不協和音
軍の集結の完了をもってドールト公は軍議の参集を呼び掛けた。ラーザイル連邦から少し遅れるという連絡があり、集まった面々は声一つ出すことをためらわせる異様な空気の中をもうしばらく耐えることになった。
その主な原因は日に日に不機嫌さを増していくスピネッリ大司教にあった。ここ数日、軍議では建設的な話が何一つなく、ドールト公は言を右往左往するばかりで、何ら進展はない。今まさに自領が侵略されているにも拘らず、策を講じるわけでも、戦の準備をするでもなく、落ち着きなく周囲のご機嫌伺いばかりに奔走している。見かねて苦言を呈せばただ平謝りするばかり。それがスピネッリ大司教の苛立ちを一層募らせる元となっていた。
問題はドールト公だけではなかった。軍議に同席するリンド地方周辺の貴族領主たちの意見はまちまちで、ギストーヴ帝国に近い領主はいち早い救援を求める一方、当面の危険はない南方の領主は興味ないと言っていいほど消極的だ。頼りにしたいガラック王国軍のラッセル中将は意見を求めても、微笑むばかり。なんとしてでも言質を取られまいとする意志がそこにはあった。
どうしていいか分からず救いを求めるようにドールト公は一人そわそわしている。しかし、彼に手を差し伸べる者はいなかった。肝心の神の忠実な僕であるスピネッリ大司教は今にも怒りの炎を吐きそうで、とてもじゃないが声をかけられない。
それらを嫌な現実から目を逸らすように半ば他人事の心境で観察していたエリックは小さなため息を付いた。まとまるどころではない。まとまる気のない集まりでしかなかった。戦略とは全く異なる繊細な調整能力が求められていた。ただの歴史好きの軍人もどきを自称するエリックにとっては荷が重いどころの話ではなく、どうにも先が思いやられる光景だった。
「失礼。お待たせしましたな、皆々様。遅れて申し訳ない。少々野暮用に時間を取られておりました」
筋骨隆々とした偉丈夫――ヴォルフガング・ゼーゲブレヒト公爵が野太い声を発して会議室の沈黙を打ち破る。詫びる言葉とは裏腹にゼーゲブレヒト公は堂々としたもので欠片も謝意は感じられない。
スピネッリ大司教の眉がピクリと動いたが、何も言わなかった。ドールト公は沈黙の気まずさから救われたように立ち上がる。
「いえいえ、ようこそいらっしゃいました。ゼーゲブレヒト公!どうぞこちらに」
「おお、これはかたじけない、ドールト公!この私が来たからにはもう安心です。我が精鋭がギストーヴ帝国の山猿どもを蹴散らせて御覧に入れましょう」
「なんと!ゼーゲブレヒト公、そのお言葉にどれほど勇気づけられることか!ありがとうございます!」
「はっはっはっ!どうか大船に乗ったつもりで構えられよ!」
豪放に笑いながらゼーゲブレヒト公は空いた席に着いた。その目が対面のスピネッリ大司教を捉え、僅かに侮蔑の色を見せた。僧侶風情が何しにここに来た。教会で祈っていればいいものを、物好きにもこんなところに顔を出すとは。なあに、血の流れる戦場を目の当たりにすれば卒倒するに違いない。
スピネッリ大司教も鈍くはない。その感情は明確に伝わり不快そうに眉を顰めた。だが、戦い前に内部分裂してはならないという良識によって、表に出さないように抑え込んだ。
「して、もう一人のシューマッハ公は?」
スピネッリ大司教が問うとゼーゲブレヒト公は芝居がかったような薄い笑みを見せた。
「ああ、どうやら遅れているようです。女というのはとにかく支度に時間がかかるものですからな。大方そんなところでしょう。――まったく戦をなんだと思っているのか。どうか許されよ。後で戦が何たるかを私の方からきつく言っておきますゆえ」
自分が遅れたことを棚に上げて、ゼーゲブレヒト公は強く頷いた。同席する諸将に向かってゼーゲブレヒト公は呼びかける。
「シューマッハ公のことは気にせずとも結構!たかが女一人のために貴公らをこのままお待たせする訳には参りませんからな。さあ、軍議を始めましょう」
「黙って聞いていれば聞き捨てなりませんな、ゼーゲブレヒト公」
