不本意な聖戦
争いの火種とはどこにでも転がっているものだ。
この世界にある国々はミランダ王を宗主国とするラーザイル連邦とガラック王国だけではない。サンサリオール海を支配する海の覇者、商業都市国家アストル。多くの国で国教とされているアルネスタ教、その総本山である宗教国家のリーグラント神聖皇国。広い大地を支配し、豊富な鉱物資源を有する北方の雄、大国ギストーヴ帝国。
小さな国々は他にあれども代表的な国家は五か国に絞られる。そのどれもが聖人君子の国という訳ではない。いがみ合い、牽制しあい、裏で手を握って他国を追い落とす。利害一つで関係が歪み、戦いの大義が転がれば、簡単に戦争が始まってしまう。
それを醜悪と取るか、自然の摂理と取るか。ただそれをどう捉えるにしても、目の前に起きている事象に変化はない。
「ヒルデ様、リーグラント神聖皇国から使者が来られています。至急お目通りいただきたいとのことです」
ヒルデは眉を顰めたがすぐに許可を出した。リーグラント神聖皇国に対するヒルデの知識はさほどない。簡単にまとめてしまえば、古い伝統にしがみつく頭の固い宗教国家であり、しかし敵に回すとこの上なく厄介な組織ということだった。
ここ数か月のヒルデの動きに目でもつけられたかと思わぬでもなかったが、会わないことには始まらない。若干の身構えをしてヒルデは使者を謁見の間に通させた。
白い法衣を身に纏う神官の使者がヒルデの前に姿を現した。至急と呼び出した割には顔に焦りはなく、それどころかシューマッハ公爵であるヒルデに対して高慢さすら感じさせるような態度だった。
不快は不快だったが、ヒルデはそれを抑えて使者の至急の用というものを聞いた。滔々と述べられた使者の言にヒルデは半分だけ納得した。
「援軍要請ですか」
「はい。重ねて申し上げますが、リーグラント神聖皇国の領内を侵そうとギストーヴ帝国の軍が南進しました。知っての通り、かの帝国は強大です。その地を治めるドールト公だけでは兵力が足りません。シューマッハ公におかれましては、至急軍を率いて救援に向かっていただきたい」
半ば命令するような言い方で使者が言う。納得がいかないことがヒルデにはいくつがあったが、ヒルデにとって使者の態度がその最たるものであった。
――援軍要請。
ヒルデは口の中でもう一度呟いた。
はっきり言えば、はた迷惑な類のものだ。見も知らぬ他所のいざこざに好んで入りたい人間はそうはいない。ましてや今は内政に注力すべきところ。短期間ではあったが、数か月の間に二度戦いがあった。この上もう一度、しかも異国の地となると民の負担は増すばかりである。
だからといって、援軍を送らない理由がないでもない。相手はギストーヴ帝国。大国だ。放置して、リーグラント神聖皇国が敗北し、弱体化すれば、今度はラーザイルに矛先が向くかもしれない。ラーザイル連邦の盟主――ミランダ王のシルヴェスターを一早く滅ぼしたいヒルデにとって、それはそれで困ったことになる。
ヒルデは即答を避けて、ちらりとラルフの方に視線を向けた。
謁見の間で同席するラルフは面白そうに使者の方を見るばかりで何も口を出しはしなかった。
気楽なものだ。何を考えているのやら。
少しの羨望を感じていると使者が口を開いた。
「シューマッハ公。言うまでもないことですが、これは聖戦です。単なる国家間の争いではありません。ギストーヴ帝国は唯一神アルネスタを崇めぬ異教徒の国家。その異教徒の軍勢が我らの同胞の地を侵し、信徒を殺そうとしている。これほど胸が痛むことはありません。我らは一致団結して守らなくてはならない。あなたもアルネスタ教の信徒。躊躇う必要がどこにございますか?」
援軍を依頼する立場で虫の良すぎる論理を並べておきながら、十六歳の少女に道理を言って聞かせるような口調だった。
ヒルデはぴくりと僅かに柳眉を逆立てた。
下に見るようなことに今更腹を立てるヒルデではないが、面白いわけではない。使者にとっては、成り上がりの小生意気な少女にしか見えないかもしれないが、しかしヒルデは由緒正しきシューマッハ公の名を継いだ貴族であり領主であるのだ。
