つかの間の休息
『鮮血公女』。ロットシュタット城攻防戦の勝利がまぐれでないことを示したヒルデの二つ名がより広く知れ渡った今、ようやくラーザイル西部は平穏が訪れた。
シューマッハ領居城のゲールバラ。その庭園でカンカンと軽やかに乾いた木がぶつかる音が響いている。
「はっ!」
ヒルデが短い気合とともに鋭く切り込んだ。真剣ではない木剣だ。領主の仕事に一段落付けたヒルデは体を動かしたいとラルフに稽古を頼んだ。
ラルフは二つ返事で引き受けた。連日多忙を極める二人は会議や執務で何度も顔を合わせているが、仕事以外での接点は皆無といってよかった。目まぐるしい毎日に少しばかりうんざりしつつあったラルフとしては願ったりかなったりであった。
ラルフとしては主の剣を見るのは初めてだった。エミールや他の部下からは生半可な実力でないことを知らされているが、果たしてその実力やいかに、と内心浮き立つ思いがあった。
そして今、ラルフはその前評判に偽りがなかったことを知る。剣の腕が主としての力量の全てでないことは確かだが、それでもこれから武を用いて成り上がろうとする主の剣の冴えは嬉しいものがあった。
とはいえ、やはりラルフの方が一枚も二枚も上手である。
ラルフはヒルデの一撃を器用に柔らかく受け止めると、ヒルデに緩やかではあるが油断ならない速度で反撃を返した。さてどうする我が主よ、とその目は語っていた。
ヒルデはその切り返しに身を沈めて躱すと今度は突きを放った。
詰められた間合い、そこから伸びる点による攻撃をラルフは慌てることなく称賛の口笛を吹いた。ただ、だからといってラルフにとってみれば捌けぬものではなかった。
打ち落とし、切り払い、受け流し。当たり前のようにヒルデの攻撃の数々に応じている。挨拶返しとラルフも何度か剣を振るうが、ヒルデもまた慌てることなく迎え撃った。流れるような攻防はまるで事前に整えられた舞台の一幕のようで、観客がいればその美しさに心を奪われたことだろう。それほどに絵になっていた。
「ふう」
言葉のない剣の対話を終え、ヒルデは息を吐いた。しばらくぶりに体を動かした充足感に満足しつつ、ヒルデはペトラから受け取ったタオルで汗を拭った。
ラルフが軽口を叩く。
「いやいや大したものだ。感服したぞ、我が主よ。何度もひやりとさせられた」
「ぬかせ。お前は本気ではなかったくせによく言う。私は全力だったというのに」
不満ではない。むしろ剣を一つ交えるごとに何かを教えられているような奇妙な感覚はどこか新鮮で、ここしばらくなかった楽しさをヒルデは感じていた。
ヒルデは口元をほころばせた。そして、ペトラの用意したグラスの水を飲み干した。
「自分の腕に自惚れがあったわけではないが、これほど差があったとはな。いい勉強になった。逆に問うが、お前はどこでその剣の技を磨いたのだ」
「ただの我流だ。強いて言えば、俺の部下にも色々な流派がいるから暇を見ては習ったりはした」
ラルフは肩に担いだ木剣を自在に振り回しながら、「悲しいことに流派の名前は何一つ憶えていないが」と薄く笑う。
「なるほど。技の引き出しが多そうだと思ったが、そういうことか」
「まあ、そんなところだ。剣以外にも槍や弓も使う。大抵の武器ならばそれなりに扱う自信はある。いざという時に、武器を選ぶ暇なんてないからな」
ふむ、とヒルデは思案する仕草を見せた。
「確かに。戦場では何が起こるか分からない。剣だけでは心もとない、か。私も鍛錬の時間を増やすべきだな。弓はあまり触ったこともないし、修得せねばならん。うむ。クララに一度教えてもらうと……ん?どうしたその顔は」
呆れた顔をしたラルフが大袈裟に肩を竦めた。
「いや、なに。我が主は根っからの真面目人間だということを改めて知ったまでのことだ。結構なことだが、ほどほどにな。俺が言うのもなんだが、たまには息抜きも必要だぞ」
「……?変なことを言う。息抜きだろう、これは?」
冗談でも何でもなく不思議そうにヒルデは言う。
珍しく何ともいえない顔をしたラルフが後ろに控えるペトラに視線を送った。ペトラは目を伏せて無言で首を振るばかりだった。
「我が主が本心でそう思われているのならば、そうだろう。――全く、こいつは教え甲斐のある生徒だ」
やれやれとラルフはそうまとめたのだった。