それは氷の刃がすっと胸元に入っていくような冷たく静かな少女の声だった。
エリックははっとして声の主の方に向いた。それは他諸将も同じで、一瞬にして全員の視線が彼女に集中する。いや、させられた。
彼らの目に入ったのは人目を惹く銀と紅蓮の甲冑姿をした鮮やかな炎髪のヒルデ・シューマッハ。ガラック王国軍を僅かな軍で撃退したという恐るべき少女が意味ありげに微笑んだ。
「あなたからの連絡では二時間後に軍議が開催だったのですが、どういうことでしょうか?」
ゼーゲブレヒト公が大きなため息をついた。億劫そうに忌まわしげな目を向け、ヒルデを不機嫌そのもので返す。
「言いがかりをつけるな。私はそんなことを言っていない」
「なるほど。では、何らかの手違いがあったのでしょう。おおよそあなたの部下が間違えて二時間後の時間で連絡してしまった、そんなところでしょうか?しかし、それでも先ほどのお言葉は傷つきますね、ゼーゲブレヒト公。まるで私一人をのけ者にしたいかのよう。困りますな。戦前に皆様にあらぬ誤解をさせてしまうではありませんか」
なるほど、これがかのシューマッハ公か。
静かな戦意に満ちた鋭い瞳。常在戦場を思わせる隙のない佇まい。並々ならぬ胆力を感じさせる力強い言葉。何よりも人を否応なく引き付ける存在感。
エリックは内心唸った。先のガラック王国軍との戦いにおける勝利はまぐれではない。間違いなく本物だ。歴史に名を残すだろう本物の英雄が目の前にいる。短い間でエリックは強く確信した。
「……貴公、どこにいた?」
「離れの方で待っておりましたとも。貴方が入られてからはタイミングを見計らっておりました」
すると、ゼーゲブレヒト公は周囲の目も憚りなく舌打ちをした。ヒルデの目が一瞬険しくなる。
「遅れておきながらつまらぬことを……早く席に着け」
「無論そのように。このような行き違いは些細なことです。ですが、次からはご注意願います。何せ今は一致団結の時ですから」
軍議が終わり、憮然とした顔で自らの宿舎に戻ったヒルデはその怒りをぶつけるかのように猛烈な勢いで指示を出し、仕事を片付けていった。
「………………」
彼女の背中から燃え上がる炎が幻視されるかのようだった。そしてふいに思い出したように時折机を定期的に指で叩いては無言で空を睨んでいる。
「怒っている……なぜだか知らんが、めちゃくちゃ怒っているぞ……!」
エミールがこわごわとドア越しに様子を窺う。ボリスも憂いた顔で頷いた。
「先ほどの軍議。よほどのことがあったのだろうな……。ゼーゲブレヒト公とは折り合いも悪い」
「なるほど、そういうことですか……」
シューマッハの家臣たちは誰が言い出したでもなく、触れない方針を固めていた。実のところここにいる家臣たちは感情的に怒りを露わにしているヒルデが初めてで、どう接していいか分からないのが実情だった。
別段、怒っているだけでそれ以外は特に問題なさそうではある。ただ、主人がずっと怒っていると一緒にいる家臣として気まずいものは気まずい。いっそ感情的に怒鳴ってくれた方がまだ分かりやすくていいかもしれない。
「こんな時、ラルフがいればなあ……」
ラルフならば構うことなく小ばかにしたように懐に入って、その怒りごと笑い飛ばしてしまうのだろう。だが、当のラルフはシューマッハ領の居城ゲールバラの留守を預かっていた。ヒルデが遠征に出ている以上、不安定なシューマッハ領を守る存在は必要不可欠だった。
「ボリス!話がある。そこにいないで早く入れ」
「はっ!直ちに!」
ヒルデの鋭い声にボリスは弾かれたように向かった。抑えていても幾分棘のあるヒルデの指示をボリスは直立不動で受ける。その様を後ろで見守りながら、どうしたものかとエミールが頭を捻っていると、
「姫様、姫様~っと。さっきめちゃくちゃ面白ことがあって、トーマスがさあ、火吹き芸しようとして――って、あれ?どうしたの?なんでそんなにキレてんの?」