貴族という身分を廃そうとするヒルデではある。が、貴族か否かとは別にヒルデにはラーザイルを治める当主としての面目もある。援軍を頼むならば、それ相応の敬意は払ってしかるべきだ。
「どうかなされましたか?もしや内容が難しかったでしょうか?」
「……………」
ヒルデの目が一層冷えを見せた。ヒルデが声を発しようとしたその時だった。
「しかし、使者殿。これは考えようによるのではないでしょうか?」
沈黙を守っていたラルフが口を挟んだ。使者の胡乱な目が声の主に向けられた。
「考えよう?どういうことです」
「今、神は試されているのではないでしょうか。神聖皇国の民による信仰の力を。その地に住まう者全てをかけて戦い抜けと言う神の啓示なのではないでしょうか?」
「はあ?」
ラルフは至極真面目な顔を作って舌を動かした。
「聖戦の勝ち負けは信仰心の強さそのものと聞いたことがあります。ドールト公の信心深さが如何ほどなものか、神は測ろうとなされている。そう思われてなりません。ここで我らが出向けばその試練の妨げになります」
「何をいきなり……試練?適当なことをおっしゃらないでいただきたい」
「適当も何も私は本気です。何をもって適当とされるのか」
「その言、すべてがです。神のご意思は危機に瀕しているアルネスタの信徒を助けるため結束し、異教徒を撃退すること。それのみです」
「なぜ、それがわかるのです。あなたがその意思を直接確認されたということでしょうか?」
使者はむきになったように返した。
「いえ、私ではありません。ですが、ほかならぬ教皇猊下のお言葉です。神の代理人である猊下のお言葉は絶対です」
ラルフは腕を組んで悩ましそうに眉を寄せる。
「なるほど。しかし、『信徒の結束』についての解釈は難しいですな。結束する信徒がどこなのか。ドールト公だけか、あるいは、それともすべての信徒を指しているのか……改めて確かめなければなりませんな。間違って神のご意思に背けば何が起こるか……聖都リースターに使者を送りましょう。その確認ができぬ限り動くのは見合わせた方がよいかもしれません……」
「先ほどから聞いていれば屁理屈ばかり……!そのようなことをしている間に民は蹂躙されてしまいます!聖都までどれほどの距離があるかお忘れか⁉」
ラルフはわざとらしく頭を抱えた。彼の目は笑っていた。
「ここからだと聖都まで馬で走らせたとしても片道二十日といったところですか。ですが、ああ、どうしたことか。神のご意思に逆らうなど考えただけでも恐ろしいものです」
「ラルフ、もうよい」
「は」
使者の額に青筋が立ったのを見てヒルデが止めに入った。ラルフは澄ました顔で大人しく口を閉じた。先ほどの遁辞が本気ではなく、ただのからかいに過ぎないのは明白だった。溜飲の下がったヒルデは満面の笑みで言った。
「なかなか面白い話だった。だが、勝手な発言は良くない。後で覚悟をするように」
「……何のかはあとの楽しみとしておきましょう」
ヒルデは使者の方に向き直る。ラルフのお陰でいつもの平常心を取り戻していた。
「私の騎士が失礼した。事情は理解した。が、私の一存では決められぬことだ。すぐにミランダ王陛下にご裁可をいただくとしよう」
前向きな答えに使者は当たり前だと言わんばかりの顔をする。そしてその後、使者は意外なことに首を振った。
「ご心配には及びません。すでにご許可を頂きました」
「……ほう。それは早いことだ」
ならば、それをもっと早く言ってほしかったものだ、という言葉をヒルデは胸にしまう。王の決め事であれば、意に染まぬものであったとしてもヒルデは従う外ない。
「じき、ミランダ王陛下からその旨の連絡が来られるでしょう。改めてご確認されればよろしいかと」
それから、と使者はまたしても恐るべきことを付け加えた。
「ガラック王国と講和も無事まとまりました。かの国からもまとまった援軍が送られることでしょう」
