだ。とすると、だ。今攻め込まれているギストーヴ帝国軍の視点で立てば、どうだろう。この川が防御として使えるのは敵も同じ。これ以上町や城を奪い返されないためにもギストーヴ帝国軍としてはここで迎え撃つのが自然。そうは思わないか?」

 エミールが目を瞬かせた。

「ああ、そうか。確かにそうですね。守りの拠点として使えるのは俺たちだけじゃない」

「そう。だからこそ今疑問が残る。最悪、誘い込まれている可能性もあるかもしれない」

 エミールたちが揃って驚く。

「⁈ちょっ、え?それってまんまと罠にはまっているってことですか⁉」

 ヒルデは少し笑って首を振る。

「まだそうと決まったわけではない。ギストーヴ帝国軍の動きが分からないからな。最悪の想定。その一つといったところだ」

 ほっと胸をなでおろすエミールに、ヒルデは気を引き締めるように付け加える。

「だが、川というものは超える前は優れた防御陣地になるが、超えた直後は背水の陣、退路が塞がれた形になる。その危険性があることに変わりはない。気にし過ぎかもしれないが、ひとまずその意識を忘れないようにしなくてはな」

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