ヒルデの護衛役として同行してきたクララ・ヒッツが勢いよく現れて心底不思議そうに尋ねた。尋ねた相手は当のヒルデ本人である。
空気を読め、空気を!というエミールの心の叫びはさておいて、その行為はいい方向に転がった。ヒルデは一瞬眉間に皺を寄せたが、大きな息とともに肩を落とした。
「ひどい軍議だったんだ。始まる前からのゼーゲブレヒト公の嫌がらせも大概だったが、その中身もまた聞くに堪えんものでな。一分一秒ごとに私の忍耐が試されているかのようだった。まるで拷問だ。あれではゼーゲブレヒト公の望み通り、参加しない方が幾分よかったかもしれない」
「……何があったんです?」
さりげなくエミールが会話に入ってきた。
「講演会だ。軍議とは名ばかりのな。ギストーヴ帝国への非難ばかりで終わったよ。スピネッリ大司教とゼーゲブレヒト公が特にひどかった。大司教の説法は一度始まれば延々と語り続けるし、ゼーゲブレヒト公はゼーゲブレヒト公で口やかましく中身のない威勢のいい言葉ばかり。それでいてドールト公もガラック王国軍も何も言わない。この上なく、無駄な時間だった。何のための軍議か。うんざりだ、まったく」
「おお、珍しく愚痴っぽいですね……」
基本、己を律しているヒルデがこうも感情的に愚痴を言うのはエミールにとって新鮮であった。怒っている理由もまた生真面目なヒルデらしいというか、思ったよりも陰湿な話ではなさそうだとエミールは少しほっとした。
一方、急に気恥ずかしくなったのかヒルデは改めるように軽い咳払いをした。
「悪かったな。まあ、ともかくあれだ。それほど酷かったのだ」
クララがうんうんと頷いた。
「なんか難しいことあったみたいだけど、要するにお偉いさんの話が長かったんだね。分かる。分かるよ!あたしもエミールの話が長くてうんざりすることいっぱいあるもん!もう聞いたよ、それ!っていう感じ!」
「いや、お前の場合、毎回忘れているから何度も念押しして説明しているんだろうが!何度言わせんだよって言いたいのはこっちの方だからな⁉」
「忘れちゃうものは仕方ないじゃん。それにラルフも言っていたよ?」
「何を?」
「あたしの場合は他に覚えてくれる人がいるから大丈夫!だってさ!」
「ラ、ラルフっ……!」
バカみたいな漫才のやり取りにヒルデは朗らかに笑った。意図してのことかどうか、ともかくクララのお陰で先に感じていた怒りを洗い流すことに成功したのだった。
「それでこれからの作戦というのは?」
場も和やかになり、ボリスが仕切り直して尋ねた。ヒルデは机の上に広げた地図を指で示しながら答えた。
「こちらの軍の数は約四万。その兵をもって、北部の奪われた城を奪還。ギストーヴ帝国軍は二万の兵数だ。二倍の兵数である我らにまず決戦を挑まないだろう。仮に会戦があったとしても兵数の多さをもって勝利は容易い、というものらしい」
「なるほど。大雑把ではありますが、妥当、といったところですか。何か問題でも?」
「……」
大枠の方針としては自然だ。大軍をもって敵にあたるのは用兵の基本である。少し何を言うべきか考えて、ヒルデは言う。
「それは――」
時を同じくして、エリックもその答えを口にしていた。
「四万の兵を統率する総司令官の不在。まとまる気のない連合軍同士の連携の難しさ。兵の練度の違い」
エリックは指折り数える。そして何か思い出したかのように付け加えた。
「あと強いて言うならば、抽象的に過ぎる作戦方針だ。現時点では大枠の方針でも問題ないだろうが、いざ敵軍が接近したとなれば迅速な決断が必要になる。そんな時今のように周囲に意見を求め、調整している余裕があるはずない。いやあ、頭が痛いね」
冗談めかしてはいるが、エリックの声には深刻な響きがあった。カレンは怪訝そうな顔をした。
「最初二つは分かりますが、兵の練度の違いとはなんですか?」
「聞いたことはないかい?ギストーヴ帝国軍の兵一人はドールト公のリーグラント神聖皇国軍三人に相当するらしいよ」
カレンはああ、と納得したように声を上げた。
「確かに。そのような話は聞いたことあります」