「講和?いつの間に?」
つい一月前には戦いがあったばかりだ。それがこうも簡単に講和が成立するなんてことがあるだろうか。
思わず席を立つヒルデ。その動揺は大なり小なり他の面々も同じであった。一人、使者は当たり前のように返した。
「聖戦を前に過去の諍いなど些事。事の重要性を理解された両王陛下はともに快諾されました。実に喜ばしいことです。シューマッハ公も過去のことは水に流し、同じアルネスタの信徒として共に戦いましょう」
それでは、と用件を伝え終えた使者が謁見の間をせかせかと出て行った後、ラルフは肩を竦めた。
「なるほど。神は偉大だ」
ラルフはそう茶化したものの、リーグラント神聖皇国の影響力のすさまじさを垣間見た思いだった。
リーグラント神聖皇国の使者の言葉に嘘はなかった。使者の援軍要請から数日後、ミランダ王シルヴェスターから、ガラック王国と講和が成立したことの連絡と急ぎドールト公の援軍に向かうようにという指示が届いた。
「此度はゼーゲブレヒト公がラーザイルの指揮を執る。シューマッハ公は軍を率いて、ゼーゲブレヒト公の補佐を行うように」
「謹んで拝命いたします。吉報をお待ちください」
鷹揚に頷く王の使者が帰る。ヒルデは鋭い視線を居並ぶ家臣に向けた。
「戦い続きだが、こればかりは致し方ない。先の予定通り、ドールト公爵領を救援するとしよう」
ラルフが軽口を叩いた。
「しかし、恐ろしいものだな。あのガラック王国軍と共に戦う日がこうもすぐ来るとは。昨日の敵は今日の友という言葉があるが、こうも唐突だと――いやはや、狐につままれた気分だ」
黎明の狼の義賊時代から引き続き、シューマッハ家の裏方を取り仕切るエミールが難しい顔をする。
「とはいえ形式上でも講和が成立したのは事実。――実際、ガラック王国側がどう思っているか気がかりですね。我々は勝利した側ですので、恨みはないですが……」
「一応の文明国で通っている奴らのことだ。本心がどうであれ、約束事を一方的に反故にするような非常識な真似はしないだろう。が、多少の警戒は必要だろうな。なんにせよ、奴らの情報収集は怠らないようにしよう」
「はい。仲間に連絡を取ってみます」
「ありがとう。とはいえ、一番重要な情報はギストーヴ帝国に関することであるのは間違いない。現地での情勢を大よそ把握したいが、伝はあるか?」
ラルフが答えた。
「いくつかはあるが、あくまで協力関係だ。無理をさせない程度であれば問題ないだろう。――エミール、連絡を取ってくれ」
「わかった」と頷くエミールをヒルデは労う。
「苦労を掛けるな。今回の戦いでは負担が大きいかもしれないがよろしく頼みたい」
エミールは胸を叩いた。
「お任せください、ヒルデ様。ラルフの無茶ぶりで鍛えられた俺たちにとってみればお安い御用です」
「頼もしい言葉だ。ありがとう。さて、今回の援軍の総指揮だが、幸いにも私ではない。――ふふ。大方貴族どもが、女に兵を率いさせては面子が立たない、とでも騒いだのだろう。意図はどうであれ、好都合だ。兵力は無理のないように三千程度に絞るとしよう。副将が将軍より兵を率いるわけにもいかないからな」
ラルフが鼻を鳴らした。
「我らだけではないとはいえ、やや心細い数だな。三千とはつくづく縁のある数字だが、ゲン担ぎだったりするのか?」
「……たまたまに決まってんだろ、ラルフ。兵数のゲン担ぎなんて聞いたことねえ」
「民にこれ以上の負担はかけられませんからな。その分我らが全力を尽くせばいいだけのことです」
シューマッハ家の古参であり、精鋭部隊を率いる近衛兵長となったボリスが答える。彼としても主を守る兵力は可能な限り増やしたいのが本心であり、実際そのように意見したのだが、ヒルデに説得されて渋々頷いたのだった。
ヒルデは立ち上がる。
「さて、お前たち。戦準備に戻るとしよう。ドールト公はともかく、その民は一刻も早い助けを必要としているだろうからな」
「「「は‼」」」
その翌朝、ヒルデは三千の兵を率いて、ドールト公爵領に向かった。