「誰が言い出したか分からないものだけどね。要するに、それほどドールト公の兵は弱いってことだ。まあ、仕方ない。基本、まとまった兵を持たない彼らは戦争の度にその場しのぎに傭兵を雇うわけだが、その実態は盗賊崩れ。教会が特別に保有する聖騎士団を除けば、まともな戦争経験がない者がほとんどだ」
「ですが、我らの軍はドールト公ばかりではありません。ガラック王国軍は一万五千。ラーザイル連邦軍からは一万三千の援軍として来ております。いずれもギストーヴに劣る弱卒ではありません」
エリックはにやりと笑った。
「確かに大尉の言う通りだ。身内びいきかもしれないけど、我が軍の兵も中々だからね。ギストーヴ帝国と同じくらいだろうか。ラーザイルはまちまちと言ったところかな。しかし、見たところそう悪くはなさそうだ。その我が軍とラーザイルの軍はともかくドールト公のような弱い味方というのは戦いでは容易に突破できてしまう穴なんだ。これが厄介でね。扱いに苦労するんだよ。――とりあえず、見た目以上の実力差がないことは分かってほしい。特に寄せ集めの軍というのは手痛い一撃を受ければ脆いものだ。この戦い、楽観するには危ない条件が多すぎる」
「……そこまで分かっておられるのであれば、何か提言されては?聞いた印象では総司令官の不在がそもそもの根本的な問題のように聞こえますが……」
「したさ、ラッセル中将にね」
「では――」
エリックは肩を竦めた。
「駄目だってさ。ガラック王国軍はあくまで援軍の立場に徹する、かといってラーザイルの下風には立たない、とさ。ドールト公やリーグラント神聖皇国には従いこそすれ、基本は矢面に立たないらしい。――釘を刺されてしまったよ。軍議では余計なことを言わないようにってね」
「……」
実は、ラーザイルの援軍が到着して初めて行われた軍議の後、エリックはラッセル中将に敗北の可能性が高まっている状況を含め、改めて総司令官の必要性を説き、ガラック王国軍がその任を受けるべきではないか、という進言を行った。が、結果はカレンに言った通りに首を横に振られてしまったのである。
ただ、ラッセル中将の気持ちも分からないでもなかった。総司令官を選出しようとすれば――間違いなく揉める。ドールト公が心もとない今、候補はラッセル中将かゼーゲブレヒト公だ。仮にラッセル中将が手を上げれば、あのプライドの高いゼーゲブレヒト公が黙っていないだろう。しかし、それを押し通すつもりがラッセル中将にはない。不安材料や面倒ごとが山積みのこの戦いで総司令官の役はあまりに魅力がなさすぎた。
かといってゼーゲブレヒト公に任せられるかと言えば、否だ。戦の経験がないではないが、その実力は甘く見積もっても可もなく不可もなく。それでいてあの傲岸な態度で総司令官に立てば、いらぬ軋轢を生むことは容易に想像できる。
結果、候補者ゼロ。明確な消去法でエリックは総司令官の選出案を大人しく諦めることにしたのである。
エリックは心持ち真面目な顔をして言った。
「苦労することになりそうだ、大尉。こういう時、大事なことは人任せにしないことだ。いつでも自分で判断して行動できる余地を残しておく必要がある。下手に他人任せにして歩調を合わせようものなら共倒れしかねないからね」
「……戦う前から負けるような言い方ですね。これも予言ですか?」
「予言じゃないさ。最悪に備えた準備だよ。そのために密な情報収集を頼みたい。偵察兵もなるべく多く出してくれ」
「承知いたしました」
カレンは短く頷いた。ガラック王国軍の誇る茶畑の軍師の行動は常に先を見据えたものだった。その行動や発言が例えどんなに突飛なものだったとしても、オルティア戦役を共に戦った軍人なら誰もが信頼を置いていた。
「ああ、そうだ。ギストーヴ帝国の偵察はオルティアの騎兵部隊に任せよう。彼らの得意分野だ」
カレンがくすりと笑った。
「早速人任せですか?」
「頼れる味方であれば、どんどん頼るべきだよ。それが効率的だからね」
あっけらかんとエリックはそう言ったのだった。